第160話 妾もだ
閉じられていた瞼が開きヘイムが目覚め、一つ大きく呼吸をすると鼻で笑い出した。
「どうした香水なんぞつけて。色気づきよったか」
開口一番の言葉に分からないジーナはヘイムを見るだけであったがそれからやっと気が付いた。
「いえこれは香水とかではなくて例の果実です。ヘイム様達が持って来てくれたのをさっきまで食べていてそれが」
「それだけではないであろうに?」
ヘイムは顔をあげ鼻を近づけジーナの頬から耳の付け根を嗅いだ。
「西のものは頬と耳でものを食うのか? 違うだろ? 果汁を顔に塗り香りをつけた、どうしてだ?」
無知を装っているのだなとジーナは思いながら形が歪んでいるヘイムの眼を見下ろしながら、言った。
「あなたに会うから、こうしたのですよ」
ヘイムの眼の歪みは笑みへと変わった。
「分かっている癖に」
「おぉ分かっていたぞ。しかしどうしてそんなそなたらしからぬことをした」
「それはあなたがこれが好きだから」
笑みが消え、いま放たれた言葉がヘイムの耳に入りそこから間が生まれると途端に世界が二人をその場に残し遠ざかりだしていく。
取り残された感覚のなかでジーナは自らがいま発した言葉も世界と一緒に遠くに行き遥か彼方へと消えていくのを感じていた。
流れ言葉が消え去るその限界までジーナはヘイムから目を離さずにいるとその口元が微笑み瞬きを一つしたのが見え、返事のように二人の顔は近づいた。
「ああ好きだぞ」
「私も、です」
言葉を受け取るとジーナはヘイムをそのまま立たせるように体勢を整わせると、沈んでいた音が浮き上がり死から甦ったようなそのどよめきにふらついた。
会場のものたちは総立ちになり二人を注目していた。
「ヘイム!」
蒼白な表情を浮かべたシオンが傍まで駆けてきた。シオンが来たということは、とジーナは考えた。
こうなってからまだ数秒しかたっていないのではないか?と。
ヘイムに何があったらいの一番はシオンに間違いは無く絶対に最初に来るのだから。ではさっきのあのやり取りは、あの長い間は? もしかして幻だったとでも?
「すまんなシオンよ。疲れからかバランスを崩してな、もう大丈夫だ。式を再開するがあれを出せあれだ、瓶」
混乱しながらもシオンは言われた通りに瓶を取り出しヘイムに手渡した。
「ではジーナよ妾に対して跪け」
そう告げるとジーナはその場に跪くとヘイムはビンの蓋を取りその頭に向かって香油を垂らしだした。
香油はジーナの頭頂部にかかり側頭に額に垂れていき服に地に落ちて行く。
会場のものたちは唖然としながらその異様な光景を見守りまたジーナが不動の姿勢で受け入れていることにも困惑に拍車をかけた。
一体これはなんだというのか? 問うことも語ることも出来ぬという奇妙な静寂のなかで誰かの鳴き声が聞こえてきた。
「まさか……聖油の式を我が配下のものにして下さるとは」
涙声の小声であるのにあまりの静けさであるために一同はその声の元へと目をやった。
そこには目を爛々と輝かせ涙を零すバルツ将軍の姿があった。
「かつての大戦で龍祖様は自らの最も信頼する戦士への祝福のために香油を垂らされた。それをここでおやりになされるとは」
そうバルツが言うと彼もまた跪いた。すると全兵には声は聞こえなかったもののあの将軍がそうするのなら正しいのだと解釈し動きを真似て跪き、続いてシオンも壇上のものたちもそれに倣って跪き頭を垂れだした。
ただ一人を除いて。ヘイムが香油を注ぎ終わりその右手でジーナの髪を撫でつけるのを見ていたものがいた。
バルツや皆に倣って跪かずに椅子から立ち上がったままハイネは懐から封筒を取り出し、封を切った。
あんなにも固そうに思えた手紙の封がいとも簡単に切れたことがハイネには意外であった。
どのようなものが入っていようが所詮は紙は紙だとそんな当たり前のことを思いながら手紙を取り出し、広げた。
目に入ったのは簡素な一文『妾も同じだ』と。それ以上のなにかはなくそれ以下のなにかもない。
ハイネでも分かる西の簡単な文章であるも、前後の文脈がないと意味不明な一文である。
しかしその前後を把握しているハイネには何もかもが分かった。同じである、と。あなたのその心と。
見るに耐えられなくなりハイネは瞼を二度と開かなくても良いぐらいに強く閉じると、言葉が全身を覆った。
「それは許されない、いや許さない」
ハイネは口に出さずに自らに誓った。
「あなたは彼を愛してはならない。何故なら」
そう念じその理由を心の底にある闇のなかに手を入れて取り出してみせた。
「あなたは龍となりそして私がここにいるからだ。だからこうだ」
ハイネは敵のいる方へと瞼を大きく開いた。
「ジーナとヘイムは結ばれてはならない」
声に出さずとも聞こえたのか感じたのか、分かっているのかヘイムの右目はハイネの方を向きその眼光を全て受け止める。
この場に立っているのは二人。ただ二人、この世界で二人だけでもあるように向かい合っていた。だがヘイムは世界に告げ、儀式を終わらせる。
「面を上げよ。これにて表彰式は終了する。皆のもの、この聖油に浸され新しく誕生した戦士を手厚く迎い入れるように、以上だ」
ヘイムは踵を返すと退場の動きを取りだした。その背後には興奮した男達の歓声が上がっている。
