第119話 『僕の代わりに死んで』
今度は女から返事が無くなり男にはその様子もまた想像できた。
きっと両手の指先を合わせたり指を回したりして思考を落ち着けているはずであり、だけども出てくる言葉は考えた割にはだいたい浅くてどうでもいい返事となると、実際にそうだった。
「ほらできるじゃん。それでいいんだよそれで」
満ち足りて心地良いといった響きがある声で返ってきた。そういえばこの声は昔よく聞いたなと思い出してもいた。
「もう一度、呼んでよ」
「……ジーナ」
「フッフッフッ君からそう呼ばれると格別だね。なんだか元気が出るよ」
それは良かったと男もまた感慨に満たされた息を吐いた。力が湧き毒が治り元に戻るのなら、いくらでもその名を呼ぶと男は闇の中で決意する、だが。
「あの、俺を呼んだ用件ってなんだ? この程度の雑談をするというのならそれでいいが」
「この程度って、なに? 僕と君との間でこれ以上に大事な会話って、ある?」
大らかに撥ねつけるように女は男の言葉を除ける。
「それはあるだろ。これからの龍の追跡についての話合いとか」
「君はいまは部外者だ。その話はツィロとする。そっちは僕達の話だ。僕達のことは僕達で話し合う。君には関係はないよ」
怒りから男は椅子から立ち上がり女の方へ近寄ろうとすると、足が止まる。自然に止まる。何かが止めた。
「――。僕が君としたいのはね、君と僕との話をすることなんだ。それは僕たちにしかできない。代わりなんて世界中どこにも、いないんだよ。だからその役目を引き受けてくれないか?」
男は自然と足を後ろに戻し椅子を手で確かめながら座った。
「分かった。話でもしようか」
「へぇ随分と素直なんだね。ごねたりわがままを言って僕をめんどくさがらせると覚悟していたのに、どうかしたの?」
「ただ単に俺はできる限りのことはなんでもすると心に誓っているだけのことだ」
そう言うと女のいる方向の闇が深く濃くなったように男には見えた。目が慣れだしているというのにまた暗黒に満ち、それからおかしな間も生まれた。
時間が経ち進んでいるはずなのに止まっているような、外部からの影響が何もうけつけなくなった空間に。
それはまるであれが言う僕と君だけという空間のように感じられ……するとようやく闇から声が届いた。
「あっそう。ねぇ君。僕の代わりに死んでくれないかな」
その言葉に男は衝撃すら感じずに頷くと、やはり見えているのか女の笑い声が闇の中で反響する。
「フッフッフッ君だからそう頷くだろうなと思ってはいたけど、こうやって実際に見ると、すごいなやっぱり否定しないなんて」
「俺はできればそうしたいと思っている」
男が言うと闇の果てからわざとらしくおおげさな溜息が放たれよく知る生臭い息が鼻を突いた。
「はいはい、そうですね。どうせ君のことだ。このことはぜーんぶ自分の責任であるとか、そんな重っ苦しいことを考えているんだろう、ね?」
挑発的な言い方ではあったが男は否定せずに小さく頷くも女には見えているのだろう、そうであるから嵩に懸かって挑んできた。
「ああそうだ君のせいだよ。君のせいだ、全部が君のせいだから、だから、ねぇ責任をとってよ」
声が近くに、ベットから乗り出し近くによって来る気配の中で男は押しとどめるために言う。
「俺の死でお前が生きるのなら喜んでこの命を捧げる」
「そうだね。それがいい。それで僕は生きるよ」
闇は安定したのか勢いを失い、そこで立ち止まる。
「ジーナが龍を取り逃がしたまま死ぬだなんてことはあってはならない。死なない、死んでも死にきれない。よって代わりに死ぬのは君だ。それでいいだろ」
「それが可能であるのなら、それを望む。俺が死にジーナが生きる。その方法があるのならやってくれ。龍を逃したのは俺の責任であるのだから」
「君があの時に僕を腕から落して追いかけていればさ。君がね、龍を討つよりも僕なんかを優先させたこと、これが大罪だ。そうしなければよかったのに」
「それは違う」
会話が進むにつれて広がりつつあった闇がまたそこで止まり女は沈黙で以って続きを待った。否定を否定で返さずに待つ。
「あれが正しいとは俺は言わない。間違えてはいるけれど俺にはあれ以外のことはできない。
大罪であるというのならそれはそれで構わない。俺に相応しい罪だと受け止める」
しかし男の深刻な声は女の軽い笑い声でかき消された。
「ああ罪だよ。僕とツィロに対してね。人の妻に手で触れるどころか抱きかかえるなんて罪だろ。もしかして山から降りて悪習に手でも染めたのかい?」
「そっちこそいくらなんでも保守的過ぎる。緊急時なのに何を言うのやら。それを言うならだいたいお前は俺の家族で」
「元はだろ元。もとは成人になったら家を出るというのが約束だったしいまはツィロの家の一員だ。それをよりによって君に抱えられるだなんて、冗談じゃないよ。大きなお世話でだいたい君もそんなことをして疲れただろ」
「別に重くはなかったから疲れてはいないよ」
「違う。なんでそういうことに話を繋げるの」
「身長も伸びたし髪だってかなり伸ばしたけど特に重くは感じていないから疲れてはいないぞ」
「だから違う。ああしつこいな。君がそこまでそっちに話に乗り換えるなら付き合うけど、僕は確かに身長はそこその伸びたし髪だって伸ばしたよ。ほらあの日以来僕は大人になったんだから、あんな子供っぽい髪形もないじゃん。立場も出来たんだからそうやって形から立派にならないと思ってね。色々と苦労したよ」
