第126話 『ジーナは旅立つ』

 男の脳内に刻まれた習慣が掟がその意味を示す。


『龍を追うことが不可能となるのならば、代理を立て印を預け、その者に龍を討たせよ。』


 女はいま、その特例措置を発動させようとしているのだろう。だが、それは、その条件に該当するものは。


「細かい規則によって使命に支障を来たすことがあってはならない。君が一族から離脱したものであるのがなんだ。きみは……私の義兄だ。永遠の兄妹であり、共に使命のために命を捧げられるものだ。それに実際問題として砂漠を越えられ東の言葉を使えるという条件に該当するものは村にはいない。その強さも含めてね。私の次は君以外にいないのだよ。それは、君が誰よりもよく自覚しているだろう」


 だが、それは、お前が……と男は女の口調が初めて改まったことに気付いて、どうしてか声を出さずに薄笑いを浮かべた。想像も出来なかった非現実的な出来事に対して笑えば、消えるとでも思ったのか。シムに対して怒声を上げた時のように


「……見えないけど、伝わるよ」


 闇の先から軽い、軽くしようと努めている声が男の耳に届いた。


「戸惑っている様子だよね? それはそうだよなだってこの僕が君を選択するだなんて。フッフッフッ……アハハッ驚いただろ? 僕は……私はこういう人間なんだよ」


 虚無的な笑い声が放たれ室内の闇に撥ねまわり、どこにも落ち着かない。それはその言葉が偽りであるからだと男はすぐに思った。


 そうじゃない、お前はそういう人間ではないと、男は思うも女は届いているであろうその心を無視し、知らない笑い声を続けた。


「結局はこうなる。こういう選択をする。私はこんなことをする。そういうことなんだよ。皮肉だね。業を背負わせたくなかった私が……僕がよりによって君に……君に……誰よりも強い業を……背負わせて……ごめ」


「――!」


 返事は女の名であり、最後の言葉を被せて消すために男は叫び瞼を閉じ闇の中へと進んだ。


 これなら到達できるはずだと男は直感のもと行った。何も見なくていい、見えているんだ、それはあれと同じことだ。


 二人の間にある数歩ほどの距離の間に男はもう決めていた。お前の謝罪も涙も俺は受けない、お前の心と死も受けない、受け取るものはただ一つのものであると闇の中で屈み腕を広げ闇を抱く。


 誤りなく見えずとも見ずともそこにはよく知るものの輪郭と体温がそこにあった。その小さく弱くなりつつある身体のその魂の音を聞いた。


「俺は背負うんじゃない。こうする、あの時のように、こうしてその名を受ける。お前なら分かるだろ。こうすれば俺は絶対に落したり無くしたり諦めたりしないということが」


 女から返事はないものの男は耳に微かな呼吸音が聞こえた。それは長く息を吸い込む音であり二度吸い二度吐いた。


 同じ時間をかけて、何かを確かめるように、最後の呼吸のごとくに。


「君は僕が離してと言っても離さない男だとは知っているよ。あの時何度も何度もそう思ったのに、君は離さなかった。そうだよ君は本当は分かっている癖に分からないように考えていつも僕の心を無視する、いつもだ」


 男は腕の中にいる女が自分の心臓の位置に手を置くのが分かった。その強く押し手は心臓に命に届くように中に入っていく感覚の中で女の言葉が直接心を打ちに来た。


「嫌いだ。僕は君のことを憎んでいる。僕が世界で唯一憎んだ男だ。けれども信頼はしている。心の底から信じている」


 男が打ち付けて来る言葉によって高鳴る鼓動を聞いていると女が不審げな声をあげた。


「なに笑ってんの?」


 笑っている? 男には自覚が無かった。


「見えないのに?」


「それぐらい分かるよ」


 女の返事を聞くと男は頭の中ですぐに女の顔が思い浮かんだ。


「だったらそっちも笑っているよ」


「見えていない癖に?」


「それぐらい分かる」


「なんにもわからない癖に」


 応えると今度こそ自分が笑っていることが言われずとも分かった。


「その笑いは自惚れそれとも自嘲から?」


「いや分からない」


「もし僕が笑っているのならそれは呆れからだろうな。君に僕に対して、だ……印を刻もうか。だから手を」


 女がそういうも男は腕を緩めず離さずにいた。


「聞こえなかった?」


「印を刻まれるまで離さない」


「何を言っているの?」


「このままでいい」


「馬鹿だけど馬鹿なの?」


「頬に印を刻んでくれ」


 声のする方に男は左頬を向けると息を呑む呼吸を感じた。


「ここに刻まれれば俺は忘れない。なにがあっても頬に手を当てれば自分の身体が何のためにあるのかを思い出し、鏡や水面に剣の映る自分の姿を確認するたびに忘れず思い甦る。自分が何であるということを」


