二
ちょっと読者に断わっておきたいが、元来人間がなんぞというと猫々と、こともなげに軽侮の
吾輩が主人のひざの上で目をねむりながらかく考えていると、やがて下女が第二の絵はがきを持って来た。見ると活版で
ところへ下女がまた第三のはがきを持って来る。今度は絵はがきではない。
おりから門の
「しばらくごぶさたをしました。じつは去年の暮れから大いに活動しているものですから、出よう出ようと思っても、ついこの方角へ足が向かないので」と
寒月君と出かけた主人はどこをどう歩いたものか、その晩おそく帰って来て、翌日食卓についたのは九時ごろであった。例のお櫃の上から拝見していると、主人は黙って
寒月と、
なにも顔のまずい例に特に吾輩を出さなくっても、よさそうなものだ。吾輩だって
人間の心理ほど
神田の某亭で
むやみにタカジヤスターゼを攻撃する。ひとりでけんかをしているようだ。けさのかんしゃくがちょっとここへ尾を出す。人間の日記の本色はこういうへんに存するのかもしれない。
せんだって○○は
これもけっして長くつづくことはあるまい。主人の心は吾輩の目玉のように間断なく変化している。何をやっても長もちのしない男である。その上日記の上で胃病をこんなに心配しているくせに、表向きは大いにやせ我慢をするからおかしい。せんだってその友人で
吾輩は猫ではあるがたいていのものは食う。車屋の黒のように横町のさかな屋まで遠征をする気力はないし、
けさ見たとおりの餠が、けさ見たとおりの色で椀の底に
こんな失敗をした時には内にいておさんなんぞに顔を見られるのはなんとなくばつが悪い。いっそのこと気をかえて新道の二弦琴のお師匠さん
君を待つ
障子の内でお師匠さんが二弦琴をひき出す。「いい声でしょう」と三毛子は自慢する。「いいようだが、吾輩にはよくわからん。ぜんたいなんというものですか」「あれ? あれはなんとかってものよ。お師匠さんはあれが大好きなの。……お師匠さんはあれで六十二よ。ずいぶん丈夫だわね」六十二で生きているくらいだから丈夫といわねばなるまい。吾輩は「はあ」と返事をした。少し
障子の
「それでおもしろい趣向があるからぜひいっしょに来いとおっしゃるので」と客は落ち付いて言う。「なんですか、その西洋料理へ行って昼飯を食うのについて趣向があるというのですか」と主人は茶をつぎ足して客の前へ押しやる。「さあ、その趣向というのが、その時は私にもわからなかったんですが、いずれあのかたのことですから、何かおもしろい種があるのだろうと思いまして……」「いっしょに行きましたか、なるほど」「ところが驚いたのです」主人はそれみたかといわぬばかりに、ひざの上に乗ったわが輩の頭をぽかとたたく。少し痛い。「またばかな
東風君は冷たくなった茶をぐっと飲み干して「じつはきょう参りましたのは、少々先生にお願いがあって参ったので」と改まる。「はあ、何か御用で」と主人も負けずにすます。「御承知のとおり、文学美術が好きなものですから……」「結構で」と油をさす。「同志だけがよりましてせんだってから朗読会というのを組織しまして、
東風子が帰ってから、主人が書斎に入って机の上を見ると、いつのまにか迷亭先生の手紙が来ている。
「新年の
いつになく出がまじめだと主人が思う。迷亭先生の手紙にまじめなのはほとんどないので、このあいだなどは「その後べつに恋着せる婦人もこれなく、いずかたより
「ちょっと参堂つかまつりたく
なるほどあの男のことだから正月は遊び回るのに
「昨日は一刻のひまをぬすみ、東風子にトチメンボーのごちそうをいたさんと存じ
そろそろ例のとおりになって来たと主人は無言で微笑する。
「明日は某男爵の
うるさいなと、主人は読みとばす。
「右のごとく謡曲会、俳句会、短歌会、新体詩会等、会の連発にて当分のあいだは、のべつ幕無しに出勤いたし
べつだん来るにも及ばんさと、主人は手紙に返事をする。
「今度御光来の節は久しぶりにて
