第64話 では君はもう結婚はしないとでも

「こうして二人は永遠に離れることなくいつまでも末永く幸せになりました。こう締め括られたらどれだけいい話でしたでしょうね」


「よしてくださいよルーゲン師。それじゃあ私の人生は終わってしまいます」


 例の講義中であったがバルツ将軍は会議のために抜け出したために講義室にはジーナとルーゲンの二人だけであった。そのルーゲンは早めに講義を切り上げ、昨日のバザーについて尋ね、そのおしまいまでジーナは語り終わった。


「とは言いますがジンという男はそこで人生の絶頂を迎えたのではありませんかね。婦人と結ばれ祝福される、それは平凡かつ偉大なことですよ。僕は羨ましさを感じてしまいますね」


 感心しながらそう感想を述べるルーゲンにジーナは戸惑った。それは彼のその仕草と声が冗談に軽口もしくは演技ではなく、心の底から慨嘆であり悲しみを響きが聞こえたからであった。


「僕がこんなことを言うのが意外ですかね」


 大きさが微妙に違う両目で以ってルーゲンは見つめながら悪戯っぽく笑いジーナも釣られて同じ調子で返した。


「それがお望みならそうなされては如何でしょうか? ルーゲン師が望まれるのならすぐにでもでしょうし」


「いやいや僕は駄目ですよ。婦人に好かれる質ではありません」


「いえいえ御冗談を。あなたがそれなら私や他の男はどうなります」


「いやいや君はできますよ」


「今日のルーゲン師は御戯れがすぎますね。私がすぐにできるってそんな馬鹿な」


 と普段の扱いを思い起こしているとジーナは辺りが暗くなったと感じ見上げると、ルーゲンが窓を塞ぐように前に立ち影を作り指を自らの目に当てる。


「君の言う通りだとしたら世の御婦人方の眼は著しく歪んでいるのか、あるいは見えないかのどちらかであり、もしくは君の認知が歪み、または不明になっているのかもしれませんね。瞳は心の窓と言われその瞳に映る世界は、人間の認知の反映ともいえましょう。つまりこのように窓の前に何かが立塞がっているのならこのように室内や、心は暗闇に覆われるのです。それでジーナ君。君にとっての心と世界の境にある窓辺に立っているものとは、いったいなんでしょう?」


 闇が充実してきているのかルーゲン師の顔が見えなくなってきた。私と世界の間にある何か? 何かとは何だろう? そんなものは無く、私は今の私で、もう、間には何も……考えていると窓辺のシルエットが、変わったような気がジーナにはした。


 ルーゲンのではなく、それは彼自身がよく知る、今この場では有り得ないものであり、それを見てジーナは叫びにも似た声をあげた。あなたはあいつではないはずなのに! 出てくるとでもいうのか?


「ルーゲン師!」


 叫ぶとシルエットは驚きで揺れ瞬き一つでその姿はルーゲンのものとなった。もとに、戻った。


「あっ失礼いたしました。そのルーゲン師で影になって暗くなってですね」


 慌てながら言うとルーゲンは窓から離れた。


「怖くなりましたかな。けれど僕が影となって、ですか。ハハッ面白いですね」


 何が面白いのか分からないが、ルーゲンがどいたことによって光が室内に入り息苦しさが緩和された。だがどうして今日に限ってこんなに闇に慄くのだろうか? 闇がいつもよりも濃いとでもいうのか?


