第150話 私をブスだと思いましたよね?

「申し訳ありませんでした」の一文だけが繰り返し書かれ真っ黒になった紙面を見下ろしながらジーナは唸る。これでいいのかな? 本当に? これで正しいのかとあの時のシオンの言葉を思い出しながら考える。



 今度は足音を立てながら入って来たシオンが例の御詫び状の話をするとジーナは頭を抱えだした。


「ハイネにあまり……いいえ頼らないでくださいね」


 そう、あの子は駄目な男に世話を焼くのが案外好きだったのだと考えながらジーナに釘を刺した。


 これでもしも手紙の書き方が分からないとハイネに訴えたら手取り足取り全部教えてしまうだろう。


 そうなったら御詫び状にはなんの意味もない。


 やはりヘイムのあの疑念は正しかった。問題はこの二人だとシオンは相変わらず灯台下暗しの視線のもと人間関係をそう捉えた。


「長い文章はちと難しいのだが」


「だったら一文でいいですよ。ごめんなさいでもいいのです。あなたになんて名文美文など求めていませんよ。求められているのはあなたの心だけです。正直に素直にお詫びしたいという気持ちがあればたった一言でも問題ありません」


 シオンはそんなの簡単でしょと言わないまでも言外にそう言い、持参た焼き菓子で茶を飲んで帰っていった。



 お詫びする心……そんな心が無いからこそいくら謝罪の文字を紙面の空白を埋め尽くしても、これ以上に無く空虚なことであった。無いものは、無い。


「これではないのだ」


 紙を裏返してジーナは呟いた。あの人に送るべき言葉はこれではない。


 逃げ出して申し訳ない、そうではない。違うんだ。


 そうだ違う。


 もしもそういった言葉を書いて渡したとしたら、ハイネは問題なしと判断しシオンはそのまま受け入れ、あの人は封を開け手紙を開くだろう。そしてこう思う、嘘つきめがと。


 そうだあの人は分かっている、自分に届くはずの言葉が何か、いやそうじゃない、自分に届かないはずの言葉がなにであるのかをはっきりと知っている。


 書くべきことはそうではなく、送るものはそうではない、あの人に聞かせたい言葉を私はまだ、半分、習ってはいない。


「今度は裏を真っ黒にするつもりですか?」


 声がし振り返るとそこには笑顔のハイネが立っていた。ジーナは驚きに息が止まる。


「シオン様はジーナの後ろをとれたことを喜んでいましたが、隙だらけじゃないですか。駄目ですよもっと警戒しないと。そうしないと突然冷たいものを首筋に当てられますよ」


 そう言いながらハイネの左手はジーナの首筋に当たった。それは不気味なぐらい冷たく言葉に前に当てられていたら無意識に投げ飛ばしていたほどのものであった。


「いや、書かない。こんなものをいくら書いても仕方がないことだ」


「珍しく賢明ですね。そうですよ、同じものをいくら書いても届くどころか逆に遠ざかるものですからね。そういうのはやめましょう」


 そう言いながらハイネは右手をまた首に掛けてきたがこれは温かった……どういうことだろうとはジーナは思うも言わなかった。


 そもそもこの行為がどんな意味なのかもジーナは聞かずまた聞くという発想も浮かばなかった。それはあまりにも日常的なものであったために。


「文面のチェックとアドバイス以外はしないのだよな」


「……そういうことになりました」


 不本意ながらとしか言えない口ぶりでハイネが言うとその両手が首を少し引き寄せ胸の手前で止める。


「一言だけでもいいのにそうしないのですね」


「そうじゃないような気がしてな」


「書くべきことは分かっているけど言葉を知らないために書けない、これですか?」


 頭上から声が降りて来るためかジーナは案外に素直に答える


「そうかも、しれない」


「では私が今まで教えたことのない言葉ということですね」


 首に当てられた指が鍵盤を軽く弾くように動いた。苛立ちを奏でているような神経を弄ぶような動きのなかでハイネが尋ねた。


「私に聞かないのですか?」


 同時に指の動きが止まり優しげに指先が首筋に揃えられる。


 答えずにいるとハイネが小さな声でジーナの心を揺さぶった。


「私には聞けない言葉を、書くつもりでいるから?」


 問われると全身の血管に何かが流れた。血ではない違う何かが。そしてそれは


「あっすごいジーナ。私は分かりましたよ。手に取るように、まぁ実際に手に取っているんですけどね。こうやって血脈に指を当てているわけですし、それでいまの反応はなんですか?」