まだトチメンボーを振り回している。失敬なと主人はちょっとむっとする。
「しかしトチメンボーは近ごろ材料払底のため、ことによると間に合いかね
「御承知のとおり孔雀一羽につき、
うそをつけと主人はうちやったように言う。
「ぜひとも二、三十羽の孔雀を捕獲いたさざるべからずと存じ
ひとりでかってに苦心しているのじゃないかと主人はごうも感謝の意を表しない。
「この孔雀の舌の料理は往昔ローマ全盛のみぎり、一時非常に流行いたし
何が御諒察だ、ばかなと主人はすこぶる冷淡である。
「くだって十六、七世紀のころまでは全欧を通じて孔雀は宴席に欠くべからざる好味と相成りおり
孔雀の料理史を書くくらいなら、そんなに多忙でもなさそうだと不平をこぼす。
「とにかく近ごろのごとくごちそうの食べ続けにては、さすがの小生も遠からぬうちに大兄のごとく胃弱と相成るは
大兄のごとくはよけいだ。何もぼくを胃弱の標準にしなくてもすむと主人はつぶやいた。
「歴史家の説によればローマ人は日に二度三度も宴会を開き
また大兄のごとくか、失敬な。
「しかるにぜいたくと衛生とを両立せしめんと研究を尽くしたる彼らは不相当に多量の滋味をむさぼると同時に胃腸を常態に保持するの必要を認め、ここに一の秘法を案出いたし
はてねと主人は急に熱心になる。
「彼らは食後必ず入浴いたし
なるほど一挙両得に相違ない。主人はうらやましそうな顔をする。
「二十世紀の今日交通の
また大兄のごとくか、しゃくにさわる男だと主人が思う。
「この際吾人西洋の事情に通ずる者が古史伝説を考究し、すでに廃絶せる秘法を発見し、これを明治の社会に応用いたし
なんだか妙だなと首をひねる。
「よってこのあいだ
なんだとうとうかつがれたのか、あまり書き方がまじめだものだからついしまいまで本気にして読んでいた。新年草々こんないたずらをやる迷亭はよっぽどひま
それから四、五日はべつだんのこともなく過ぎ去った。
「三毛は御飯を食べるかい」「いいえけさからまだなんにも食べません、あったかにしてお
一方では自分の境遇と比べてみてうらやましくもあるが、一方ではおのが愛している猫がかくまで厚遇を受けていると思えばうれしくもなる。
「どうも困るね、御飯を食べないと、からだが疲れるばかりだからね」「そうでございますとも、私どもでさえ一日
下女は自分より猫のほうが上等な動物であるような返事をする。じっさいこの
「お医者様へ連れて行ったのかい」「ええ、あのお医者はよっぽど妙でございますよ。私が三毛をだいて診察場へ行くと、
「ほんにねえ」はとうてい吾輩のうちなどで聞かれる言葉ではない。やはり
「なんだかしくしく言うようだが……」「ええきっと風邪をひいて
天璋院様のなんとかのなんとかの下女だけにばか丁寧な言葉を使う。
「それに近ごろは肺病とかいうものができてのう」「ほんとにこのごろのように肺病だのペストだのって新しい病気ばかりふえたひにゃ油断もすきもなりゃしませんのでございますよ」「旧幕時代にないものにろくなものはないからお前も気をつけないといかんよ」「そうでございましょうかねえ」
下女は大いに感動している。
「風邪をひくといってもあまり出歩きもしないようだったに……」「いえね、あなた、それが近ごろは悪い友だちができましてね」
下女は国事の秘密でも語る時のように大得意である。
「悪い友だち?」「ええあの表通りの教師の
鵝鳥が絞め殺されるような声はうまい形容である。吾輩の主人は毎朝
「あんな声を出してなんのまじないになるかしらん。
下女はむやみに感服しては、むやみにねえを使用する。
「あんな主人を持っている猫だから、どうせのら猫さ、今度来たら少したたいておやり」「たたいてやりますとも、三毛の病気になったのも全くあいつのおかげに相違ございませんもの、きっと
とんだ
帰ってみると主人は書斎の
ところへ当分多忙で行かれないと言って、わざわざ年始状をよこした迷亭君が
ケートは窓から外をながめる。