 今度は息が静かに吐かれ頬にかかる。女はいま悲しげに微笑んでいるのだろうなと男は想像した。


 昔から自分が見ていないと油断している時は、そういった素の感情を出す奴だったと。


「フッフッいいね。微妙に歪んであまり芳しくない顔が印のおかげで良くなるだろうね。カッコよくなって女の子にモテたらいいね」


 見た目の話になるとすぐに他の女を出してもてないと言い出すのはいったい何故だろうかと結局謎のままだなと男は聞かずに、返した。


「東のものにはこれはただの傷痕にしか見えないだろうから、そんなことを言うのはお前だけだよ」


「勘違いしないでほしいのは君が良いのではなくカッコいいのではなく、印が良いだけだからね。まぁ僕以外の誰に対しても満遍なく優しい君は、女からは好かれないよ」


 また意味の分からないことを。逆を言うな逆をと女が言い間違えたと思いながら男は告げる。


「お前以外から好かれる必要も無かったからそれで良かっただろ」


「底なしの馬鹿だよね。だからこれからその必要が出て来るわけで……では刻むよ」


 腕の中のそれは左手を男の首に掛け心臓に当てていた右手を離し頬を撫でた。冷たさは無く男は自分と同じ熱に触れた感じがした。


「短刀で刻むから決して動かないように。特殊な印となるから刻み終わるまで時間がかかるけれど、その際に呻き声をあげないことはもとより頷きもせず瞼もあけないように、いいね」


 男は頷かず闇の中で女の動きを想像しながら刻まれるのを待った。


 印は、二本の交わらない平行線から始まり、そのうえに文字なのか模様なのか不明なものが覆い被さるものである。


 おそらくその交わらない二本の直線が原型の印であり、そのうえに歴代の後継者たちの言葉か何かが刻まれるのだろう。


 だがその線の意図や模様や文字の意味を男は考えおうとはしない。それはひとつの禁忌であった。


 闇の中で短刀の切っ先が頬に当てられる。男は動きを予想する。二本の平行線を刻む動きを、憧れたあの線を、あの時授けられなかったそれがこうして……


 風が薙ぐようにして一本目の直線が頬を走った。男は痛みよりも恍惚感で心が満たされていくなか、間髪をおかず逆方向から直線が流れ刻まれていく。


 上下に刻まれた決して交わらない平行線。男は血が出ていないということで実感をする。既に発揮されていく印のその効力を。


 それから頬が短刀で二本の線に被らぬように模様が彫られまた文字が刻まれていくのを男は微動だにせずに受け入れていた。


 心中による感動から起こるも震えは身体には現れなかった。また女の指先もとい剣先も一瞬の躊躇もなく機械的に印を刻み上げていく、だが彫り終わり間際に女の手が少し止った。それは完了の合図にはとても思えずに男は動かずにそのまま待った。


 もう終わりであるはずだが、最後の一刀が入るのだろう。重大な仕上げであるなにかが。


 また女は一度息を吸い吐く動きをし息が刻まれ剥き出しとなった頬の肉に生温かくあたる。


 そこまで緊張しながら刻まなくてはならないこととはなんだろう?


 お前が俺にこれ以上の何を刻むのだろうか?


 男は女の心を想像するも、想像は女の心には届かぬまま、女は刻みだした。今までの動きとはまるで違い、勢いも正確さもまるでなく慎重どころか戸惑いや躊躇が入り混じったものを剣先から伝わり、それは知らない文字を初めて書くようなもののようだと男には感じられた。


 およそ彼女には似合わない動き、だけれどたまに自分にだけ見せるその心の弱さを思い出そうとすると剣先が離れ、深い呼吸が終わりを告げているようだった。


「継承の儀はこれにて完了だ……かっこいいよ」


「ありがとう。お前も綺麗だな」


「ちっとも嬉しくないよ」

「俺は嬉しいけどな」

「嬉がっても困るけどね」


 女が笑い出した。今までとは違う笑い声に男には聞こえた。印による加護が弱まったのだろう。


「平行線だ……」


 それが合図というように男は円となっていた腕を解除する。


「僕から君へはこれのみだ。これ以外には何も無い。あとは全てをツィロへ、何もかもをツィロへと捧げる。記憶も命もね。だから行こうか……こっちに来て」


 男は闇の中へ向けて言葉を呪文を唱えた。


「ジーナは行く」

「そうだよ龍と戦うために」

「ジーナは旅立つ」

「龍を討つために」

「だからあの龍との戦いで敗れて毒によって死にはしない」

「そうだよ、だから……きて」


 男の両の手は闇へと伸びた。

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