第151話 あなたといると死ぬほど疲れる
それでもジーナの手が動かずにいるとハイネの笑い声がし耳元で囁かれる。
「言ってくださいよ。でないと姉様に、あっシオン様ですよ、ジーナに罵倒されて泣かされましたと訴えますよ。シオン様はあなたのことを悪い男だと見ていますからね。罵倒された以上のことが起こったと拡大解釈してくれるはずですが、いいのですか?」
「面倒なことになるからやめてくれ。だけども」
その心を現す言葉を自分は言うことも思うこともできないとしたら、とジーナは思うもそれでも紙を取り出し机に置くと、筆を取る手の上にハイネの手が添えられた。
「自分で書けないのなら、私が書くか、それとも私と書くか、どちらかを選んでください」
右肩にハイネの顎が置かれたのか重さが来てそれから言葉が届くとジーナは迷わずに選んだ。
「一緒に書いてもらいたい」
肩への重みが増し手に力が籠った。動かしづらそうだがジーナはそうさせた。
「それでどうします?」
「嫌いとはどう書くんだ?」
一瞬の間ができたがハイネは何も言わずに手を動かしジーナは導かれその文字に到達する。
見覚えのないその模様と組み合わせに。
「今日はよくその言葉が出ますね」
「大事な言葉だからな。それでその反対も教えてくれ」
今度も間が生まれるもハイネは息を呑む感覚が肩越しに伝わってきた。
先ほどのよりも長い躊躇いの後に手が動き出しその言葉が書かれていく、半ば禁じられているようなその言葉が。
「はいこれがあなたが口にするのも聞くのも嫌いな言葉ですよ」
当てつけがましく言われるなかでジーナはそれが嫌いという字に似ていると感じた。
「何を書くつもりだとは聞かないのか?」
「私は言いました。あなたがなにを書こうが、それを通すと。それだけですよ。でも言いますが、まさかこれを出すつもりではありませんよね?」
その二つの異なる文字を見ながらジーナは左手を胸の部分に当てた。その静かな鼓動を手に取り、思うと同時に声が出た。
「これじゃない」
ハイネは安堵の息を吐きジーナは紙面から眼を離した。近いがこれじゃない、もっと近くに、そのままの心を伝えたい。
伝えなければならない……
「憎んでいる、と。そう私は何度もあの人に対して言ったんだ。私はあなたのことを憎んでいると」
独り言のように言うと背中にいるハイネは覆い被さり肩を手に身体を預けるようにしてきた。
「……それはこう書きます」
非難も反論もしないハイネをジーナは不思議に思いながらも重なり強く握られた手が動き始める。
はじめて形となっていく自分の心を筆先で指先で、手で腕で身体全体で、心で感じ取っていくもジーナには分かっている、限りなく近いがまだ違うと。
「これが、それですよジーナ」
一文が綴られていた。自分の字であるのにどこか他人の字のように見えるそれ。これだけを送るとしたら、それは誤りであろうしまさに誤解だとジーナは改めて感じ、その先に行くことに決めた。
「これだけではまだ遠いんだ。足りないし届かないし、見えないし伝わらない……同じ言葉を、いや全く違う言葉を、いや」
ジーナは語りながら一心に今の文章を見つめる。
『私はあなたのことを憎んでいます』
「同じ言葉を、だけれども似て非なる心を書きたい」
相反する言葉かもしれないのにジーナにはその行為への矛盾は感じられなかった。むしろそれは最も近く正しく、真実に近いとも。
「ハイネ、分かるか?」
「私に、聞くのですね」
掠れた声がしジーナは何故か知らないがたじろぐも口を閉ざさなかった。
「ハイネに聞くんだ。他の誰でもなくハイネにだけ。そうじゃないと分からない」
どうして分からないのですか? とジーナは返ってくると身構えるも見えず聞こえもしないのにハイネが笑った気がした。
「では私と書くのですね」
「そうしないと書けない。ハイネ、頼む」
「私が、書く」
今度こそハイネはくぐもった笑い声をだし堪えていた。
「失礼笑っちゃいました。でもこれはあなたにではないですよ」
「私を笑うところだとしか思えないのだが」
「あなたを笑う人なんてどこにもいやしませんよ。私は自分に対して笑ったのですよ、それだけ」
自嘲する理由をジーナは分かるはずもないためにある可能性を考えた。
「分からないとか?」
