第124話 『龍を討たずに死なない』
昨晩から延々と続く雨は季節外れな霧雨へと変わり辺りは霧で覆い尽くされていた。
「こんなことはかつて無かったな。いったいどうして」
アリバの独り言に男も不満げに鼻を鳴らす。せっかくのめでたい日がこんな天気だとはと。仕方がないと男は物語を清書し今までの分をまとめて袋に入れ出した。
何冊もあるこの女の語り。自分のは一冊未満であるので改めて女が貯め込んでいた言葉というものに感嘆しながら、今一度袋に整え入れ仕事をし夕方の時を待った。約束の時を。
その時となってもしつこい霧のせいで時の間隔が分かりづらく夕陽が見られない。こんな日は初めてであった。女がこちらに来てから今までなかった。
アリバは時の間隔が正確であり時刻をピタリと言い当てることすらできるために迷っている男に告げた。
「おいもう少しでいつもの時間だぞ。待たせてはいかんから早く行け」
急かされ男は霧に濡れながら薬房へと向かい出した。そうするといつもならシムが交代であるので出て来るのだが扉からは出ては来なかった。もう出ており、立っていた。
彼女は途中の道の真ん中にいた。霧に濡れるのをお構いなく立っているが男は目が合った途端に言葉を間違えていると分かった。
シムは立っているのではなく待っていたのだ、この自分を。その待ち構えていた不吉なるものの口が開いた。
「――」
シムはかつての名を呼んだために男は言葉を失った。ここで呼ぶのかと。異常なこと起ころうとしているのだと悟った。
「なにかあるのかシム」
「……ジーナ様はもう目が見えないんだ」
男は足元が崩れ落ちて行く感覚に陥った。落下に逆らうために嘘だと叫ぼうとするとシムが言葉で以ってその口を塞ぐ。
「見えているように思えるのは、印の力でなんとか見ようとしているんだ。だからたまになんでという時に微かに光っているだろ?」
心あたりがあるために否定できずにいるとシムがまた一歩近づいてきた。追い詰めにくる。
「身体も毒に侵されもうどうしようもない状態だ。生きているのが奇跡というか印の力で持ちこたえているといったところなんだ」
「嘘を吐くな」
言い返せば、否定すれば、救われると男は思った。幻を払うように手を払うもシムはそこにいるまま。
「あんなに元気に俺と話しているんだぞ。それなのにそんな状態だなんて信じられるか」
なら怒鳴れば、激昂すれば、シムから今のは全部嘘だと言わせればそうなるのだと男は信じようとするも、シムは全く動ぜずに同じ口調で告げる。
「あんたと会話をする時だけ印の力を使っているんだ。その他の時間はあの御方は全部眠っていらして……私は毎朝そのまま目覚めないのかと心配で心配で」
語れば語るほどシムの表情は崩れていき霧雨と涙の区別がつかなくなっていく。やめろと男は思った。それが本当のことだと信じさせるなと。そんなわけがないんだ。
「ジーナは今日旅立つんだぞ。だからそんな状態であるわけがないんだ」
「わたしもそれを知っているんだ。ジーナ様は歩くことすらできないのにどうして旅立つというのかを……ひょっとして旅立つというのは……そのまま御眠りになる日で」
衝動的に出ようとした「違う」との言葉を男は自ら呑み込みながらシムに近づき手を取った。
自分は大声を出さなくていい。そんな必要はない。そうだ何も心配はいらない。
「泣かなくていいんだよ。大丈夫だ」
シムは泣きっ面をあげて男を見た。男の顔は自信に満ち溢れていた。
「ジーナは死なない。龍を討たずに死なない。そうだろシム」
シムは安堵感を覚えのか深く頷いた。
「そうだな。そんなわけないよな。あんたとジーナ様が毎夕にやってなさるあれにジーナ様を救う何かがあるはずだ。私は何度も何度も申し上げたんだ。何故そのようなことに全力を尽くすのかと。もっと違うことをなさって身体を回復させてはどうだと。そうしたらジーナ様はその度にこうお答えになるんだ。これは儀式だと。最も大切なことなのだと」
その儀式はこれから締めくくりに入り、終わる。ツィロが訪れ砂馬の馬車に乗り砂漠へと向かう。そうジーナは旅立つのだ。
だがしかし男には自分達の過去からの物語がどうして必要であるのか分からなかった。これが儀式であることも分からなかった。それでも男は前に出た。
「シム。ジーナのもとへ行くよ。伝えてくれてありがとう。さぞかし辛かったろうな」
返事の代わりとして手が強く握られそれから離れ、シムは霧の中を去っていった。
男は改めて薬房を見渡す。霧のせいで一際陰気さが増しそこには希望は無く、あるのは絶望という感情が相応しいように見えた。
扉は物悲しい音を鳴らしながら開き、果てが見えにくくなっている暗い廊下はいつもと同じ暗さで今日もこちらを迎え入れる。
仔細に見ると、意識して見れば、ここには濃厚な死の雰囲気しかなかったなと男は感じた。
それは今日からそうなのではなく、はじめからそうであったと。そのはじめとはあの日、女がここに運ばれてきた時から。
そこから死が始まっていたとすれば、どうして自分はそこに今まで気が付かなかったのか。
男は自分の心を思い出す。そうだ思い出せ。いまこの瞬間の心をこれから話すのだから。
流れ去った意識を探りながら男は廊下の奥につき左の扉の前に立った。いつもなら、と男は昨日までの心を思い出しながら扉に手を掛けた。
開くとそこは真っ暗な闇が……違う嘘を吐くな。そんなことは思わない。思うはずもない。
思うことは一つ、たった一つ、彼女の存在を感じるかどうかしかなかった。そうであるから今も、と男は扉開くと闇の向こうで女がこちらを振り向くのが、分かった。
これだ、と男はその意識を手に掴んだ。
これしかなかった。男はシムの話すらも遠くに飛ばし、今ある心地に浸っていた。
「今日は霧だね。濡れているけれど本は大丈夫かな?」
「本は大丈夫だけど、俺の心配はしてくれないのか」
「君は濡れたって問題ないだろ」
ただ存在し話ができることを、自分は望んでいたのだと。そうであるのならここが闇の世界であっても死の空間であっても罪深きものが落ちる奈落だとしても、構わなかった。
「じゃあ、いまを目指して始めようか」
男が座り筆を執ると女が言った。
「僕は山を降りた」
「俺は山を登った」
言葉は同時に放たれ闇の中で重なり交わるため語られる。
「僕たちは」
「俺達は」
「再会した」
物語が始まり、交わっていく。
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