第105話 『これは呪われたものだ』

 これで五軒目の抱擁だとアリバの背中を見ながらジュシは思った。


 まん丸い巨体で市場の端から端まで歩き回り店の主人と交渉口論抱擁を繰り返すことさらに六軒目。


 護衛と助手をしているだけであるもジュシは疲れを覚え出しているのにアリバは精力絶倫に次の店に狙いを定め入っていく。


 踏破のアリバ、とそれは砂漠帰りの際についたあだ名であるが、市場に限っていえばここにいるのは訪問のアリバである。


 笑顔を絶やさず議論を絶やさず感謝を絶やさず、と人情と根性こそが商才だと言わんばかりのその姿にジュシはいつも敬意を覚えると共に不安になる。


 自分にはあれができるのか、と。いやそうではない、あれにならなければならないのだと。かつての自分とはまるで違うものとならねばならないのだと。


 そうなるとアリバの姿勢がなによりのお手本となるのだが、その度にジュシは思う。どうしてこうなってしまったのかと? 下らぬ愚痴だと思いつつも、してしまう。


 自分はああならなければならない、とジュシは自分に言い聞かせる。自分はああなるのだと、俺の未来はあれだと、だが何度も何度もいい聞かせるその言葉の隙間から、懐かしい声が囁いてくる。


 もしも戻れるのなら、やり直せるのなら? 可能性が誘惑しいつもジュシは耳を塞ぐ。そんなことは、有り得ないことだ。


 無駄な思考に支配されたりされなかったりと、ジュシはアリバをサポートしながら市場を巡り、肝心な昼食の時間や水を絶やさずに手渡し、いつ果てるともしれぬ持久走を経験していく中でアリバの精力的な態度にジュシは不屈のアリバという、新たなあだ名を下らなくも考えながら歩いていると、市場の中央を走る道路の真ん中で足が急に止まった。


 いつしか時刻は夕方となっており、夕陽が空へと昇っている。


 その陽射しを背負いながら一人の男がこちらに向かって歩いてくる。細身のその身体はまだ顔が見えないが、歩き方から衣装によってそれが誰なのかジュシには明瞭であった。


 間違えるわけが、ない。自分が見間違えるはずがない。進んでくるその陰ともいうべきものに対しジュシは封印し続けてきた故郷の言葉が叫びとして出た。


「ツィロ!」


 悲鳴とも歓喜とも言える混乱した声が男の足を止め、ジュシの方を見た。すると表情がそこに現れた。


 困惑から喜びに変化したかと思いったのは勘違いか、すぐさまツィロの表情は険しさどころか恨みに歪み、怒りに満ち溢れた。


「何故声をかけた」


 近づきながらツィロは罵声を浴びせて来る。


「呪われたものよ」


 ジュシの足は動くことができない。その名の刻印が心臓にあるのか痛みが走る。


「お前はもうこの世界には」


 記憶の中にあるツィロの涼しかった顔はもうそこにはなく、あるのは深い皺が刻まれ自分を否定してくるなにかであった。


 その何かが決定的な何か恐ろしいことを言う直前にジュシは肩に手が掛かり引っ張られた。


「なにを呑気にお喋りをしているんだが。お客様か? それでないのなら即刻やめろ。それでそちらはわしの助手になにか御用でも?」


 間に入ってきたアリバによって言葉の流れは途絶えジュシとツィロは顔を合わせずに済むようになった。


 助かった、とジュシはどのような危機があったのか分からないもののそう思った。


「商人? 助手? ……ああそういうことか」


 ツィロの蔑むような独り言が聞こえ、やがて声が弾けた。


「その髭面は……あっもしかしてあんたがあの踏破のアルバなのか? いや探していたんだもちろん注文ということでな」


 客だと分かると半身の構えであったアルバが正面を向き、営業用の笑みを浮かべて腰を曲げた。


「左様でございますかお客様。なんなりとお申し付けください」


 ツィロは恭しく頭を下げるアリバに目を向けジュシのことから完全に目を離した。


 無視することに全力を尽くす、そんな風にジュシには見えた。


「東の武器の在庫はあるか? あちらの最新鋭の武器が必要だ。罠の装置があれば良いのだが、おっあるのか。説明をしてくれ」


 日陰に移動しながらアリバは商品の説明をしツィロの質問と理解も的確でありジュシは友の変わらぬ姿を後ろから眺めていた。


 かつての、とはどうしてもまだつけることができずに目を離さずにその姿を見る。そうであるからこそ見逃さなかった。


「そこまでお詳しいとはお客様は実に素晴らしい。あなた様ならば最新の罠装置を使いこなせましょう。ご注文は承りますけれど、お話を聞くところ対人用ではなく獣用ですね。しかも大蛇の大物とかでは?」


 アリバは注文のメモを取りまとめながら何気なく聞いたところツィロはジュシへ瞬間的な一瞥をし、それを見逃さず合わせ何もかもを察した。


「そう、大蛇ですよ。うちの地区ではこの季節になると大量に出るもので。厄介なのは人を呑み込む大物ってやつだ。こいつを罠にかけたいからこうして注文をしたわけでな。そういうことだから大至急頼む。それで俺達の山の場所はな」


 ツィロの口から懐かしい単語が聞こえて来た。一つ一つの言葉が記憶を甦らせ形となって足元に現れ風と湿度によって肌に触れ音が生まれて耳に入りその情景が視界に映る。


 忘れようとしていた三年の月日が無為な時であったと告げるように、ツィロはまるでこのことを知っているように罰をジュシに与えているようであった。


「ではご指定の日にまでには必ずお届けいたします。お取引の御条件は以上でよろしいでしょうか?」


 アリバの最終確認にツィロは口を引き締め瞼を閉じしばしの瞑想に入り、それから力強く開き右手人差し指を一本立て言った。


「条件を一つ追加する。これは一歩も譲れないものであり絶対に守ってもらう。そうでなければ取引は中止だ」


 怒声にも似た声で以って命じそれから立てた人差し指をジュシの方に向ける。顔は動かさず視線すら向けずに指した。


「そこのそれを山に一歩たりとも踏み入れることは許されない。あんたは知らないだろうがこれは呪われたものだからな。山に災厄を招くものだ」


 勢いにアリバは呑まれ了承の言葉と共に頷くと、ではとツィロは振り返りそのままやってきた道を引き返していった。


 夕陽に戻っていくように見えジュシは彼がどう帰っていくのかを想像するよりよりも先にひとつの考えにとりつかれていた。


 ツィロの言葉を繋げていくとどう考えても一つの結論にしか達しなかった。話を聞けば隠していたも自分には分かるはずであるからこそツィロは山に帰ることを改めて厳禁にしたのかもしれない。


 その結論とは、黒い獣が……龍が来る、龍が来るのか? この時期に? そんな馬鹿な? それはあり得ないことだ。


 久しく聞こえなかった音がジュシの胸に響く。あの日から止り続けていた秒針が軋みと共に動き出す音をジュシは聞いた。

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