四
例によって金田邸へ忍び込む。
例によってとは今さら解釈する必要もない、しばしばを自乗したほどの度合を示す言葉である。一度やったことは二度やりたいもので、二度試みたことは三度試みたいのは人間のみに限らるる好奇心ではない、猫といえどもこの心理的特権を有してこの世界に生まれいでたものと認定していただかねばならぬ。三度以上繰り返す時はじめて習慣なる語を冠せらせて、この行為が生活上の必要と進化するのもまた人間と相違はない。なんのために、かくまで足しげく金田邸へ通うのかと不審を起こすならその前にちょっと人間に反問したいことがある。なぜ人間は口から煙を吸い込んで鼻から吐き出すのであるか、腹の足しにも血の道の薬にもならないものを、恥ずかしげもなく
忍び込むというと
忍び込む
近ごろは勝手口の横を庭へ通り抜けて、
きょうはどんな模様だなと、例の築山の
「……それで
「なるほどあの男が水島さんを教えたことがございますので──なるほど、よいお思いつきで──なるほど」となるほどずくめのはお客さんである。
「ところがなんだか要領を得んので」
「ええ
「困るの、困らないのってあなた、わたしゃこの年になるまで人のうちへ行って、あんな
「何か無礼なことでも申しましたか、昔から
「いやお話にもならんくらいで、
「それはけしからんわけで──いったい少し学問をしているととかく慢心がきざすもので、その上貧乏をすると負け惜しみが出ますから──いえ世の中にはずいぶん無法なやつがおりますよ。自分の働きのないのにゃ気がつかないで、むやみに財産のある者に食ってかかるなんてえのが──まるで彼らの財産でもまき上げたような気分ですから驚きますよ、アハハハ」とお客さんは大恐悦のていである。
「いや、まことに
「なるほどそれではだいぶこたえましたろう、全く本人のためにもなることですから」とお客さんはいかなる当たり方か承らぬ先からすでに金田君に同意している。
「ところが
「へえどうしてまたそんな乱暴なことをやったんで……」とこれには、さすがのお客さんも少し不審を起こしたとみえる。
「なあに、ただあの男の前をなんとか言って通ったんだそうです、すると、いきなり、ステッキを持ってはだしで飛び出して来たんだそうです。よしんば、ちっとやそっと、何か言ったって子供じゃありませんか、
「さよう教師ですからな」とお客さんが言うと、金田君も「教師だからな」と言う。教師たる以上はいかなる
「それに、あの
「ああ迷亭ですか、相変わらず
「だれだっておこりまさあね、あんなじゃ。そりゃうそをつくのもようござんしょうさ、ね、義理が悪いとか、ばつを合わせなくっちゃあならないとか──そんな時にはだれしも心にないことを言うもんでさあ。しかしあの男のはつかなくってすむのにやたらにつくんだから始末におえないじゃありませんか。何がほしくって、あんなでたらめを──よくまあ、しらじらしく言えると思いますよ」
「ごもっともで、全く道楽からくるうそだから困ります」
「せっかくあなたまじめに聞きに行った水島のこともめちゃめちゃになってしまいました。わたしゃ
「そりゃ、ひどい」とお客さんも今度は本気にひどいと感じたらしい。
「そこできょうわざわざ君を招いたのだがね」としばらくとぎれて金田君の声が聞こえる。「そんなばか者は陰から、からかってさえいればすむようなものの、少々それでも困ることがあるじゃて……」と鮪のさし身を食う時のごとくはげ頭をぴちゃぴちゃたたく。もっとも吾輩は縁の下にいるから実際たたいたかたたかないか見えようはずがないが、このはげ頭の音は近来だいぶ聞き慣れている。
「私にできますことならなんでも御遠慮なくどうか──今度東京勤務ということになりましたのも全くいろいろ御心配をかけた結果にほかならんわけでありますから」とお客さんは快く金田君の依頼を承諾する。この
「あの苦沙弥という
「ほのめかすどころじゃないんです。あんなやつの娘をもらうばかがどこの国にあるものか、寒月君けっしてもらっちゃいかんよって言うんです」