「分かっていますよあなたの心ぐらい。おかしいですか? だってこんなに近くにいるのですよ。私には聞こえますが、あなたは聞こえないとでも?」
聞こえないの? と問われジーナは瞼を閉じ耳を澄ます。遠くから鼓動が聞こえ、迫って来る。この知っている音は。
「私も聞こえる。声ではなくてハイネの心臓の鼓動だけどな」
言うと鼓動が一つ高い音をたて、すぐに元に戻った。
「その鼓動の音がなんだか分かりますか?」
心音であること以外を問うているのであろうが、そんなことは分からず
「急に高い音を立てたことは分からない」
「分からないのですか?」
「分からない」
遠くに響く規則的な鼓動を聞きながらその音がまた少しずつ高くなり、また近づいてくる予感の中で右手に熱がついた。
「つまりはですね、こういうことですよ」
ハイネから伝わる弾けるような高音の連続音につられ手が動き出す。ゆっくりとだが何よりも早く長く確実に。
指先から手に腕が呑み込まれそのまま全身が落下していく感覚の中で筆の動きをジーナは追っている。
その動きをジーナは知っている、さっきの文章と同様の構文であり感情の軌跡を追うように筆先が紙上を走る。
途中までは同じであり、そこから違和感があるはずだとジーナは身構え、止める覚悟すらあった。
ハイネの鼓動は同じ高音で鳴り続けている。この音と自分の心が同じでなければ、筆先が止まる。意識的でなく無意識に。
たとえその字がなんであるのかをわからなくても分かる、と。すると筆先がさっきと違う動き紙上に刻んだのをジーナは感じるも、だが止らなかった。同じものだと捉えた。
違うものであるのに、違わないとは。それはどんな言葉であり感情であるのか?
手が止まりハイネの鼓動が遠ざかっていくなかでジーナは瞼をあげるとハイネの覗き込む顔がそこにあった。
「お願い、見ないで」
呪文のように瞼は自然と降りまた消えゆく音に耳を傾けた。紙を畳む音が聞こえ、仕舞う音?
それらの音が途切れるとジーナの眼は自然に開かれるも眼の前には書いたはずの紙が無く、机の木面しか目に入らなかった。
「封筒に入れましたのでありませんよ」
中腰ではなく完全に立ち上がっているハイネが手にしている鞄の中に何かをしまいながら言った。二つ?
「二通か?」
「一通です」
突発的に湧いた疑問を即座に否定されたせいでジーナは口が閉じる。
「私の手でシオン様にお渡しします」
有無を言わさぬ口調で言った後ハイネは身体を小刻みに動かしているように見えた。
「あなたといると疲れますね。すごく疲れる。死にたくなるぐらいに」
文句ではなく完全な独り言としか聞こえない声でハイネがぶつくさという。
「身体中が痛くなります。鈍い痛みや鋭い痛みが全身のあちらこちらに起きて、身体がバラバラになりそうなこともたびたびありますよ。ねぇジーナは私をそんな風にさせているといった自覚はありますか?」
「そんなものはない」
返事に対してハイネは鼻で笑った。
「短文二つでこんなに私を痛めつけて苦しめても自覚なし。分かっていますよあなたがそういう人だってことは。誰よりも私が……それどころか」
言いながらハイネはジーナの方へ顔を向ける。彼はおかしなものを見る。呪詛に近い言葉を吐くのに、満ち足りているものの顔を。
「あなた自身よりも分かっている。そう思いません?」
「たった一部だけでそんな顔をされても困る」
「それは一部は認めたと解釈していいのですよね?」
微笑まれジーナは後ずさりをする。この女は私の何を分かったといっているのか?
その疑問はだが、扉へ向かうハイネの歩く際に生まれる風が吹き飛ばしていった。
「しばらく忙しくなりますからこちらには来ません。その代わりに勉強は続けてくださいね」
あっという間に扉を開くハイネの背中にジーナはいつもよりかは小声で言う。
「ハイネありがとう」
「何についての感謝です?」
止らずに扉の外に出ようとするその背中にジーナは言った。
「ハイネのその心の」
「自分で痛めつけといて労いのの言葉とかやめてくださいよ。そんな言葉一つではあんまり癒されませんよ」
そのまま彼女は扉の外に出て手だけが隙間から見えそれが言う。
「どういたしまして」
その言葉はドアが閉まる音と重なったのに、はっきりとジーナには聞こえた。
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