第106話 お互いに上着を一枚脱ぎませんか?

「案外物覚えが良いのですね」

「相当に悪いと思うのだが」


 ハイネは感心した声をあげたがジーナの手元には中央の字によって真っ黒になった木版があった。


「期待値というものがありましてね」

「もう少し高めに設定しても良いと思うけれど、ところでこうもうちょっと書きやすいものでお願いしたいのだが。せっかく古紙があるのだからさ」


「これは別に紙類が不足ということではありません。うちの地方に伝わる勉強方法です。紙にはきちんと値段があるのですから、このような反復勉強で使い潰して消耗していいものではありません。なので、はい、これで」


 ハイネは削り用ナイフとやすりをジーナに渡し微笑んだ。


「削って真新しくするのです。こうすればこれは辛いから頑張って覚えようと一字一字無駄にせずに書こうという意識が生まれますよね。勉強はこの精神が大切なのですよ。まぁ時間はたくさんありますから慌てずに行きましょう」


 よりによってこんな厄介な勉強方法の信望者が先生とは、と溜息をつきながら削りに入りながらジーナは思う。自分の仕事は?


「あのハイネ。仕事は?」


「もう殆ど終わりましたが。そうやって私の仕事を気にするところを見ると勉強がお辛いようですね」


「そういうことじゃなくていつもたくさんの書類仕事をしているから今日はどうしたのかなと」


「ですから終わらせました。ああいうのはですね沢山あっても一日分に分けてやっているのであって、それを早めに終わらせても疲れるだけですからそうしているのです。要領をつかめばあっという間に終わるものです。そもそもあなたが私の仕事を増やしているのにそういうことを気になさるのはおかしくありません?」


 えっそれは、とジーナは顔を上げるとハイネの目が輝き愉快そうに笑い視線が合った。


「冗談ですよ。けどそのことを気にしなくていいですからね。これはシオン様から許可された重要任務ですから。そうでもなければこんなことしませんよ」


「たしかにそこは二人に感謝している」


 ハイネはその言葉に痺れたように無言であったがジーナはその姿を見ずに手元の作業に戻り独り言を漏らした。


「私も中央の字をいつかは習おうと考えていたが、ついにずっとできずに諦めていたからな」


 小声ではあったがハイネはそれを聞き漏らすことはなく捕え、黙った。


 言葉を発しなければ続きが来ると。そして続く言葉は沈黙の中で、咲いた。


「昔から私は砂漠の先に移住しようとも考えていたんだ」


 ハイネにとって福音のごとき言葉が聞こえたからにはもう辛抱できずに尋ね、引っ張った。こちらの方へ。


「ジーナは中央付近に移住しようと思っていたのですか。それはとてもいい考えですよ」


「私はあの頃はいい考えだと思っていた」


「あの頃は、ではなく今もいい考えですよ。あの西の砂漠前の町は良いところじゃないですか」


「ハイネもそう思うのか。それは同意するけれど良いに越したことはないが私はどうしても西から故郷から出なくてはいけなくなってね、出来るだけ遠くへ、ということで東を目指そうとしたわけだ。今じゃもっと東どころか東南へと行き過ぎてしまった感はあるけど」


 自嘲気味に笑うとハイネも笑いだし不図ジーナは気づいた。


「ハイネは、その私の故郷の話とかを聞いてはこないけど、それは意識してのことで?」


「わかります? そう意識はしていますね。ジーナって自分のことは全然話そうとしないじゃないですか。ほとんどの男の人は私と会話するとき故郷の話とかをたくさん聞かせてくれますよ。自分がどれだけ強くて勇敢だとか自分の血が青いか実家が大きいとかお祭りのこととか。私はそれをいつも微笑みながら聞いていますからそれで私は各地の風習とか男女の気質について耳学問ですが中々に詳しいですよ。ですけれど」


 一度言葉を切るとジーナは木版を削り終えた右手を机の上に置くとハイネが左手を乗せてた。その手の甲にはハイネがよく知る体温があり、そして思う。自分はこの男については体温のこと以上に詳しく知っていることは無いのでは。


「あなたはそう言った話を一切しませんね。自分の手柄話とか故郷の話とか」


「人に対して語るほどに誇るようなものではないからな」


「過ぎた謙虚は嫌味ですよ。それだけでなくて避けている何かがあると私は感じます。だから聞こうとしないのです」


「別に隠している何かがあるわけではなく、ハイネに対して私の話など興味が無いだろうから言わないだけで」


「では私が聞きたいと言ったら、どうです?」


 興奮し上がっていたジーナの体温が一気に下がるのをハイネは掌ではっきりと分かり、だから掴んだ。


 驚くジーナの視線を受け止めながらハイネは心の底が涼しく心地良い衝動のなかで一つの心を告げることができた。


「お互いに上着を一枚脱ぎませんか? 見ているのは聞いているのは私達だけですから大丈夫ですよ」


 そう言うと予想通りにジーナの目が泳ぎ混乱で首が動くのを見てハイネは満足して笑う。


「もちろん今のは比喩ですが良い反応ですね。つまりはこういうことです」


 安心しているジーナから顔を横向ける今度は腹の底に冷たいものが湧いてくるのをハイネは感じた。


 不快な冷たさがそこにありそうであるからこそかジーナの手の甲の温みが強調され一つになりたいとでも思うくらいであり、息を吸いひとつ息を吐き、上着を脱ぐ。


「あのですね。私もあなたと同じく実家には帰れないのです。だからここの部分は実は一緒なのですよ。もちろん内戦中ですから故郷への道が閉ざされたり一族が分裂して帰るに帰れない人が大多数です。ソグと中央の両方に親戚がある人は必ずそう。シオン様もヘイム様もそうですけれど、私の家の場合は元々バラバラでしてね。父と母の折り合いが悪くて、あっうちは父がお婿さんでしてね家の本来の当主は母でして。母は……あの人は父と私をあまり好いてはなく私が武官学校に行くと言ったら大喜びでした。そのぶん父は寂しがったでしょうが、まぁ将来に家の当主となるのならと仕方なく見送ってくれましたが、その間に父が病気で倒れてそのまま……と、ここまではよくありがちな不幸な話ですが、葬儀を済ませて武官学校に戻り一年後に家に帰ってみるとびっくりで、あの人は新しい男を家にあげていましてね」


 心の底が寒さで震えて来るのがハイネには感じられ、それが声に手に出て来るのに怯えた。この人の前で晒けだすのがこんなにも冷たいものであるとは思ってもなく、逃げたい気持ちが先走り左手の力が緩む、するとジーナの右手が捕えにきて握り返されるのを手の感覚で知った。見ずともそこには熱さがあり力があった。


 その熱がハイネは中に入って来るのを感じながら口を再び開く。


「あの人はどうもその男との子を跡取りにしようと考えているようで、私はそんな不潔な空間にいることがもう我慢できないしあと色々とあって、結局武官学校の先輩であったシオン様を頼ってソグ王室のお付きにしていただきました。側近として働かせていただいている最中にあの動乱が起こってしまい、いまはこのように……」


 気を取り直したハイネは手首を回しジーナの手に指を絡ませた。


「あなたみたいな人に字を教える役に甘んじているわけですよ」


「えらく零落した感じがあるな」

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