「あんなやつとはなんだ失敬な、そんな乱暴なことを言ったのか」
「言ったどころじゃありません、ちゃんと車屋のかみさんが知らせに来てくれたんです」
「鈴木君どうだい、お聞きのとおりの次第さ、ずいぶん
「困りますね、ほかのことと違って、こういうことには他人がみだりに
「それでの、君は学生時代から苦沙弥と同宿をしていて、今はとにかく、昔は親密な間がらであったそうだから御依頼するのだが、君当人に会ってな、よく利害をさとしてみてくれんか。何かおこっているかもしれんが、おこるのは向こうが悪いからで、先方がおとなしくしてさえいれば一身上の便宜も十分計ってやるし、気にさわるようなこともやめてやる。しかし向こうが向こうならこっちもこっちという気になるからな──つまりそんな
「ええ全くおっしゃるとおり
「それから娘はいろいろと申し込みもあることだから、必ず水島にやるときめるわけにもいかんが、だんだん聞いてみると学問も人物も悪くもないようだから、もし当人が勉強して近いうちに
「そう言ってやったら当人も励みになって勉強することでしょう。よろしゅうございます」
「それから、あの妙なことだが──水島にも似合わんことだと思うが、あの変物の苦沙弥を先生先生と言って苦沙弥の言うことはたいてい聞く様子だから困る。なにそりゃ何も水島に限るわけではむろんないのだから苦沙弥がなんと言って邪魔をしようと、わしのほうはべつにさしつかえもせんが……」
「水島さんがかあいそうですからね」と鼻子夫人が口を出す。
「水島という人には会ったこともございませんが、とにかくこちらと御縁組みができれば
「ええ水島さんはもらいたがっているんですが、苦沙弥だの迷亭だのって変わり者がなんだとか、かんだとか言うものですから」
「そりゃ、よくないことで、相当の教育のある者にも似合わん
「ああ、どうか、ごめんどうでも、一つ願いたい。それからじつは水島のことも苦沙弥がいちばん詳しいのだがせんだって
「かしこまりました。きょうは土曜ですからこれから回ったら、もう帰っておりましょう。近ごろはどこに住んでおりますかしらん」
「ここの前を右へ突き当たって、左へ一丁ばかり行くとくずれかかった
「それじゃ、つい近所ですな。わけはありません。帰りにちょっと寄ってみましょう。なあに、だいたいわかりましょう標札を見れば」
「標札はある時と、ない時とありますよ。名刺を
「どうも驚きますな。しかしくずれた黒塀のうちと聞いたらたいがいわかるでしょう」
「ええあんなきたないうちは町内に一軒しかないから、すぐわかりますよ。あ、そうそうそれでわからなければ、いいことがある。なんでも屋根に草がはえたうちを捜してゆけば間違いっこありませんよ」
「よほど特色のある家ですなあアハハハハ」
鈴木君が御光来になる前に帰らないと、少し都合が悪い。談話もこれだけ聞けば大丈夫たくさんである。縁の下を伝わって雪隠を西へ回って
主人は縁側へ
煙草の火はだんだん吸い口の方へ迫って、一寸ばかり燃えつくした灰の棒がぱたりと
細君は主人に
「なるほど似ているな」と主人が、さも感心したらしく言うと「何がです」と細君は見向きもしない。
「なんだって、お前の頭にゃ大きなはげがあるぜ。知ってるか」
「ええ」と細君は依然として仕事の手をやめずに答える。べつだん露見を恐れた様子もない。超然たる模範細君である。
「嫁に来る時からあるのか、結婚後新たにできたのか」と主人が聞く。もし嫁に来る前からはげているならだまされたのであると口へは出さないが心のうちで思う。
「いつできたんだか覚えちゃいませんわ、はげなんざどうだっていいじゃありませんか」と大いに悟ったものである。
「どうだっていいって、自分の頭じゃないか」と主人は少々怒気を帯びている。