「戦士様に触らせろ!」
「うわすげえいい匂いがする」
「お前ら列を作って順番を作れ。古の聖油式もそうやって戦士たちが整然と列を作り聖油に浸されたものに触れたのだ。龍身様もそれを望んでいらっしゃる。手で触れたのなら同じく髪につけるように。これは祝福であるのだからな」
ヘイムの両脇にはシオンとハイネがいるもシオンは振り向きながら聞きながら感心の声を出していた。
「流石はバルツ将軍ですね。私の知らないあんな古い知識を持っているだなんて」
「全くだな。妾も知らんぞそんな話は。そもそも聖油をかけた故事があったとはな」
驚きのあまり素早く首を前に戻したシオンはあまり大きな声を出せないときに出す大声を出した。
「ちょっと待ってくださいよ! だったらさっきのはいったいなんだったのですか?」
「もしかして照れ隠しとかでしょうか?」
シオンとハイネによる両極端な反応を両脇からされたヘイムは苦笑いした。
「瓢箪から駒というやつであろうかな。まさかこうなるとは」
「偶然にしては出来過ぎですし龍身様の御記憶ではないでしょうか? 龍化が進んだことによってそれが無意識に出てきたとか」
「あんな男を相手の時に出てこなくてもいいじゃないですか!」
「妾に怒っても仕方があるまい。偶然だろうが必然だろうがもう済んだことだ。とやかくいうではない」
三人は会場から出て砦内の廊下を無言で歩いている途中に人気が無くなったのを見てシオンの口が開いた。
「先ほどハイネは照れ隠しと言いましたが、危ういところでしたよ。式典の最中に龍身が倒れたりなどしたら全ての意味で一大事の凶兆です。ましてやこれは中央進軍前のもの。くれぐれもお気を付けください。お言葉が過ぎますが、なにとぞどうか」
苛立ちと怒りを滲ませながらシオンがそう言うとヘイムは小さく頷いた。
「分かっておる。これは龍身によるミスではなく妾のミスだ。いくら言っても良い」
「では女官の人数を増やしましょう」
横からハイネの威勢の良い言葉が出てきた。
「屋外での歩行時には一人ではなく両脇に二人配置しましょう。そうすれば今回のようなことがおきましたらフォローができます。儀式の時から散策の時も。そのようにいたしたどうでしょうか?」
その提案は真っ当でありどこにも異論は無いはずであるのにシオンはどこかにおかしさというよりも邪心を感じた。
だからそれは後ほどに検討しましょうと言おうとするもヘイムの首が縦に動いた。
「……反対することはできんな。そのように取り計らうがよい」
ありがとうございますとハイネは笑顔で応じたが女官が増えてどうして喜ぶのだろうか? とシオンは知り合いでも推薦するのかと首を捻るも、それよりも確認すべきことを思い出した。
「ところでヘイム様。杖の件ですが」
「手が滑ってしまってな」
ヘイムは前を見ながら答える。
「私には放り投げたように見えましたけど。それにあの踏み込みは」
「つんのめっただけだ。投げるって、どうして妾がそのようなことをするのだ? 妾が転びたかったとでも?」
「そんなはずはありませんが、したように見えました。それにあの直前にあなたはどこかおかしくて」
シオンの訴えをヘイムは手で制し微笑みながら横を向いた。
「それ以上はよせ。妾の恥を再確認させてそんなに面白いのか?随分と意地悪なことをするな。まぁいいではないか。おかげであの香油は良い使い道ができたし伝説となったからな。みんな妾の失態など聖油の儀式の前振りとして印象に残るだけだからな。あとでルーゲンにお礼を言わんとな」
「えっ? あれはルーゲン師からの贈り物だったのですか? それってもしかして」
「どういう意味で贈られたのは知らんが、あの場合はああする他は無かったのだ」
「まぁよりによってかけたのがジーナというのがなんともですが」
「妾の恥を救うための尊い犠牲となったのだ。奴も本望だろう」
両脇の二人は吹き出し咳込みながらシオンが言った。
「かけた相手はこの世で一番本望だと思わない人ですけどね。とりあえずこれで我々の仕事は終わりましたね。予定通りに明朝ここを出ますのでハイネもそのつもりでいてくださいよ」
「畏まりました。といっても既に準備ができておりますので、いまからでも良いぐらいです」
むっそれはどういうことだろうとシオンは逆に訝しんだ。ごねたり少しぐらい戸惑ったりしても良いはずなのに。
まさかジーナのことは清算済み? そんな可能性は低いだろうがもしかしたら……でもそれならそれで解決済みなら問題ないのだが。
「後方で新しい仕事が私を待っておりますので先に帰りたいぐらいですよ」
そんなに楽しい仕事があるというのか? とますます分からないまでも式が始まるまでの不穏な様子からの今のその上機嫌な様子にシオンはホッとした。
「私にしかできない仕事ですよ。それをヘイム様からお任せされましてね。そのようなご使命を授けていただき心から感謝いたします」
眩いばかりの笑みを声の明るさにシオンは立ち眩みを覚えそうになるもヘイムは事もなげに答えた。
「ああ頼んだぞハイネ。そなたが最も適任であろうからな」
返事にハイネは微笑みながら頷いた。
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