「ジーナ君は女の人に振られた経験はありますかね」


 天気の話をするように窓の外に顔を向けて聞いたためジーナは軽く答えた。


「西はこちらのようにまでは自由ではありませんが、似たような経験はもちろんあります。謙遜なさるルーゲン師には関係ない話でしょうが」


 またそう言う、とルーゲンは笑いながら振り向き近づいてきた。今日はやけに明るいなとジーナは思った。同時に辺りの闇も強い。


「君は僕が女官や貴族令嬢らに好意を向けられてることを言っているのだろうけれど、自分の望む人に望まれないかぎり、その他大勢から好かれてもなんの意味がありましょうか? 僕はその一点が欠けている、決定的にね。だから私は駄目なのです。そういうことですが、お茶を飲みますか?」


 いつの間に用意したのかルーゲンの手にはポットが握られておりジーナはありがたく茶を注いでもらった。


「するとルーゲン師のはいわばお茶が飲みたいのにお菓子ばかりが机の上に並んでいる状態のことですかね」


「いいですね。たまに見せる君の機知が僕は好きですよ」


「私ならそれでも一向に構いませんですよ。唾が出ますから渇きはそれで癒します」


「僕は口の中が乾きやすいので、窒息死してしまいますよ」


 では、とジーナは口にし茶を一口いただいた。この人の淹れる茶が一番旨いなと呑むたびに思い、呑むたびにこの人は私となんで茶を呑んで雑談したいと思うのかも不思議であった。


「もしも茶が手に入らないと決まったらどうしますか? 我慢してお菓子を食べる他ありませんよね」


 ルーゲンは苦微笑みをしジーナを見つめる。左右不均等なその眼、美しく整った顔の中の歪さ、それを以てルーゲンはジーナには告げる。


「ならば座して死ぬまででしょう。そこで僕は妥協を致しませんよ。最も僕は今まで自分のことに関しては妥協ということをしたことがありませんけれど」


「人はお菓子のみにて生きるにあらずですかね。なんとも情熱的なお話で」


 いやいやとルーゲンは手を振り茶を一息で飲みながら言った。


「全然違いますよ。正反対だ。これは冷徹かつ現実的な話に過ぎません、というよりもそれ以外の選択肢は僕たちにとっては敗北なのです。このような時代を迎えその役目を担ったものにとってはね。それで君はどうなのですか?その場合はお菓子を食べると言いましたが」


 自分のコップに茶を注いだルーゲンがジーナの傍に寄り茶を注ごうとする。


「本当にそうなのですか?」


 だがジーナはコップの上に手を添えた。


「その例えを続けるのなら、私のお茶はもう片付けられてしまいましたよ。もうその手のことでは、私は終わった男なのです。茶は失われ、器がもう壊れてしまっている。つまりここにいるこれは、そういう存在と言えましょう」


「では君はもう結婚はしないとでも」


「しないというかできないというか……まぁその必要がありませんよ」


「それはさっき少し話してくれて故郷での過去の出来事から?」


「そうなりますね」


 ジーナが答えるとルーゲンはしばし無言のまま机の周りを歩きだし、やがて苦味の無い快活な調子で笑いながら言った。


「僕から言わせてもらうと君の方がよほどの情熱的な男ですよ。それを行う理由はどこにもありませんからね」


「いいえあります。私にはその声が聞こえるのですから」


 誰の? とルーゲンの尋ねる声にジーナは瞼を閉じて暗闇の中で言った。


「私の心の声です。みなさんは私を不信仰者といいますが、信仰があるとすればこれで、私はそれを信仰しています。いまもこれからもずっと」


「龍よりも強いものなのでしょうね、それは」


 冷たいものが背筋を走り瞼をあげるとやはり眼の前にはルーゲンの顔ではなく目がそこにあった。


「おっと返事はいりませんよ。それはとても問題になりますからね」


 あんなことを言ったというのにルーゲンの眼は澄み切っていた。どうすればここまで濁りのない瞳になれるのか分からないほどに、しかもそれは奥底に光を宿していた。


「なるほど、でも駄目ですよ。他人はそれを見過ごしませんからね」


 無意識にコップの上にあった手が動いていたためにルーゲンは動き新しい茶を注いだためジーナは礼を述べた。


「茶を失ったとか器が壊れているだとか、そう見ているのはあなた自身だけです。あるものをないといい、ないものをあるという。つまりはこれです。認知の歪みが自分を損なっているのです。今日の僕は嘘はついていませんよジーナ君。僕の言葉を拒絶する君がいるだけのことです」