「自分の頭だから、どうだっていいんだわ」と言ったが、さすが少しは気になるとみえて、右の手を頭に乗せて、くるくるはげをなでてみる。「おやだいぶ大きくなったこと、こんなじゃないと思っていた」と言ったところをもってみると、年に合わしてはげがあまり大き過ぎるということをようやく自覚したらしい。
「女は
「そんな速度で、みんなはげたら、四十ぐらいになれば、から
「そんなに人のことをおっしゃるが、あなただって鼻の
「鼻の中の白髪は見えんから害はないが、脳天が──ことに若い女の脳天がそんなにはげちゃ見苦しい。片輪だ」
「片輪なら、なぜおもらいになったのです。御自分が好きでもらっておいて片輪だなんて……」
「知らなかったからさ。全くきょうまで知らなかったんだ。そんなにいばるなら、なぜ嫁に来る時頭を見せなかったんだ」
「ばかなことを! どこの国に頭の試験をして及第したら嫁に来るなんて、者があるもんですか」
「はげはまあ我慢もするが、お前は
「背は見ればすぐわかるじゃありませんか、背の低いのは最初から承知でおもらいになったんじゃありませんか」
「それは承知さ、承知には相違ないがまだ延びるかと思ったからもらったのさ」
「
「
細君はけんかを
下女が
吾輩と鈴木君のあいだに、かくのごとき無言劇が行なわれつつある間に主人は
「さあ敷きたまえ。珍しいな。いつ東京へ出て来た」と主人は旧友に向かって布団を勧める。鈴木君はちょっとこれを裏返した上で、それへすわる。
「ついまだ忙しいものだから報知もしなかったが、じつはこのあいだから東京の本社のほうへ帰るようになってね……」
「それは結構だ、だいぶ長く会わなかったな。君が
「うん、もう十年近くになるね。なにその後時々東京へは出て来ることもあるんだが、つい用事が多いもんだから、いつでも失敬するようなわけさ。悪く思ってくれたもうな。会社のほうは君の職業とは違ってずいぶん忙しいんだから」
「十年たつうちにはだいぶ違うもんだな」と主人は鈴木君を見上げたり見おろしたりしている。鈴木君は頭をきれいに分けて、英国仕立てのツィードを着て、はでな
「うん、こんな物までぶらさげなくちゃ、ならんようになってね」と鈴木君はしきりに金鎖を気にしてみせる。
「そりゃ本ものかい」と主人は無作法な質問をかける。
「十八金だよ」と鈴木君は笑いながら答えたが「君もだいぶ年を取ったね。たしか子供があるはずだったが一人かい」
「いいや」
「二人?」
「いいや」
「まだあるのか、じゃ三人か」
「うん三人ある。この先幾人できるかわからん」
「相変わらず気楽なことを言ってるぜ。いちばん大きいのはいくつになるかね。もうよっぽどだろう」
「うん、いくつかよく知らんがおおかた六つか、七つかだろう」
「ハハハ教師はのんきでいいな。ぼくも教員にでもなればよかった」
「なってみろ、三日でいやになるから」
「そうかな、なんだか上品で、気楽で、暇があって、すきな勉強ができて、よさそうじゃないか。実業家も悪くもないが我々のうちはだめだ。実業家になるならずっと上にならなくっちゃいかん。下のほうになるとやはりつまらんお世辞を振りまいたり、好かん
「ぼくは実業家は学校時代から大きらいだ。金さえ取れればなんでもする、昔でいえば
「まさか──そうばかりも言えんがね、少しは下品なところもあるのさ、とにかく金と
「だれだそんなばかは」
「ばかじゃない、なかなか利口な男なんだよ、実業界でちょっと有名だがね、君知らんかしら、ついこの先の横丁にいるんだが」
「金田か? なんだあんなやつ」
「たいへんおこってるね。なあに、そりゃ、ほんの冗談だろうがね、そのくらいにせんと金はたまらんという
「三角術は冗談でもいいが、あすこの女房の鼻はなんだ。君行ったんなら見て来たろう、あの鼻を」
「細君か、細君はなかなかさばけた人だ」
「鼻だよ、大きな鼻のことを言ってるんだ。せんだってぼくはあの鼻について俳体詩を作ったがね」
「なんだい俳体詩というのは」
「俳体詩を知らないのか、君もずいぶん時勢に暗いな」
