第13話 チェス


      *


 仕事をしていないときのはくおうは、大抵チェス盤に向かっている。これが将棋や囲碁だったら付き合えなかったが、チェスなら分かるので、よく対局させられた。相当好きは好きらしいが、伯王の腕は大したことはなかった。五度対局すれば四度は私が勝った。それでも、静かに冷たい目をして、「もう一局」と、何度でも対局したがった。


「――お茶でも淹れましょうか」

「いや、いい」


 伯王の視線は、盤上に釘付けにされたままである。真剣に考えている。口元を指先で覆っている。

 この男は、そう言う、妙に人間くさい部分も持ち合わせているのだ。

 ――果たしてそれは誰にならったのか。

 疑問に思った所で追及するでなし。私もすぐに忘れてしまうから、ずっと宙に浮いたままだ。私はきっと、伯王を心の底から理解しようとは思っていないのだろう。わからないならわからないで、もういい。



 知った所でなんでもない。彼の過去に何があろうと、自分には関わり合いがないから。

 触れても求めても努力しても、どうせその内道は分かれる。


「お昼は、どうしますか」

「―――――ああ」


 眼差しは矢張り盤上から動かない。

 生返事。夢中だ。

 「ふぅ」と、小さな吐息を私が漏らすのにも、多分この男は気付いていない。

 私は退屈しながらその遊戯に付き合い続ける。

 伯王の王が逃げる。私の僧が追い詰める。彼の女王はすでに盤外に追い出した。私の女王は、静かで面倒くさそうに局面を眺めているだけだ。



 生きていた頃に、夫ともこうしていたら、何か違ったのだろうか。



 もっとも、あの人が打っていたのは囲碁だったし、私は囲碁は打てない。

 あの人は、その囲碁の会で知り合った若い女性講師に入れあげてしまって、最後など家には戻ってこなくなった。当時の私よりは若い、腰の肉付きのいい、ぶりぶりと着飾った化粧の濃い女だった。男好きのする、唇のぽってりと厚いのばかりが妙に記憶に残っている。

 男に困っているようには見えなかったのに、どうして選んだのが夫だったのか。

あんな草臥くたびれた、染みしわの目立つ、猫背で、頭髪も薄くなったどこにでもいる爺だったのに。

 それだけが、今でも分からない。

 帰らない夫を待っていたわけではない。ただ、老いた舅姑を見捨てて出るだけの勢いが、私にはもうなかった。だらだらとずるずると、薄暗い古い家で、私は――多く庭樹や花を眺めて過ごしていた。

 あの庭にも、小手毬があった。

 小手毬。

 紫陽花。

 壁を這う朝顔。

 足元に水仙。

 椿。

 そしてまた――春が来る。


 うんざりだった。


 舅姑の介護を数年して、それぞれを看取った。

 葬儀の場にだけ喪主面をして堂々と立つ夫に、私はただ目を伏せた。息子の表情は――ただほうけて見えた。何も感じぬのだなと思った瞬間に、ああ、これの嫁になる娘も苦労をするだろうなと悟った。嫁が来たのはこの後の事だ。

 駄目と知っていながら止めなかった。

 これ以上息子の世話までしていたくなかった。夫のどこか一部分のような、身代わりに置いていったかのようなその存在が、いっそ憎らしくさえなった。己の産んだものだというのに。

 誰かに投げ渡してしまいたかった。

 つまり、私も十二分にずるかった。

 其処そこに関しては、最期の時にも嫁に何も言わずにおいた。

 故に余計ずるいのだ。

 人間というのは、かくもどろどろしく、かくも保身のためにモラルさえ投げ出せるものなのだと知った。

 生きていると、そういう、己の汚さとも直面する。



 ――いや、既に生きてはいないのだけれども。



      *



「――あれは、洗うのに時間がかかるわよ……!」



 両手で額を抱えつつ、カウンター席でリンドウは撃沈する。

 古い銭湯を改装したカフェーの壁面は、コバルトブルーと卵色、それからサーモンピンクで彩色されたタイルで大方がめられている。昭和的なデザインのかもす懐かしみは、しかし今の彼女を慰めてくれそうもなかった。

 そんな彼女を気の毒そうに見下ろしながら、たもつはコーヒーカップを傍に置いた。銘はキリマンジャロ。それから――保は心底厭そうな目をリンドウの隣席の主に向ける。それにならいでもしたか、リンドウもまたそちらへ目を向けた。


小手毬こでまり姫が――っていうか、ええと、初枝はつえさん、だっけ? が、身体から抜かれたのがいつ?」

(ざっと二十年前だな)


 ずず、と茶碗の中身をすすなかばで、リンドウの隣席から答えたのは――藤堂とうどうである。椀の中身は梅昆布茶だ。

「二十年ってまだ思い出さないの?」

(それだけ人の時の夫の事が赦せんのだろうよ)

 保は心底厭そうにカウンターの内側で腕を組む。

「――どうでもいいが、お前が店に入ることを歓迎した記憶はないんだが? もう少し居心地悪そうなそぶりでもみせてみたらどうなんだ? 藤堂よ」

 保の言葉に、藤堂はちらと視線を向けてから、にぃと笑った。

(今更だろう。せんの時も入店を赦したではないか、貴様は)

「あの時はお前のナリじゃなかったからだ」

(そういきり立つものではない。どうせ貴様も儂も単体ではげん様にはかなわぬ。ここは協定を結ぶなりしても――)

「全力で断らせていただく!」

 男二人の際限のないさや当てに、今度こそ本当に勘弁してくれと、リンドウは盛大な溜息を吐いた。

はくおうはなんで何も姫に言わないのよ」

(言うわけがあるまいよ)

 肩を竦めながら藤堂は笑う。

(――あの伯王だぞ?)

 それ以上ない的確な説明に、「ああもう!」とリンドウはついに突っ伏した。


 先代まだらである母ののこした、この大層面倒な後始末を店に持ち込んできたのは――他でもない藤堂である。

 カウンターテーブルに右頬をこすり付けたまま、リンドウは恨みがましい視線を藤堂に投げつけた。



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