第120話 『それはあんただよ』

「経過は良好でな。もしかしたらこの前のあれ、そう、あの紫の草のが効いたかもしれない。そういうことだ」


 奥歯に物が挟まっているようなシムの説明を聞くも男の心は喜びが湧いた。良くなっている、そうだよなと。


 ここのところ毎日夕方に彼女の元を訪れ延々と喋っているのだから。かなり長いこと話していると思うのだけど、出てくると特に時間が経っていないのが不思議でたまらないのであるが。


「ところでシム。今更聞くのだけどいいかな」


 男がポツリと尋ねるとシムの身体が大きく震えた。そういう持病持ちだったっけな?


「なっなんだよ」


「うん? いや、どうしてあの部屋はいつもあんなに真っ暗なんだ? あれとの会話は書き留めないといけないんだけど、あんな小さな蝋燭の火じゃちと書き辛くてね」


 気軽に聞いたのであるが、シムは神妙な顔つきで何かを考えていた。何を考えているのだろうか? 妙な間が生まれた後にシムは何かを思いついたように顔を輝かせた。思い付きで応える類の質問だっただろうか?


「療養中の貴婦人の姿は見てはならない、ってあんただって知っているでしょが」


「それは親族は除外されるんじゃないか?」


 かかったなアホが! というようなシムは悪い笑みを浮かべ男を見た。


「残念ながらあんたはもう親族じゃないよ。あの御方はツィロさんの一員だよ」


「そこは知っているけど。俺はほらシムはよく知っているだろ。兄妹だって」


 捕らえた! と言わんばかりに大きく首を動かし否定を表した。


「血は繋がっていないじゃないのさ。養子であってしかもあんたの家とは繋がりがもうないよ。あんたがあの時どっかに行かなきゃ」


 シムの声が低くなりだした。


「あんたはジーナ様の婿という立場であの村に居られたのにさ。あんたがいなくなってあの御方はツィロ様を御指名して今の形となって」


「ツィロなら良かったじゃないのか。それともシムは良くなかったとでもいうのか?」


 まさか、というように手を振らしてシムは苦笑いをした。


「どこからどう見ても素晴らしい夫婦ですよ。ツィロ様は大変なお役目なはずなのに弱音一つ吐かずにお勤めしておりますし、妻としては敬愛しジーナ様も夫として尊敬しておりますって」


「俺ならそういう関係になれないから、これで良かったんだ。この間なんて始まりの記憶について話していたけど、あいつは転んだ時に手を握って引っ張ってくれたのが俺だと言ったけどそれはツィロだから違うんだな。そう言うと絶対に違うと言い張って、そこからあっちは俺の記憶力の悪さを詰りだしたりと初日からめんどくさくて酷かったよ。結局はあっちの言い分で通ることになったが、人の記憶って難しいものだな」


 見るとシムは元から固い顔であったがさらに固く強張らせて男を見つめ、それから喋った。


「それはあんただよ。ジーナ様の記憶は間違えてはいない。落ち着いて、あのなツィロ様の幼少期の御教育はな、女の子と遊ばないことだよ。それは私が付き添いでどこにでも行っていたから間違いはない。あんただよそれは」


 男はシムが嘘をついたり勘違いしているとは到底見えなかったものの、やはり疑問に思った。本当にそうなのかと? 私なんかが記憶の始まりに現れるなんてそのようなことは正しいのだろうか? こんな誤りの塊みたいなものが。


「……あんたがそれを思い込むということは危ないことだよ。自分の都合が良いように記憶を改竄するだなんてさ。しかも悪い方に、まぁあんたの存在は悪い方だから仕方がないんだがな」


 我が意を得たりといったように男は笑い清書の仕事に戻るとシムに色々と聞いた。


「ツィロの怪我の経過の連絡はどうだ?」


「杖を使わなきゃ歩けないようだけど、あちらも経過は良好らしいよ。それより村の後片付けやらで忙しいらしいな。それでも近いうちにこっちに大急ぎで来るとのことだ。お忍びという形になるから難しいだろうがね」


「アリバさんに協力してもらった方が良いだろうな。けどそこまで心配することは無い状態ではあるな。容体は安定しているし元気だし、あの部屋で話すと治療中の人とは思えずなんだか昔と変わらない感じがするしな」


 手を動かしながら男は顔を上げずにそう言ったためにシムの返事は声でしか聞こえなかった。それで良かった。


「そうだよ。ジーナ様は良くなっている。けどほらさっき暗くしている理由だけど、ここだけの話、顔色が良くないんだよ」


「毒にあたればそうなるのは当然だな。しかし俺に何を隠すつもりなんだろうな。死に顔寸前すら目に入れたものに対して」


「あんたとは親族とは言い難い微妙な関係だからな。元婚約者でもあるんだろ? このことがツィロ様に知られて勘繰られたら嫌でないか?それとあまり見苦しい顔は見せたくはないというのは男には分からない婦人の心だ」


「ツィロと女心とか持ち出されたら俺としては何も言うことが無いから、蝋燭の火で頑張るか。こんな昔話で気晴らしになれるのならこちらも気が休まるな。いまは十代の頃に入ってもう数日で終わりそうだ。なぁ見てくれよこの分厚さ。手が腱鞘炎になりそうで痛いがもう少しだな。その頃にはきっと身体も良くはなって龍を追う話を到着するツィロ達と話しあって、と過去の話をしながら未来のことを想像するって不思議な気分だな……なぁシム」


 男は変に静かなシムに向かって呼びかけた。こんな長広舌の途中ではあれは何か口を挟むはずなのに、黙って聞いているだけとはおかしかった。見上げるとまたもや不似合いな神妙な表情でこちらを覗いている。


 何を覗いているのか? まるで心を覗いているように。


「ジーナ様は、龍を追い懸けますよ。印にかけてだ」


 突拍子の無い言葉であったが男の心に喜びが染み込んでくる響きであった。


「そうだジーナは龍を追いかけ、討つ。それが正しさというものだからな。シムも大変だけど治療を頑張ってくれ。俺はこんなことしかできないが、これで支援するよ」


「そんなことはない。あんたのそれは私のよりもっと大事なことだ。決しておろそかにしていいものではないよ」


 いつものシムのお説教が耳を突き苦笑いするが、そこには懐かしさと珍しさがあった。


 まさかこれが自分のよりも大事だというとは……だから男は思った。彼女の状態はこちらの想像以上に良好なのだろうと。

 

 その夕刻も男は小屋へと向かった。

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