「ああぼくのように忙しいと文学などはとうていだめさ。それに以前からあまりすきでないほうだから」
「君シャーレマンの鼻の
「アハハハハずいぶん気楽だな。知らんよ」
「エルリントンは部下の者から鼻々と
「鼻のことばかり気にして、どうしたんだい。いいじゃないか鼻なんて丸くてもとんがってても」
「けっしてそうでない。君パスカルのことを知ってるか」
「また知ってるかか、まるで試験を受けに来たようなものだ。パスカルがどうしたんだい」
「パスカルがこんなことを言っている」
「どんなことを」
「もしクレオパトラの鼻が少し短かったならば世界の表面に大変化をきたしたろうと」
「なるほど」
「それだから君のようにそう
「まあいいさ、これからだいじにするから。そりゃそうとして、きょう来たのは、少し君に用事があって来たんだがね。──あのもと君の教えたとかいう、水島──ええ水島ええちょっと思い出せない。──そら君の所へ始終来るというじゃないか」
「
「そうそう寒月寒月。あの人のことについてちょっと聞きたいことがあって来たんだがね」
「結婚事件じゃないか」
「まあ多少それに類似のことさ。きょう金田へ行ったら……」
「このあいだ鼻が自分で来た」
「そうか。そうだって、細君もそう言っていたよ。苦沙弥さんに、よく伺おうと思って上がったら、あいにく迷亭が来ていて茶々を入れて何がなんだかわからなくしてしまったって」
「あんな鼻をつけて来るから悪いや」
「いえ君のことを言うんじゃないよ。あの迷亭君がおったもんだから、そう立ち入ったことを聞くわけにもゆかなかったのが残念だったから、もう一ぺんぼくに行ってよく聞いて来てくれないかって頼まれたものだからね。ぼくも今までこんな世話はしたことはないが、もし当人どうしがいやでないなら中へ立ってまとめるのも、けっして悪いことはないからね──それでやって来たのさ」
「御苦労様」と主人は冷淡に答えたが、腹の内では当人どうしという言葉を聞いて、どういうわけかわからんが、ちょっと心を動かしたのである。蒸し熱い夏の
「君その娘は寒月の所へ来たがってるのか。金田や鼻はどうでもかまわんが、娘自身の意向はどうなんだ」
「そりゃ、その──なんだね──なんでも──え、来たがってるんだろうじゃないか」鈴木君の
「だろうた判然しない言葉だ」と主人は何事によらず、正面から、どやしつけないと気がすまない。
「いや、こりゃちょっとぼくの言いようが悪かった。令嬢のほうでもたしかに意があるんだよ。いえ全くだよ──え?──細君がぼくにそう言ったよ。なんでも時々は寒月君の悪口を言うこともあるそうだがね」
「あの娘がか」
「ああ」
「けしからんやつだ、悪口を言うなんて。第一それじゃ寒月に意がないんじゃないか」
「そこがさ、世の中は妙なもので、自分の好いている人の悪口などはことさら言ってみることもあるからね」
「そんな
「その愚なやつがずいぶん世の中にゃあるからしかたがない。現に金田の細君もそう解釈しているのさ。とまどいをしたへちまのようだなんて、時々寒月さんの悪口を言いますから、よっぽど心のうちでは思ってるに相違ありませんと」
主人はこの不可思議な解釈を聞いて、あまり思いがけないものだから、目を丸くして、返答もせず、鈴木君の顔を、大道易者のようにじっと見つめている。鈴木君はこいつ、この様子では、ことによるとやりそこなうなと感づいたとみえて、主人にも判断のできそうな方面へと話頭を移す。
「君考えてもわかるじゃないか、あれだけの財産があってあれだけの器量なら、どこへだって相応の
「それでね。今言うとおりのわけであるから、先方で言うには何も金銭や財産はいらんからその代わり当人に付属した資格がほしい──資格というと、まあ肩書きだね、──
こう言われてみると、先方で博士を請求するのも、あながち無理でもないように思われてくる。無理ではないように思われてくれば、鈴木君の依頼どおりにしてやりたくなる。主人を生かすのも殺すのも鈴木君の意のままである。なるほど主人は単純で正直な男だ。
