六
こう暑くては猫といえどもやりきれない。皮を脱いで、肉を脱いで骨だけで涼みたいものだとイギリスのシドニー・スミスとかいう人が苦しがったという話があるが、たとい骨だけにならなくともいいから、せめてこの淡灰色の
これでは一手専売の昼寝もできない。何かないかな、ながらく人間社会の観察を怠ったから、きょうは久しぶりで彼らが
いよいよ来たな、これできょう半日はつぶせると思っていると、先生汗をふいて肩を入れて例のごとく座敷までずかずか上がって来て「奥さん、苦沙弥君はどうしました」と呼ばわりながら帽子を畳の上へほうり出す。細君は隣座敷で針箱のそばへ突っぷしていい心持ちに寝ている最中にワンワンとなんだか
「おやいらっしゃいまし」と言ったが少々
迷亭はそんなことには
「しかし
「時に御主人はどうしました。相変わらず
ところへ主人が、いつになくあまりやかましいので、寝つきかかった眠りをさかに
「あなたも、あんな帽子をお買いになったら、いいでしょう」としばらくして細君は主人に勧めかけた。「だって苦沙弥君は立派な
迷亭君は今度は右の
「奥さんこれがぼくの自弁のごちそうですよ。ちょっと御免こうむって、ここでぱくつくことにいたしますから」と丁寧におじぎをする。まじめなようなふざけたような動作だから細君も応対に窮したとみえて「さあどうぞ」と軽く返事をしたぎり拝見している。主人はようやく写真から目を放して「君この暑いのに蕎麦は毒だぜ」と言った。「なあに大丈夫、好きなものはめったに
ところへ寒月君が、どういう了見かこの暑いのに御苦労にも冬帽をかぶって両足をほこりだらけにしてやって来る。「いや好男子の御入来だが、食いかけたもだからちょっと失敬しますよ」と迷亭君は衆人
「寒月君
寒月君はちょっと句を切って「なに、そんなに御心配には及びませんよ。金田でも私の珠ばかり磨ってることはよく承知しています。じつは
「ぼくのもだいぶ神秘的で、
「その時分のぼくはずいぶん
迷亭の
「ぼくの失恋も苦い経験だが、あの時あの
「昔は亭主に口返答なんかした女は、一人もなかったんだって言うが、それなら
「ほんとうさ。現にぼくのおやじが
寒月君は返事をする前にまず
ここへ東風君さえ来れば、主人の
「どうもごぶさたをいたしました。しばらく」とお辞儀をする東風君の顔を見ると、先日のごとくやはりきれいに光っている。頭だけで評すると何か
主人も少々談話の局面を展開してみたくなったとみえて、「どうです、東風さん、近ごろは傑作もありませんか」と聞くと東風君は「いえ、べつだんこれといってお目にかけるほどのものもできませんが、近日詩集を出してみようと思いまして──稿本を幸い持って参りましたから御批評を願いましょう」とふところから紫の
世の人に似ずあえかに見えたもう
富子嬢にささぐ
と二行に書いてある。主人はちょっと神秘的な顔をしてしばらく一ページを無言のままながめているので、迷亭は横合いから「なんだい新体詩かね」と言いながらのぞきこんで、「やあ、ささげたね。東風君、思い切って富子嬢にささげたのはえらい」としきりにほめる。主人はなお不思議そうに「東風さん、この富子というのは、ほんとうに存在している婦人ですか」と聞く。「へえ、この前迷亭先生とごいっしょに朗読会へ
主人は無言のままようやく一ページをはぐっていよいよ巻頭第一章を読みだす。
霊か相思の煙のたなびき
おお我、ああ我、
あまく得てしか熱き口づけ
「これは少々ぼくには
「先生おわかりにならんのはごもっともで、十年
主人はなんと思ったか、ふいと立って書斎の方へ行ったがやがて一枚の半紙を持って出て来る。「東風君のお作も拝見したから、今度はぼくが短文を読んで諸君の御批評を願おう」といささか本気の沙汰である。「
「
「起こし得て
「大和魂! と新聞屋が言う。大和魂! と
「なるほどこりゃ天然居士以上の作だ」と今度は迷亭先生がそり返ってみせる。
「東郷大将が大和魂をもっている。さかな屋の
「先生そこへ寒月ももっているとつけてください」
「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五、六
「その一句は大出来だ、君はなかなか文才があるね。それから次の句は」
「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すごとく魂である。魂であるから常にふらふらしている」
「先生だいぶおもしろうございますが、ちと大和魂が多すぎはしませんか」と東風君が注意する。「賛成」と言ったのはむろん迷亭である。
「だれも口にせぬ者はないが、だれも見た者はない。だれも聞いたことはあるが、だれも会った者がない。大和魂はそれ
主人は
不思議なことに迷亭はこの名文に対して、いつものようにあまり駄弁をふるわなかったが、やがて向き直って「君も短編を集めて一巻として、そうしてだれかにささげてはどうだ」と聞いた。主人はこともなげに「君にささげてやろうか」と聞くと迷亭は「まっぴらだ」と答えたぎり、さっき細君に見せびらかした
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