 実際のところジーナはその言葉がなにであるのかは掴んではいなかった。ただそのきっかけに触れたと感じてはいた。


 もう一度それが血管の中を駆けめぐり心臓へと届くその鼓動のなかでハイネの指は掌にまで触れて来る。


「また大きく反応した。私に言えないようなことを書こうとしているとこうなるなんて……それってなんです?」


 そんなことはジーナ自身も分からない。けれども、この聞き方は何であろうかと違和感を抱いた。


 まるでもう知っているとでもいうような。


「……ハイネは知っているんじゃないのか?」


 聞くと首筋の当てられた掌が反応し、動揺しているように汗がにじみ湿りだしたような気がした。


「なんで私が知っていると思うのですか? あなたのことですよ」


「私はよく自分自身のことが分からなくなる時があるんだ。心や言葉が混乱して何かが欠落して無であったりとか」


「……そこはなんとなく分かります。あなたはそこがおかしいですよね」


 ハイネの手の湿りは熱をも帯びて首にへばりついてくる思いがしたがジーナは離せとは言わなかった。それで、良かった。


「だから聞いたんだ。私はいくら考えてもこの喉のところで止まったようになる。ほらハイネも掌でその感覚があるだろ? もう一度聞いていいか? 私はなんと書けばいい? これはアドバイスになるのかな」


 返事の代わりか今度はハイネが沈黙の中で掌を震わせていた。


「知らないのなら、それでいいし、そう言ってくれ」


 だがそれすらもハイネは答えずに小さな震えが規則的に首に伝わるのみでありジーナは首をあげて顔を見ようともしなかった。


 その動きは知っているはずなのに教えないとジーナは見なし、もう一度言葉を試みた。


「私はヘイム様に何を言えばいいんだ?」

「そんなこと、私の知ったことですか!」


 言葉と共に衝動が首にきた。ハイネの掌が首を絞めにきたのだが、ジーナは苦しみと痛みを覚えずにそのままでいた。


「あなたがあの人に何を言おうが私には関係ありませんよ。それにあなたたち二人がどのような関係であったとしてもですね」


 首にかかる力はたぶん強いのだろうがジーナにはそれは自分への攻撃であるよりもむしろ落下していく中で思わず掴んだときのものだと何故か感じられた。


 だから振り解きはしない。決して。


「なんでもいいから早く書いてくださいよ。私にはどうでもいいことなんですから、時間をこれ以上取らせないでください。もう私はあなたに費やす時間なんて少しもないんですからね。分かっています?」


 首にかかる力が増しているが声とは裏腹に手が震えだしていることが分かった。


「ただの気まぐれの暇つぶしでこんなことをしただけですからね。表彰式が終わったらあなたは最前線に戦いに行き、私は後方で本来の仕事に復帰します。私達はそれだけの関係ですからね? あなたと色々なことをしましたがただの遊びですから勘違いしないでくださいよね。あなたってめんどくさいからこうでも言わないと分からないでしょうから、あえてこう言いました」


 ジーナは何も答えずにハイネの声を耳で聞き熱を力を皮膚で感じ、そのいつもと違うハイネの全てに対し苛立ちを覚え出してきた。


「はい、書いて。好きに書いたらいいのに、なんで書かないのですか。もうゴメンナサイでいいですってば。なんなら白紙でもいいですよ。そのあとなにが起ころうと、私には関係ありませんからそのまま渡します。だって私の前で書かないということはそういうことと見なしてもいいですもの。これはあなたは望んだことです。私に見せるぐらいなら何も書かない、と。だったらそうしてください……そうしなさいよ!」


 黒くて熱いなにかが湧いてくるなかでジーナは突然首を反り返され、見上げるその天に覗き込むように前に出た女の顔があった。


 天地が逆なうえに整っているはずなのに酷く歪んだ能面な女がジーナを見下ろしながら、言った。


「ジーナさん。もう明日からは私は来ませんからね」


 聞いた途端にジーナの頭の中は黒い火が灯り炎が覆った。


「その顔はやめろ、ハイネ」


 心が無であるのに言葉は出た。しかしハイネの表情はそのまま無感動なまま。


 酷い顔だ、とジーナは苛立ちはもう怒りでしかなく不快感に耐えられなかった・


「私はその顔が嫌いだ。嫌いなんだよハイネ」


 とうのハイネが聞いているのか分からなかったがジーナがそう言った後に、すぐ右頬にぬるいなにかが落ちて来るのを感じると、すぐに左頬へ額に、断続的に滴が降ってきた。


 雨か? とジーナは思っているとハイネの能面の表情が崩れ出しそこからまた滴の量が増えた。


 涙か、とようやくジーナが気付くとハイネは手を離し後ろへ駆け出そうとした。


 反射的にジーナはその手を掴むも振り解かれると飛ぶようにしてハイネを後ろから羽交い絞めにし、足を止めた。


「離して」


 言葉を無視してジーナはハイネを正面に向かせてその顔を見た。


「見ないで」

「駄目だ見せろ」


 隠そうとする手を抑えてジーナはハイネの顔を見た。涙に濡れ髪が肌のあちこちについたハイネがそこにいた。


 自分が見なければならない顔がそこにあった。


「醜い顔だと思ったでしょ」

「そうだな」


 なんでこんな台詞が自然に出るのかジーナは言った後に思うも、言いなおさなかった。


「分かっていますよ。私のいまの顔とあなたの心。本当に最低ですよねあなたって。わざわざ引き留めて力づくで隠させないでこんな状態の顔を見たがるなんて、あなたみたいな男は初めてですよ。そんなにこんなのが見たかったのですか? 嫌いな顔なのに」


