第125話 『僕は君を選択する』
いつものように女が語り続け男が書き続ける。女が促すと男も語りだす。その時のことを、その時の心を。
「呪われた身は時が止まったかのように僕の前に立っていた。その眼は印のほうにしか向いていなかった」
女の口から自分の名が久しぶりに出てきたと男は気づいた。夕日の時以来、約三年ぶりに女は男のことを口にした。
ただしそれは自分の本名ではなかった。
「呪われた身は死を望んでいた。口ではなく瞳がそう言っているから僕は思い出した。檻に閉じ込められたそんな君を救い解放したかった、と。だから僕は手に力を入れて……」
女の物語はアリバたちを村へ案内し武器を受け取ったところまで続き、龍の襲来へと向かった。
「古老も言っていた、過去に類を見ないことだと」
二頭の、その後三頭だと発覚する龍の同時侵攻。眷属との戦いに追跡それから待ち伏せ。
「呪われた身が現れ敵がもう一頭増えたのかと僕には思えた。構え剣を抜きまた切っ先をその首に当てた時に僕は今一度確信する。僕の手で呪いを解き放つしかないのだと。僕たちはそういう関係であったのだと」
男もまた再び二人の関係について考えだした。印によって翻弄された二人のこれまでを。その分岐を喪失を。けれども今はこうして呪いから解放された。されたはずである。あの時から。
「龍に噛まれた瞬間は痛みよりも先に、死を感じた。即効性の痺れもあるのか印の力を以てしても身動きが封じられ瞼が開かなくなる闇のなか、僕は雄叫びを遠くから聞きながら龍の口から解放された。それはその呪われたものの消滅も意味した。僕は聞いた、ジーナは死んではならない、と。それは僕の生きる意味ともなった」
語りから女ははじめからずっと起きていたことが男には分かった。
「抱えられている最中にそういえば彼はこうやって得意そうに僕を持ち上げるのが好きだったなと思い出した。でも僕は君のこういう相手の感情をあまり考えずに行う独占的な行為があまり好きではなかった。だからね君は気を付けた方が良い。君のそういう感情と行為が良いと感じちゃう変な女と将来出会うかもしれないけど、それは絶対に感情がおかしくて危険な女だからそんなのとは出来る限り避けて貰いたい」
「あの、いまのそれは書いた方が良いのか?」
慌てて男が聞くと笑い声が起きた。それもまた得意げな響きで。
「あたりまえだろ書いてよ。後でツィロも読むんだからさ。彼も僕の意見に賛成してくれるはずだよ。君はなまじっか力があるからそうやって俺は力があるんだぜと自慢しているけど、そういうマッチョ信仰的なものは良くないからね。それが好きな女もロクなのがいないよ。ついでに言うと箱の中に入れてくれた君の上着は足元に配置しなおしたからね。これは別に君が臭いとかじゃなくて汗だくで冷たいうえに龍の血がついているから不快だなと感じただけで」
「臭いと言っているのとあまり変わらないのでは?」
「だから言ってないって」
臭いんだが不快なんだがわけのわからないことを言うものだなと男は思っていると、妙な沈黙がちょっと生まれたと感じると女が言った。
「今のは、書かないでいいや。えーとその先は僕は眠っちゃったんだよな。フッフッいまも半分寝ているようなものだから同じなんだけど。次はしばらく君が話してくれないか。君の話を主流にして僕の言葉を時折混ぜて合流と行こう。ここまでね」
男は語るも女は黙りつづけていた。そう黙るしかないのだと男は分かっていた。毒による異変を自ら切り出せないのだから。
「俺は手の痛みと共に――の物語を書き出した。これは彼女にとってのただの退屈しのぎであり、もしかして自分にとっては二人の間には過去しか語り合うことしかないのかもしれないと、たまに思ったりもした。未来のことについてはツィロとだけ語りたいのかもしれない。それこそ明日の夕飯のことも含めて」
小さな笑い声が聞こえたが何が面白いのか男には分からずとも反応があったことは嬉しかった。それでも女は何も言わずに男の話の続きを待っている。
これまでとは逆に女が自分の話を優先的に喋ってから聞くのとは違う。話はもうこの間になり昨日になり今日になりさっきになりそして今になり、終わるとなる。
終わり?