男は闇の中では女の髪形を見ることはできなかったが、すぐに頭の中で思い浮かべるほどその姿は鮮やかであり、心の声が漏れるほどのものであった。
「あれは似合っていたな」
おっという声が闇の向うから聞こえ闇が幾分か明るくなった気がすると、小声が額に飛んできた。
「もうひと声を加えると、どう思った?」
なんてくだらない言葉を要求するのかと男は感じるものの、女がこうやってふざけながら聞いてくるときは男の頭はいつもよりも素直に冴えわたるものがあった。
「綺麗になったな」
思った通り女の笑い声が聞こえ男も一緒に笑いだした。
「うわあ言ったよ。なにその言葉。凄いね。山の下の世界ってよっぽど軽薄で退廃的なんだろうなぁ。あんな君がこんな台詞を覚えさせるだなんて。会う女全員にそんなこと言っているんだろ? 挨拶?」
「この町でそんなことを会う女ごとに言っていたら掴まるだろ」
「僕に言ったら捕まらないの?」
「捕まらないよ。山に残っていたら言っていたのだろうし」
「それは無いな。君はあのままいたら言わなかった」
言葉が耳を刺し否定や反論といったそれ以上ものを許さなかった。
「こうやって見るといまの君はあの頃のとは全然違うものがあるね。頑なに変わらないところもあるけれど、大きく変わったところもある」
褒め言葉なのかよく分からないながらも男も呪縛が解けたように指摘する。
「そっちも大きく変わったけど変わらないところもあるな。その話し方とか。アリバさんとか村のみんなの前だと僕でなく私と言って重々しい口調だったのに、俺の前だと昔のまんまで」
「そりゃ君の前でしか使わないよ。それとも私と言った方が良いの?たとえば……私としてはもうずっとこの話し方だからこちらの方が良いと言えばいいのだけれど」
女の口調が改まると男の心は拒絶反応を起こした。
「俺はそんな口調の人を知らない。なんだから落ちつかないな」
「嫌だ?」
女は聞き男は答える。
「嫌だ」
見えずとも男は女の顔が微笑んだと感じた。
「じゃあ変わらないであげる。いまの僕が君にできることなんてそれぐらいしかないからね」
「それを言うのなら俺もお前に出来ることなんて何も無いよ。こうやって取りとめの無い話を延々とするだけだなんて」
「僕と話をする、とてもとても大事なことだよ」
「どこかだ」
吐き捨てた瞬間に男の口内は苦いもので溢れ女のいる方へ目を向けると、二つの金色の光が闇の中で浮かぶのが見え、射すくめられた。
「それのみが僕が生きるために必要なものだと言ったらどうする?」
どういうことだと男は聞けずに無意識に首が頷き同意をする。この女を救えるのならなんでもすると。
「君はこれから毎日今日と同じ夕方の時刻にここにきて僕と話をする。その内容は……思い出話をしよう。僕と君の始まりからあの日の分岐からは交互に語り、そして今のこのここへと辿り着く。それで完成品をツィロに読ませるんだ。とても面白いだろ?」
何が面白いのかさっぱり分からないものの断る理由もなく男はまた頷くと金色の光りは消え口が利けるようになった。
「必要なことならもちろん付き合うが、どんな意義があるのか全く不明だな」
「気がまぎれるだろう。ああ毒に蝕まれた身体が痛くて辛いなぁ苦しいなぁ」
切なそうな声を出すが演技臭さがむせるほど鼻についてついでに羞恥心を起こさせるほどであった。
「なんだかきちんと話しもできるし結構元気なんじゃないのか?」
「元気なのは君と話しをして気分が良くなっているからだよ」
女が言葉を切ると男の胸底から温かいものがこみ上げ全身に染み渡るような何かを感じていたが、男は浸ることなくそれも耐えた。
何故なら男には闇のカーテンの中で女が嘲りの表情でこちらを見ていることが察せられたからである。
「そう言えば俺が内心喜んで要望にお応えすると踏んでいるんだろ」
「そうだよ。けど事実いま嬉しかったでしょ?」
「……違う」
「嘘つき。まぁいいや。君は一緒に居られて嬉しいな、とか言う男じゃないからね。じゃあそういうことだから明日から記録用の紙と書きものを用意しておいてくれ」
返事をし男は立ち上がり扉のある方へと向かうと背中に言葉が一方的に飛んでくる。
「そうそう後半に備えて頭の中で下の世界で付き合った女の整理をきちんとするんだよ。あとでそう言えば彼女もいたなとか言っても追加とかできないからね」
嘲笑による明らかな挑発に反応しても怒っても駄目だと判断した男は二度深呼吸をしそれから答えた。
振り返らずに顔を想像し……えらく憎たらしい顔しか想像はできなかったが。
「そうする。ではまた明日」
「また明日ね」
廊下は薄暗いまま愛想もなしに来客に見送っているようでいて、もうこんな夜なのにどうして蝋燭に火を入れないのか男には不可解であった。
シムはそういうことがしっかりしているのが取り柄であるのに。長い廊下の始まりであり終わりでもある扉に手を掛け開くと、馴染みある夕陽が男の身体を土色の赤に染めた。
男にはこの夕陽の色の加減で今がどの時間であるのかは分かる。入ってからまだ半刻以内でありそれは体感時間とかけ離れていた。
赤い夕陽に男は呆然とし遠くからシムが桶を手にこちらに向かっているのが見えた。まだ夕飯の時間ですらない。
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