 それならばあなたは世界ということか? とジーナが思うとノックも無くドアが開きバルツ将軍が入ってきた。


「まだ講義を続けていたのか。まぁ都合が良くていいが、ジーナよ仕事がきたぞ。隊を率いて偵察に出る準備をしてもらいたい」




 ソグ山は豪雪のために中央の方への道は事実上閉ざされてはいるものの、特殊部隊や山岳地帯出身の兵ならもしかしたらこの難所を越えてくることは否定はできなかった。


「予測とか理論上とかは、このことに限っては小賢しいとしか思えませんね。そういうものは事実の前にひれ伏します、そう冬を迎えたソグ山を向こう側から越えてきたものは今まで唯一人だっていなかったと」


 龍の間にて話を聞いたシオンが自信たっぷりに断言しながら茶請けの焼き菓子をまた一枚齧った。


「けれど不審な目撃情報が入ったとのことで、それならソグ山戦の敗残兵が山から降りてきたのか?」


「そんな話は毎日のように入ってきますが、捕獲どころか接触できた話もなく、それになにより被害情報がありません。どうせ村民の見間違えか仲の悪い隣村との喧嘩の延長でしょうね、あっジーナお菓子を食べなさい」


 菓子籠には残り一枚の焼き菓子がありジーナはそれをありがたく頂戴した。


 昨日のバザーの失態やらなにやらで今日は責められるかと思いきや、シオンとヘイムはいつも通りというそれ以上にいつも過ぎたためにあの出来事は実は存在せず、あの全てなにもかも幻だったかと錯覚するほどに、いまここではそれが欠落していた。


「しかしもしかしたら今度の今度こそで私がその第一号になるのではありませんかね」


「あなたはとても運が悪そうですからその可能性はありましょう。こちらの勤務が多くなったため訓練不足でこれが災いして」


 シオンの言葉であったがジーナはその時に眼だけを左に向けヘイムがたまにする完全無言で書きものに集中する姿を見た。


「そんなに脅かさないでください。偵察は平和なものではなく危険な時は本当に危険ですからね」


「分かってますよ。けれどあのソグ山の戦いにおける英雄がそこまで不安げな様子でいるのが面白くてですね、ついついからかってしまいました。バルツ殿だって各部隊で偵察のローテーションを組んでいて今回はあなたの隊が当たったそれだけですって。それともなんです?なにか虫の知らせやら不吉な予感とかありましたか?」


 なんとなく……とジーナはまず思ったが言えるはずもなくもう一度盗み見のようにヘイムに目をやり、変化が無いことに自分を安心させた。だが、なんのために?


「なんだか最近全体的に暗く感じましてね。この間の疲れがまだ残っているのではないかと」


 と言った瞬間にジーナは口が滑ったと分かった。折角うまく避けていたというのに途端にシオンの表情は険しくなり、空咳を二度した後に菓子籠に手を伸ばすが手を泳がせ握っても空を切り空を掴むことばかり、ますます表情は厳しくなっていきジーナは言おうか言うまいか迷っていると、新たに菓子籠が滑り込んできて空籠を突き飛ばし、その場で停止しシオンは菓子を掴んで口に運んだ。


 一枚齧り二枚齧り三枚齧りと枚数が増えていくが食べるシオンは無表情のままで室内は咀嚼音と執筆音のみが鳴って散らばっていくなか、ジーナはジーナで自分の心臓の音を聞いていた。やがてシオンは食べ終わり息をつき茶を飲んでから言う。


「……言いたいことは山ほどありますが、いまは呑み込みました。これ以上はやめましょう、あなたも食べなさい」


 とまた菓子籠を寄越したが、今度は一つも入ってはいなかった。

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