「それぎりかい」「むむ、うまいじゃないか」「いやこれは恐れ入った。とんだところでトチメンボーの御返礼に預かった」「御返礼でもなんでもないさ、じっさいうまいから訳してみたのさ、君はそう思わんかね」と
ところへ寒月君が先日は失礼しましたとはいって来る。「いや失敬。今たいへんな名文を拝聴してトチメンボーの亡魂を退治られたところで」と迷亭先生はわけのわからぬことをほのめかす。「はあ、そうですか」とこれもわけのわからぬ
「たしか暮れの二十七日と記憶しているがね。例の
「例の松た、なんだい」と主人が
「首掛けの松さ」と迷亭は
「首掛けの松は
「鴻の台のは鐘掛けの松で、土手三番町のは首掛けの松さ。なぜこういう名がついたかというと、昔からの言い伝えでだれでもこの松の下へ来ると首がくくりたくなる。土手の上に松は何十本となくあるが、そら首くくりだと来て見ると必ずこの松へぶらさがっている。
「それで
「おもしろいですな」と寒月がにやにやしながら言う。
「うちへ帰ってみると東風は来ていない。しかし
「みるとどうしたんだい」と主人は少しじれる。
「いよいよ佳境に入りますね」と寒月は羽織のひもをひねくる。
「見ると、もうだれか来て先へぶらさがっている。たった一足違いでねえ君、残念なことをしたよ。今考えるとなんでもその時は死に神にとりつかれたんだね。ゼームスなどに言わせると副意識下の
主人はまたやられたと思いながら何も言わずに
寒月は
「なるほど伺ってみると不思議なことでちょっとありそうにも思われませんが、私などは自分でやはり似たような経験をつい近ごろしたものですから、少しも疑う気になりません」
「おや君も首をくくりたくなったのかい」
「いえ私のは首じゃないんで。これもちょうど明ければ昨年の暮れのことでしかも先生と同日同刻ぐらいに起こった出来事ですからなおさら不思議に思われます」
「こりゃおもしろい」と迷亭も空也餠を頰張る。
「その日は
主人はむろん、迷亭先生も「お安くないね」などという月並みは言わず、静粛に謹聴している。
「医者を呼んで見てもらうと、なんだか病名はわからんが、なにしろ熱がはげしいので脳を犯しているから、もし睡眠剤が思うように功を奏しないと危険であるという診断だそうで私はそれを聞くや否や一種いやな感じが起こったのです。ちょうど夢でうなされる時のような重くるしい感じで周囲の空気が急に固形体になって四方からわが身をしめつけるごとく思われました。帰り道にもそのことばかりが頭の中にあって苦しくてたまらない。あのきれいな、あの快活なあの健康な○○子さんが……」
「ちょっと失敬だが待ってくれたまえ。さっきから伺っていると○○子さんというのが二へんばかり聞こえるようだが、もしさしつかえがなければ承りたいね、君」と主人を顧みると、主人も「うむ」と
「いやそれだけは当人の迷惑になるかもしれませんからよしましょう」
「すべて
「冷笑なさってはいけません、ごくまじめな話なんですから……とにかくあの婦人が急にそんな病気になったことを考えると、じつに飛花落葉の感慨で胸がいっぱいになって、
「とうとう飛び込んだのかい」と主人が目をぱちつかせて問う。
「そこまでゆこうとは思わなかった」と迷亭が自分の鼻の頭をちょいとつまむ。
「飛び込んだあとは気が遠くなって、しばらくは夢中でした。やがて目がさめてみると寒くはあるが、どこもぬれた
「ハハハハこれはおもしろい。ぼくの経験とよく似ているところが奇だ。やはりゼームス教授の材料になるね。人間の感応という題で写生文にしたらきっと文壇を驚かすよ。……そしてその○○子さんの病気はどうなったかね」と迷亭先生が追窮する。
「二、三
主人は最前から沈思のていであったが、この時ようやく口を開いて、「ぼくにもある」と負けぬ気を出す。
「あるって、何があるんだい」迷亭の眼中に主人などはむろんない。
「ぼくのも去年の暮れのことだ」