俺は何を言っているのだ? 男は自分の言葉に恐怖を覚え首を振った。どこにも終わりなどなく、ここで終わるはずはなく、ジーナが旅立たずに終わることなど絶対に有り得ずに。
「――? どうしたんだい。言葉を止めないでくれよ。止めないで続けて……僕にはもう……」
時間が無い、と女が言わない、言えない言葉を男は聞くと口が動き出した。
「腕は一日中痛むが痛まない時間というものがある。今この瞬間がその唯一のものだった。どうしていかというとたぶん動かしているからという理由と、語りを聞くことが好きだからかもしれない。たまに自分を腐す告白も出て来て怒りや悲しみは覚えるも、どうしてか嫌悪感までには至らなかった」
語れば語るほどにルーティンワーク化された日々であったと男は確認をする。薬草を作り仕事である商売のため働き夕方になればここに来て語り聞き書きとめ夜となり眠り一日が終わる。
「ここに連れてきた初日のような焦りや緊張は徐々に薄れて行った。何となれば彼女は良く喋る時に辛辣で記憶力も抜群と、自分がよく知るあの頃のとまるで同じなのだから。そういうよりもまるで同じように努めているのかもしれないが、どちらでも良かくそれで良かった。だからなのか時に自分は彼女が治療中であることを忘れてしまう。忘れざるを得なくなることが殆どであり、来るたびに覚え去るたびに覚えていることは一つであった。良くなってきている。ああ良かったと」
女は何も言わない。きっと今考えているのだろう、自分の身体の状態のことを。いつ言うのか? いやこれからいうタイミングを考えているはずだ。どうして考える? それは俺を思って……俺がその身体を慮るようにお前は俺の心を慮り……
「霧の日となり、夕陽が隠れている中、薬房へと俺は向かった」
語りは今日へと話しを急いで進めた。俺は全部を知っていると告げるために。
「途中でシムと出会い彼女は俺の名を久しぶりに呼び重大なことを教えてくれた。治療には効果がなくジーナの眼は見えず身体は毒に蝕まれているということを」
言葉は震えずに言い続けることが男にはできた。男は信じていた、たとえそのような状態であろうとも、お前は、ジーナは、立ち上がり旅立つと。闇の中は静かである。だが死は感じはしなかった。
そうだジーナは死なない。俺が死なせてなるものかと。語りは薬房に入り部屋を開け今ここへと移った。実態と意識が限りなく一つへと移り変わり肉薄をしてきた。
「力のことで説教され上着は拒否られるも君は臭くないとも言われ今日もまた非常に分かりにくいことを言われたものの、その償いか不明だが珍しくこちらの方が先に語りをはじめ、今ここでこうして語ったことを書きとめている。あとはジーナの言葉を待つ段階へと入る。いまおれは奇妙な感覚の中にいる。過去から今へと向かって聞き続け語り続け、こうして完全に今と語りを一致させようとするも、時は進み一致などはしない。生きている限りそれが当然であるのなら、では死なら一致するのだろうか? その手前で終わるか丁度で終わるか……それは不明であり、確実なことは生きている限りは永遠に続いて行く生への確認でもあったと。ジーナの意図は知らない。シムの言うように儀式であってもこんな妙な儀式もないだろう。たとえ何であったとしても、こうして二人で語り合ったこの時は俺には幸せなものであったことは間違いなかった。あとはジーナが立ち上がるのを待つだけだ……だからジーナ、この地点にどうか来てくれ」
語り終わり男は闇を見た。何も見えずとも視線が合い、頷いたように見えた。目が見えないというのに。
「ここで目覚めたときに僕の瞳は闇しか映さなくなった。辺り一面の闇、これが龍の毒によるものだと僕はすぐに悟った」
女の口から事実が告げられるも男には改めての衝撃は無かった。大丈夫だ、それでもジーナは旅立つのだから。
「シムやアリバさんたちは万策尽くして解毒に努めてくれたが、僕は最初の段階から諦めていた。この右手の印を以てしても癒せない毒は薬草では力不足であろうことを。あれは始祖以来の新たな龍というものであろう。今までのものとは違った最大の脅威と言える。瞳に闇が宿り、日に日に身体の自由が利かなくなってきた。これも毒のせいであろう。おそらくは即効性によるものであるのだが、僕の場合は印があるために遅効性になっているのだろう。ならば大丈夫だと安心した。まだ時間がある。まだ間に合うと」
女の言葉に男の心は激しい昂揚感に満たされた。そうだこれまで沢山の時間があり手を打ってきたはずだと。
なら間に合うはずだと。旅立ちに龍を討つ旅に行く準備と回復に、と。
「介護をしてくれるシムにはツィロへの連絡のための書面の作成を頼んだ。日にちを指定しその日の夕方に必ず来るようにと。もっとも僕にはもう光が失われたことによって時間という感覚は薄れてしまったけれど、それでも全てのことをやり切るための時間はまだあるはずという自信はあった。龍を討つまでジーナは死なないのだから」
そうだと男の筆は言葉と一緒に動いた。死ぬはずがない。何度でも何度でもこれは書いても男には構わなかった。ジーナは死なない。
「早い段階からアリバさんには砂漠越えの準備を依頼すると快く承諾をしてくれ万事任せてもらいたいとのことだ。とても頼もしい。これで二つの条件が整いつつある中で僕は最後の一つをやりはじめた。彼と、あの呪いが解けた彼と、昔話をし書きとめてもらうことにした」
その意味は? と男はその説明を知りたがっていた。これがどうジーナの旅立ちに必要なものであるのか?互いに混ぜて交わり何が生まれるのか? だが女の口からはその説明は放たれなかった。
それから今日この時にまでに至る二人の会話を再び再現させつつ女はいまの感情を語りだした。
「彼の話はどれもこれも僕の感情にぶつかり衝突する。昔からそうでありあの夕陽の時がその極点だった。滅多に自分の意見を変えない彼を見るとひょっとして僕らは敵同士ではないのかと思う時もあった。そういった疑惑は僕たちが結婚する仲であったから除けられたが、別れてからは疑惑が確信へとなっていくものがあり、山での再会時は僕にとってはごく自然な感情の発露であった。僕は君をこうしたかった。こうするのが道理にかなっていることであったと。何故なら君はジーナであろうとしていることを捨てず隠してはいなかった。どちらかが去るか消えるか、この関係は終わりが無いのかと僕は思い続けた……だがそれは違った。君は僕の名をジーナと呼び自らの呪いを解いた。そして祈る、ジーナは死んではならないと」
書き写している男の心は女の言葉によって次第に無に近づいてきた。この行為の意味といったものへの疑問は消えていき、次の言葉を待つ。
だが男は次の言葉が出る前にまたは同時にその言葉を同時に綴りだしていた。わかっていたということだ。
「一つであることを約束されたものの一つになれなかった僕たちはただ一つのことでのみ一つになる。ジーナは使命を果たすまで死んではならない、その意志のもとジーナは立ち上がり、旅立つ」
男は導かれるように立ち上がり、と書きながら実際に立ち上がり、旅立つと書き上げると闇の中、真っ直ぐに立った。一人、立つ。
「――。君がジーナだ。僕は君を選択する」
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