吾輩は猫である
夏目漱石/カクヨム近代文学館
一
どこで生まれたかとんと
この書生の手のひらのうちでしばらくはよい心持ちにすわっておったが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。書生が動くのか自分だけが動くのかわからないがむやみに目が回る。胸が悪くなる。とうてい助からないと思っていると、どさりと音がして目から火が出た。それまでは記憶しているがあとはなんのことやらいくら考え出そうとしてもわからない。
ふと気がついてみると書生はいない。たくさんおった兄弟が一匹も見えぬ。
ようやくの思いで笹原をはい出すと向こうに大きな池がある。吾輩は池の前にすわってどうしたらよかろうと考えてみた。べつにこれという分別も出ない。しばらくして泣いたら書生がまた迎いに来てくれるかと考えついた。ニャー、ニャーと試みにやってみたがだれも来ない。そのうち池の上をさらさらと風が渡って日が暮れかかる。腹が非常に減ってきた。泣きたくても声が出ない。しかたがない、なんでもよいから食い物のある所まで歩こうと決心をしてそろりそろりと池を左に回り始めた。どうも非常に苦しい。そこを我慢して無理やりにはって行くとようやくのことでなんとなく人間臭い所へ出た。ここへはいったら、どうにかなると思って
吾輩の主人はめったに吾輩と顔を合わせることがない。職業は教師だそうだ。学校から帰ると終日書斎にはいったぎりほとんど出て来ることがない。
吾輩がこの
吾輩は人間と同居して彼らを観察すればするほど、彼らはわがままなものだと断言せざるをえないようになった。ことに吾輩が時々
わがままで思い出したからちょっと吾輩の
「どうもうまくかけないものだね。ひとのを見るとなんでもないようだがみずから筆をとってみると今さらのようにむずかしく感じる」これは主人の
「へえアンドレア・デル・サルトがそんなことを言ったことがあるかい。ちっとも知らなかった。なるほどこりゃもっともだ。じつにそのとおりだ」と主人はむやみに感心している。金縁の裏にはあざけるような笑いが見えた。
その翌日吾輩は例のごとく縁側に出て心持ちよく昼寝をしていたら、主人が例になく書斎から出て来て吾輩の後ろで何かしきりにやっておる。ふと目がさめて何をしているかと一
わがままもこのくらいなら我慢するが吾輩は人間の不徳についてこれよりも数倍悲しむべき報道を耳にしたことがある。
吾輩の家の裏に
「いったい車屋と教師とはどっちがえらいだろう」
「車屋のほうが強いにきまっていらあな。おめえのうちの主人を見ねえ、まるで骨と皮ばかりだぜ」
「君も車屋の猫だけにだいぶ強そうだ。車屋にいるとごちそうが食えるとみえるね」
「なあにおれなんざ、どこの国へ行ったって食い物に不自由はしねえつもりだ。おめえなんかも茶畑ばかりぐるぐる回っていねえで、ちっとおれのあとへくっついて来てみねえ。ひと月とたたねえうちに見違えるように
「おってそう願うことにしよう。しかし
「べらぼうめ、
彼は大いにかんしゃくにさわった様子で、
その後吾輩はたびたび黒と
ある日例のごとく吾輩と黒は暖かい茶畑の中で寝ころびながらいろいろ雑談をしていると、彼はいつもの自慢話をさも新しそうに繰り返したあとで、吾輩に向かって
教師といえば吾輩の主人も近ごろに至ってはとうてい水彩画において望みのないことを悟ったものとみえて十二月一
○○という人にきょうの会ではじめて出会った。あの人はだいぶ
通人論はちょっと
ゆうべはぼくが水彩画をかいてとうていものにならんと思って、そこらにほうっておいたのをだれかが
主人は夢のうちまで水彩画の未練をしょって歩いているとみえる。これでは水彩画家はむろん
主人が水彩画を夢に見た翌日例の金縁めがねの美学者が久しぶりで主人を訪問した。彼は座につくと
車屋の黒はその後びっこになった。彼の光沢ある毛はだんだん色がさめて抜けてくる。吾輩が
赤松のあいだに二、三段の
主人は毎日学校へ行く。帰ると書斎へ立てこもる。人が来ると、教師がいやだいやだと言う。水彩画もめったにかかない。タカジヤスターゼも効能がないといってやめてしまった。子供は感心に休まないで幼稚園へかよう。帰ると唱歌を歌って、まりをついて、時々吾輩をしっぽでぶらさげる。
吾輩はごちそうも食わないからべつだん肥りもしないが、まずまず健康でびっこにもならずにその日その日を暮らしている。
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