「みんな去年の暮れは暗合で妙ですな」と寒月が笑う。欠けた前歯のふちに空也餠がついている。
「やはり同日同刻じゃないか」と迷亭がまぜ返す。
「いや日は違うようだ。なんでも
「奥さんがですか」と寒月が聞く。
「なに細君はぴんぴんしていらあね。ぼくがさ。なんだか穴のあいた風船玉のように一度に
「急病だね」と迷亭が注釈を加える。
「ああ困ったことになった。細君が
「それから
「行きたかったが四時を過ぎちゃ、はいれないという細君の意見なんだからしかたがない、やめにしたさ。もう十五分ばかり早く甘木先生が来てくれたらぼくの義理も立つし、
語り終わった主人はようやく自分の義務をすましたようなふうをする。これで両人に対して顔が立つという気かもしれん。
寒月は例のごとく欠けた歯を出して笑いながら「それは残念でしたな」と言う。
迷亭はとぼけた顔をして「君のような親切な夫を持った細君はじつにしあわせだな」とひとり言のようにいう。障子の陰でエヘンという細君の
吾輩はおとなしく三人の話を順番に聞いていたがおかしくも悲しくもなかった。人間というものは時間をつぶすためにしいて口を運動させて、おかしくもないことを笑ったり、おもしろくもないことをうれしがったりするほかに能もない者だと思った。吾輩の主人のわがままで偏狭なことは前から承知していたが、ふだんは言葉数を使わないのでなんだか了解しかねる点があるように思われていた。その了解しかねる点には少し恐ろしいという感じもあったが、今の話を聞いてから急に
こう考えると急に三人の談話がおもしろくなくなったので、三毛子の様子でも見てきようかと二弦琴のお師匠さんの庭口へ回る。
「御苦労だった。できたかえ」お師匠さんはやはり留守ではなかったのだ。
「はいおそくなりまして、
三毛子は、どうかしたのかな、なんだか様子が変だと布団の上へ立ち上がる。チーン
「お前も
チーン南無猫誉信女南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と今度は下女の声がする。吾輩は急に
「ほんとに残念なことをいたしましたね。初めはちょいと
三毛子も甘木先生に診察してもらったものとみえる。
「つまるところ表通りの教師のうちののら猫がむやみに誘い出したからだと、わたしは思うよ」「ええあの
少し弁解したかったが、ここが我慢のしどころと
「世の中は自由にならんものでのう。三毛のような器量よしは早死にをするし。不器量なのら猫は達者でいたずらをしているし……」「そのとおりでございますよ。三毛のようなかあいらしい猫は
二匹と言う代わりにふたりと言った。下女の考えでは猫と人間とは同種族ものと思っているらしい。そういえばこの下女の顔は我ら猫属とはなはだ類似している。
「できるものなら三毛の代わりに……」「あの教師の所ののらが死ぬとおあつらえどおりにまいったんでございますがねえ」
おあつらえどおりになっては、ちと困る。死ぬということはどんなものか、まだ経験したことがないから好きともきらいとも言えないが、先日あまり寒いので火消し
「しかし猫でも坊さんのお経を読んでもらったり、
吾輩は名前はないとしばしば断わっておくのに、この下女はのらのらと吾輩を呼ぶ。失敬なやつだ。
「罪が深いんですから、いくらありがたいお経だって浮かばれることはございませんよ」
吾輩はその後のらが何百ぺん繰り返されたかを知らぬ。吾輩はこの際限なき談話を中途で聞き捨てて、布団をすべり落ちて縁側から飛びおりた時、八万八千八百八十本の毛髪を一度に立てて身震いをした。その後二弦琴のお師匠さんの近所へは寄りついたことがない。今ごろはお師匠さん自身が月桂寺さんから軽少な御回向を受けているだろう。
近ごろは外出する勇気もない。なんだか世間がものうく感ぜらるる。主人に劣らぬほどの
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