「それじゃ、今度寒月が来たら、博士論文を書くようにぼくから勧めてみよう。しかし当人が金田の娘をもらうつもりかどうだか、それからまず問いただしてみなくちゃいかんからな」
「問いただすなんて、君そんな
「気を引いてみる?」
「うん、気を引くというと語弊があるかもしれん。──なに気を引かんでもね。話をしていると自然にわかるもんだよ」
「君にゃわかるかもしれんが、ぼくにゃ判然と聞かんことはわからん」
「わからなけりゃ、まあいいさ。しかし迷亭みたようによけいな茶々を入れてぶちこわすのはよくないと思う。たとい勧めないまでも、こんなことは本人の随意にすべきはずのものだからね。今度寒月君が来たらなるべくどうか邪魔をしないようにしてくれたまえ。──いえ君のことじゃない、あの迷亭君のことさ。あの男の口にかかるととうてい助かりっこないんだから」と主人の代理に迷亭の悪口をきいていると、うわさをすれば陰のたとえにもれず迷亭先生例のごとく勝手口から
「いやー珍客だね。ぼくのような
「君は一生
「かあいそうに、そんなにばかにしたものでもない」と鈴木君は当たらずさわらずの返事はしたが、なんとなく落ち付きかねて、例の金鎖を神経的にいじっている。
「君電気鉄道へ乗ったか」と主人は突然鈴木君に対して奇問を発する。
「きょうは諸君からひやかされに来たようなものだ。なんぼ
「そりゃばかにできないな。ぼくは八百八十八株持っていたが、惜しいことにおおかた虫が食ってしまって、今じゃ半株ばかりしかない。もう少し早く君が東京へ出てくれば、虫の食わないところを
「相変わらず口が悪い。しかし冗談は冗談として、ああいう株は持ってて損はないよ。年々高くなるばかりだから」
「そうだたとい半株だって千年も持ってるうちにゃ倉が三つぐらい建つからな。君もぼくもそのへんにぬかりはない当世の才子だが、そこへいくと苦沙弥などは哀れなものだ。株といえば大根の兄弟分ぐらいに考えているんだから」とまた羊羹をつかんで主人の方を見ると、主人も迷亭の食いけが伝染しておのずから
「株などはどうでもかまわんが、ぼくは
「曾呂崎が電車へ乗ったら、乗るたんびに
「曾呂崎といえば死んだそうだな。気の毒だねえ、いい頭の男だったが惜しいことをした」と鈴木君が言うと、迷亭はただちに引き受けて、
「頭はよかったが、飯をたくことはいちばん
「ほんとに曾呂崎のたいた飯は焦げくさくってしんがあってぼくも弱った。おまけにおかずに必ず
「苦沙弥はあの時代から曾呂崎の親友で毎晩いっしょに汁
「そんな論理がどこの国にあるものか。おれの汁粉より君は運動と号して、毎晩
「アハハハそうそう坊主が仏様の頭をたたいては安眠の妨害になるからよしてくれって言ったっけ。しかしぼくのは
「あの時の坊主のおこり方はじつにはげしかった。ぜひ元のように起こせと言うから
「その時の君の
「それを君がすました顔で写生するんだからひどい。ぼくはあまり腹を立てたことのない男だが、あの時ばかりは失敬だと
「十年
「そりゃいいが、君の言いぐさがさ。こうだぜ──吾輩は美学を専攻するつもりだから天地間のおもしろい出来事はなるべく写生しておいて将来の参考に供さなければならん、気の毒だの、かあいそうだのという私情は学問に忠実なる吾輩ごとき者の口にすべきところでないと平気で言うのだろう。ぼくもあんまり不人情な男だと思ったから
「ぼくの有望な画才が
「ばかにしちゃいけない。こっちが恨めしいくらいだ」
「迷亭はあの時分から
「またなんとか理窟をつけたのかね」と鈴木君があいの手を入れる。
「うん、じつにずうずうしい男だ。吾輩はほかに能はないが意志だけはけっして君がたに負けはせんと
「一枚も書かんのにか」と今度は迷亭君自身が質問をする。
「むろんさ、その時君はこう言ったぜ。吾輩は意志の一点においてはあえて
「なるほど迷亭君一流の特色を発揮しておもしろい」と鈴木君はなぜだかおもしろがっている。迷亭のおらぬ時の語気とはよほど違っている。これが利口な人の特色かもしれない。
