第12話 月下

 

      *


 伯王は、満月の夜を好む。

 月の下で、私を組み敷くことを好む。

 肌を重ねるごとに、伯王の冷たさが身に染みる。

 それは、伯王の心が冷たいということなのか。それとも、伯王の体が生きたものではないことを表しているのか。



 わからない。わからないが、わからないなりに――触れる。



 伯王が望んでいることが、ただの悦楽ではないことだけは分かる。そっとその頬に触れると、時折そのひとみが揺れる。

 

 何かを迷っているようにも見える。

 

 そんなひとみを見るたびに「何を今更」と、ほんの少しだけ思う。

 何を今更迷うのか。

 後悔だとでもいうのだろうか。

 あの、薄い溜息を思い出す。


「貴女が自身で見出さねば、意味がない」


 五月蠅うるさい。

 正直、そう思っている。

 何様のつもりなのだと、せせら笑う自分がいる。自分で私を選んでおいて、自分で決めた癖して、その責任も取れないなんて。所詮貴方も、夫と同じなの?

 そう思って、怒りを、不服を、見下すべき男の姿と同一視して重ねる事で、矮小化して、溜飲を下げる。


 ああ、それは――見苦しいか。


 そんな思いでいっぱいになって、直視したくない気付きから目を逸らすために、伯王の首へ両腕を回して上唇にしっとりと吸い付いた。

 肌を重ねるというのは、ただそれだけの事でしかない。陳腐な言い方だが、これは――まあ、会話と同じなのだ。

 人の心に触れる事が不得手ふえてな者の女の抱き方は、高が知れている。

 会話を略する男の抱き方は、概ね沼の底に沈殿した汚泥の部分だけでできている。

 それが悪いとは言わない。どろりと絡みつく汚らしいものの面白さは、味わってみて初めて分かるものだ。それがない男もまたすかすかでつまらない。

 といって、上澄みのとろりとした部分で女を愛撫しない者もまた味気ない。篭絡ろうらくするために清く見せようという洒脱しゃだつさがないのは、やはりつまらないのだ。



 私は、静かに分離した清濁の中に飛び込んで、男の上っ面と本音をき回すのが女に求められるものだと思っている。



 若い頃は――そういった工夫を夫にもしてみたものだ。貞淑な妻の顔と、ただれたように快楽を求め与えるめすの顔と、両方を使い分けて、初めて一人前なのだと、そう教えられてきた。

 私にそう教えたのは、誰だったか。

 しかし、息子を産んだ後は、そういった気概もすっかり消え失せてしまった。産後というものは、そういうものなのだと聞いている。そして、自身の肉体が落ち着いて、骨盤こつばんきしまなくなって、乳首を吸われても子宮が縮んで痛まなくなった頃には――夫はもう、私を女として見なすことを諦め、放棄してしまっていた。

 私の女としての欲の出口は、長い眠りから覚めると同時に、行き場を失ってしまったのだ。

 男は結局、女の目覚めを待てないのだろう。

 だから、他の女を抱きに行くのだ。



 ――これは洗うのに時間が掛かる。



 蛇の声が耳の奥によみがえり、ずるりと恨めしくなる。五月蠅い、五月蠅い。男の股の間の蛇もまた身勝手だ。人の男は、勝手だ。



 命の責任を、最初から取る気がないのだ。

 自分の淋しさで手一杯だから。



 しかし、伯王は人ではない。

 なので――やはり勝手が多少違う。

 触れた気がしない、とでも言おうか。

 女の役などもう仕舞い。あったかないかも思い出せないような遠い過去のことでした。御伽おとぎばなしでした。そんな心持ちで数十年を過ごしてしまった後に、またこうして得体の知れない男の胸の内をのぞく日がくるなんて。

 何を考えているのか。何を求めているのか。

 私の中に何を見出そうとしているのか。

 伯王の睛は、やはり少しだけ揺れる。

 その向こう側で、満月が揺れている。

 腕を伸ばしてみる。月を掴めやしないかと。伯王の頬の横から、ついと。風を切る。

 そして伸ばしたはずの腕は掴まれて、大地にくさびで止められる。


「月は取れない」

「そうね」


 微笑んで見せると、伯王は、とても悲しそうな顔をした。


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