「ああ見たかった。自分がここまで泣かせた女がどんな顔をしているのか、見たかった」

「そしてブスだと確認できたわけですね……私だって嫌いですよ。いまのあなたは」


 そこで言葉を切るとハイネの両目尻からまた涙が零れだす。溜め続けていたかのように溢れだすも、顔はさっきのように崩れずに睨み付けるようにしながら、そこに矛盾があるように涙が落ちるに任せジーナもまたそれを見つめるだけであった。


 涙の音があるのか零れる涙が服や床に落ちる際にほんの微かな音が部屋に響くのみであった。ハイネは何も言わずにジーナも何も言わない。


 涙を流しそれを見ることだけに集中するために、それがとても大切なことであるように、零れるに任せていた。


「……あなたに悪口を言われてすごく涙が出てきました。こんなに泣いたのはあなたのせいです。ジーナが私を傷つけて泣かせた」


 やがてハイネが訴えるもジーナはそのままの姿勢で聞いていた。


「そうだな。私のせいだ。私の言葉がハイネを傷つけ苦しめ泣かせた」


「あなたが私を怖い顔をして嫌いだと言ったから」


「嫌いだから嫌いと言った」


「だったら離してくださいよ。嫌いなんでしょ」


 動いて離れようとするハイネをまた引き寄せジーナは言う。


「さっきはそうだったが。今は違う、違うんだよハイネも私も。分かるだろ」


 腕の中でもがくのをやめハイネは見上げるも乱れた髪が目を覆っているためにジーナは瞼にかかる髪を指で開き見つめ、告げた。


「もう涙が止まったようだから顔を拭こう」


「別に私は拭こうとは思ってませんよ。このまま行きます」


「いや拭かないと」


「どうでもいいですよ」


「そうはいかない。泣かせたのは私だ」


「あっそう。でもそうしたのはあなたであって私じゃない。私じゃないんですよ」


 ハイネがそう答えるとジーナの腕が離し、それから両の掌がハイネの頬に添えられた。


「ならこの手で拭く。このままにしてはおけない」


「好きにすれば、いいですよ。ご勝手に」


 ハイネは瞼を閉じるとジーナの掌の流れた跡を拭い、それから指先は目尻に触れ涙をさらって行き、前へと流れていた髪を元の位置にまで押し戻し整えると、そこには肌に赤みがかかっているがいつものハイネがいるような気がした。小声で良しとジーナが言うと合図のようにハイネが瞼を開き、再び睨む


「何が良しやら。自分で汚して自分で綺麗にして楽しいですか? 気持ちいいですか?」


「楽しいわけがないだろ。こうしたのは私なんだからこうする、それだけのことだ」


「この女は嫌いだけど自分としてはこうしたいから無理矢理こうした、ということですね。フッとってもあなたらしい考えですよ」


「嫌いじゃないよ」


「ハッ」


 ハイネは鼻で笑い睨んでいた表情に嘲りの皺が寄った。


「嫌いじゃないとか。今更機嫌を取りだすなんて情けないと思いません?」


「本当に、嫌いだった。あれはとても嫌だった。それにそのままハイネがどこか遠くに行くのも嫌だった」


 ジーナが語るとハイネの表情から嘲るや睨みが消えていきそのうえその言葉をジッと聞いていた。


「だから止めた。無理矢理にな。それからそうでなくなるハイネを待っていた」


「それで、そのあなたの嫌いじゃないハイネは現れましたか?」


「うん? ここにいるじゃないか」


「悪態をついて嫌いだと言ったりしているのに?」


「いつものことじゃないかと」


 ちょっと間をおいてからハイネは吹き出し顔を背けた。その時にジーナは気づいた。随分と長い間見つめ合っていたと。


「ああそうですか。まぁよくわかりませんけどそれでいいです。ジーナみたいなよく分からない人の心なんて理解したくないですし。あなたがそう思うのならいいですよ、私は人が良いので付き合ってあげます、ではどうぞ」


 どうぞってなんだと言う前にジーナは俯いたままのハイネによって机の方に押された。


「なにをしているのですか? 椅子に座ってくださいよ。手紙を書くのでしょ? はい、はい」


 椅子が引かれなされるがままにジーナは座らされる。その間ハイネは顔を見せない。意図的なまでに。


 また紙面に目を落すとハイネはその方に手を乗せた。立ち上がらせないためのように。


「あの時間が無いんじゃ」


「あなたが書かないから無いんですよ。私のせいにしないでください。私は文面をチェックしもしくはアドバイスするだけの役割です。それ以外のなにものでもそれ以上のなにかでもありません。だから隠さずに、書いてくださいって」

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