「何がおもしろいものか」と主人は今でもおこっている様子である。
「それはお気の毒様、それだからその埋め合わせをするために
「君は来るたびに珍報をもたらす男だから油断ができん」
「ところがきょうの珍報は真の珍報さ。
鈴木君は寒月の名を聞いて、話してはいけぬいけぬとあごと目で主人に合図する。主人にはいっこう意味が通じない。さっき鈴木君に会って説法を受けた時は金田の娘のことばかりが気の毒になったが、今迷亭から鼻々と言われるとまた先日けんかをしたことを思い出す。思い出すと
「ほんとうに論文を書きかけたのか」と鈴木君の合図はそっちのけにして、熱心に聞く。
「よく人の言うことを
さっきから迷亭が鼻々と無遠慮に言うのを聞くたんびに鈴木君は不安の様子をする。迷亭は少しも気がつかないから平気なものである。
「その後鼻についてまた研究をしたが、このごろトリストラム・シャンデーの中の鼻論があるのを発見した。金田の鼻などもスターンに見せたらいい材料になったろうに残念なことだ。
「しかしあの娘は寒月の所へ来たいのだそうだ」と主人が鈴木君から聞いたとおりを述べると、鈴木君はこれは迷惑だという顔つきをしてしきりに主人に目くばせをするが、主人は不導体のごとくいっこう電気に感染しない。
「ちょっとおつだな、あんな者の子でも恋をするところが、しかしたいした恋じゃなかろう、おおかた
「鼻恋でも寒月がもらえばいいが」
「もらえばいいがって、君は先日大反対だったじゃないか。きょうはいやに軟化しているぜ」
「軟化はせん、ぼくはけっして軟化はせんしかし……」
「しかしどうかしたんだろう。ねえ鈴木、君も実業家の
「相変わらず元気がいいね。結構だ。君は十年
「えらいとほめるなら、もう少し博学なところをお目にかけるがね。昔のギリシア人は非常に体育を重んじたものであらゆる競技に
「なるほど少し妙だね」と鈴木君はどこまでも調子を合わせる。
「しかるについ両三
あまり迷亭のことばがぎょうさんなので、さすがお
「そこでこの
「そんなこともなかろう」と
「君はなんにも知らんからそうでもなかろうなどとすまし返って、例になく言葉ずくなに上品に控え込むが、せんだってあの鼻の主が来た時の様子を見たらいかに実業家びいきの尊公でも
「それでも君よりぼくのほうが評判がいいそうだ」
「アハハハなかなか自信が強い男だ。それでなくてはサヴェジ・チーなんて生徒や教師にからかわれてすまして学校へ出ちゃいられんわけだ。ぼくも意志はけっして人に劣らんつもりだが、そんなに図太くはできん敬服の至りだ」
「生徒や教師が少々ぐずぐず言ったって何が恐ろしいものか、サントブーヴは古今独歩の評論家であるがパリ大学で講義をした時は非常に不評判で、彼は学生の攻撃に応ずるため外出の際必ず
「だって君ゃ大学の教師でもなんでもないじゃないか。たかがリードルの先生でそんな大家を例に引くのは
「黙っていろ。サントブーヴだっておれだって同じくらいな学者だ」
「たいへんな見識だな。しかし懐剣を持って歩くだけはあぶないからまねないほうがいいよ。大学の教師が懐剣ならリードルの教師はまあ小刀ぐらいなところだな。しかしそれにしても刃物はけんのんだから
「相変わらず無邪気で愉快だ。十年ぶりではじめて君らに会ったんでなんだか窮屈な路次から広い野原へ出たような気持ちがする。どうも我々仲間の談話は少しも油断がならなくてね、何を言うにも気を置かなくちゃならんから心配で窮屈でじつに苦しいよ。話は罪がないのがいいね。そして昔の書生時代の友だちと話すのがいちばん遠慮がなくっていい。ああきょうははからず迷亭君に会って愉快だった。ぼくはちと用事があるからこれで失敬する」と鈴木君が立ちかけると、迷亭も「ぼくも行こう、ぼくはこれから
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