第127話 『お前の名前は死だ』

 儀式が終わり、男は踵を返し扉へ歩いて行き、廊下から外への扉を開く。


 いつもの夕陽はそこにはなく薄暗い濃霧だけがそこにあり、男は一度も振り返らずにここまで来た。意識せずに自然とそうしてきた。


 そうすれば、と男の意識が戻り思考が回る。そうすればこの小屋は永遠に残るのではないのか、と。軋む扉も果ての見えぬ廊下も、あの闇の一室から聞こえる声も、何もかもが残るのでは?


 時を止めていつでも帰ってこれるように。そう瞼を閉じて思い浮かべれば、そこにはそれがあって……そうさせるためには、そう時を止めるために。


 なにも、失ってはいないのだ。むしろ自分は何もかもを手に入れ……夢想しながら歩くと霧の中から誰かが近づいてくるのが分かった。影よりも先に足音が、しかも忙しい歩き方による音。


 杖を懸命に土に刺しながらの歩行、それが誰なのかは男にはすぐに分かった。一人で来るしかないものが来る、その影に向かって男は歩を進める。


 近寄るとツィロが気づいてこちらに驚きの目を向ける。あの日とその目だけは同じもの。伸びた髭に乱れた髪型によって慌ててきたのが分かると同時に、その瞳の暗い色にも男の胸は詰まらされるものがあった。


 しかし彼のその瞳の暗色は、すぐさま消え去り、変わって怒気に燃える色に輝き光で以って霧を切り開いていった。ツィロは何もかもを悟ったのだろう。自分の頬の印に気づいたその瞬間に。


「お前は、なにをしたんだ!」


 ツィロが転がるようにして駆け寄り見つめ、睨み付ける。その一点を。男の左頬を、その傷痕を、その印を。


「どうしてお前にそれが刻まれている。それは――の、――が」


「いまは俺がそうなんだ。もう――のではない、俺のものなんだ。私たちがジーナで」


 眼の前で杖が振られ男は右頬に衝撃を感じ口の中が痺れた。ツィロの杖が当たったと分かるも男には何も感じなかった。


 「黙れ呪身が! 奪ったな! その名の通りに! 私たちがだと! お前の妄想など聞かない!」


 だが痛みはどうでも良い事なのだと。


「返せ、戻せ! 印が無ければ印が無ければあれは、あいつは」


「使命を果たすことが他の何においても優先される」


 男の答えにツィロの眼は怒りの炎で応えるのではなく、違う色、一種の恐怖を混ぜた色となった。男の瞳の色を見たのだろうか。


「印は龍と戦うためのものであり、そのために俺も――も一つの使命のもとで生きることにした。龍を討つという使命にな。だからおまえは俺に構わずに早く行け。――がお前を待っている。待っているんだからな」


 感情による混沌が起こっているのかツィロの表情が男には分からなくなった。怒りから悲しみやら感情の色を混ぜた奇怪な色、と見ているうちに男は不図思う。


 これは写し絵であり、自分はもしかしたらツィロからはそう見られているのでは? しかしどうしてだ? と男は何よりも思った。俺は何よりも正しさを、纏っているのに。その色と同じであるはずがないのに。


「俺は、認めない。お前がジーナであるということを」


 その震えた声を聞くと男は口の中で血の味が濃く広がるのを感じた。ようやく湧いてきたジーナのその血を。


「お前は依然として呪われた身のものだ。そうだあの毒龍を呼び寄せたのはお前だ。お前が――を殺したんだ」


 その時にやっと男の右頬は痛みを伝えてきた。それはその言葉を肯定しろというように。もとより否定する心などどこにもなかった。


「そうだよツィロ。その言葉の通りだ。そしてジーナは生き、龍を討ちに行く。これがいま取れる最善であり正しさだ」


 もはや表情から心を読み取れないほどにツィロの顔は黒い斑色となりつつあるように見えた。そうなるはずはない。それは自分の目がそう見せているもの。だがどうして? どうして自分にその表情を見せない? 見なければならないのに。


 どちらが先に動いたのかは不明なまま二人は同時に足を前に出し歩き出した。男の右側にツィロが通る際に心もまた言葉も交錯する。


「龍を討ち必ず山に戻る」

「呪われろ」

「約束する。必ず印を返し行くと」

「黙れ。お前みたいな偽物が使命を果たせるものか」

「その時はどうか俺の名を、呼んでくれ」

「お前の名前は死だ」


 背後から宣告がなされ男は口の中で血が溢れだしたのを感じ、吐かずにそのまま呑み込んだ。新たな名前と共のように。


「呪われろ、汚れた龍の片割れめ」


 なおも背後から聞こえる呪詛が血と交り内蔵に染み込んでいくのを男は感じる。そうだ染み込め、二度と忘れないように。


「呪われた報いによって龍に喰われろ。それがお前には最も相応しい。呪身は使命を果たせず龍に殺され、帰っては来れない。龍に喰われ一体化するがいい」


 遠くから聞こえる声が予言のように運命のように、契約の如きもののように、男は今一度血を呑み込むと、血が止まった。もう痛みも血も口中にはなかった。


「どうしてお前でなかったんだ……お前が死ねばよかったのに」


 違うよツィロ、そうじゃない。自分はもう死んでいる……ここにいるのそれではない、それは……男はそう思いながらツィロをあとにした。


 男は誰にも教わってはいないのにどこに行くのかが分かっているような足取りで霧のなか進む。濃霧のなかであっても足は迷うことなく倉庫へ、そこにあるものの意味が男にはもう分かっていた。


「待っていたぞ……ジーナ、いや、いまはジュシでいいな」


 出発の準備が完了した馬車がそこにありアリバがそこに待っていた。


「ジーナさんから前々から頼まれていたのはこういうことだ。お前が砂漠を超えるとな。では準備は良いか?」


 男は大きく頷き馬車へと入っていき、呟く。


「ジーナは旅立つ。私達は、旅立つ」

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