【2】エドワードと悪魔

司祭に呼ばれるままに教会の懺悔室へと導かれた私は、ハンナの懺悔を聞いてしまった。


『私は罪深い女です。エドワード様に恋焦がれている私は……本当に、救いようのない愚か者です』



   ***


その日の夜。私は私室で机の前に座って物思いに耽っていた。暖炉の火が、ぱちぱちと小さな音を立てている。


薄闇のなか、机の上の燭台でろうそくの火がゆらゆらと揺れている。


「――まさか。ハンナが私を」


ハンナは誠実で、想いやりのある娘だ。

野に咲く花のように、飾り気のない美しさを持っている。


義姉であるエリシアを心から敬い、尽くしていた。エリシアの亡きあとは、ライエルを献身的に見てくれている。


本当に善い娘だと思うし、彼女にはもちろん幸せになってもらいたい。だから、知り合いの伝手で良い嫁ぎ先を探して、ぜひ紹介してやりたいと思っていた。


しかし――


彼女が私に対して……慕情を抱いていたとは。



私が焦がれているのは、エリシアだけだ。

彼女を亡くした今も、彼女への想いは決して褪せることがない。生涯、エリシアを想う気持ちは変わりない。


もしハンナが私に想いを打ち明けてきたとしても、私は彼女を受け入れられないだろう。


「それに、ハンナは……私のような醜い者に、想いを寄せるべきではない」


私の心は怒りにまみれて汚れ切っている。

処刑された王太子と聖女への憎しみが、腹の奥底で渦巻いているのだ。あんなクズどもは地獄の業火に焼かれて、永遠に苦しみ続ければいいと……心の底から願っている。


やり場のない怒りを、どこに向けたらよいか分からない。


私は、引き出しから一通の書簡を取り出した……もし公になれば、首が飛ぶような危険な内容が記されている。


それは、反王室派の貴族がよこしてきた書簡だ。地方貴族で連携して、王家に反旗を翻そうというものだった。私がこの計画に加担してそれが発覚すれば、子爵家の取りつぶしは免れない。1歳になったばかりの息子も、ハンナを含めたすべての使用人も、路頭に迷うこととなる。


冷静に考えれば、このようなものに加わるべきではない。

しかし――私は王家に復讐したかった。



憎い。

エリシアを苦しめた者たちを、自らの手で殺してやりたい。


――そんな残酷なことを、言わないで。エドワード。


心の中で、エリシアにそう言われた気がしてどきりとする。


「……分かっているよ。エリシア。私だって本当は復讐なんてくだらないと思っている。王家に復讐しても、君は返ってこないのだから。ただ――気持ちのやり場が分からないんだ」


亡き彼女が、天で泣いているかもしれない。愚かで醜い私を見て、軽蔑しているかもしれない。


「…………会いたいよ、エリシア」






会 わ せ て や ろ う か ?




聞こえるはずのない声が、はっきりと聞こえた。

ろうそくの火が揺れている。


驚いて目を見張ると、私の目の前には影のように黒い人間のようなモノが立っていた。

人間ではない。

この世に非ざるもの。悪魔や悪霊としか言い得ないような、不気味な影……




『――悪魔さ。人の仔は皆、俺をそのように呼ぶ』


恐ろしいことに、その『悪魔』は私と同じ顔をしていた。





『お前の愛しい妻に、会わせてやろうか?』


悪魔は唇を吊り上げて笑うと、私に向かってそう囁いた。




「……エリシアに?」

私は悪い夢でも見ているのだろうか。

悪魔など……この世にいるはずがないではないか…………それなのに。


悪魔は私に、『妻に会わせてやろうか』と誘ってきた。



『簡単さ、俺なら出来る。――この世の時間を10年ばかり巻き戻してやろう』

「……なにを、バカげたことを」


『記憶を保ったまま10年前に戻れれば、お前は好きなように動けるだろう? 愛しい女をさらい出すことも。憎い王太子と聖女を、自らの手で殺すことも。自分自身の手で、好きなように未来を作り替えたらいいんだ』



未来を変える勇気はあるかい? ――と、私にそっくりな悪魔は、邪悪な笑みを浮かべて問いかけてきた。


「そんなことは……不可能だ!」

『もしも不可能だとしたら、それはお前がきちんと悪魔を信仰しないからだよ』


悪魔は、くつくつと喉を震わせて嗤っていた。



『首を撥ねられた『聖女』イライザだって、最初はきちんと俺を信じていたんだぜ? だから、いくつもの不可能を可能にしてやっていたんだ。けど、あの女、調子に乗って悪魔を舐め始めたからさ……力を奪ってやったんだ』


けど、イライザの魂は全然うまくなかったなぁ……と、不愉快そうな声音でつぶやいている。


『お前の魂の味は、どうかな? 死後に魂を喰わせてくれるなら、お前の人生をやりなおさせてやるよ?』





何なんだ。

……何なんだ、これは。


私は震えた。


悪魔だと? 悪魔が聖女イライザに力を与えていたというのか?

もしも私が悪魔に従えば……再びエリシアを抱きしめることができるのだろうか?


悪魔が私に向かって手を差し伸べる。私は悪魔に吸い寄せられるように、ゆっくりと腕を伸ばし始めていた。




「ならば私はエリシアを。エリシアを、もう一度…………」






あと少しで悪魔に届くというそのとき。私の胸の奥で、エリシアの声が響いた。



――あなたの妻になれたから、私はようやく幸せになれたの。


ハッとして、私は悪魔と距離を取る。

「消えろ、」

燭台を掴んで、悪魔に炎を突きつけた。

「忌まわしい悪魔め! 二度と姿を現すな、永遠に消えてしまえ!!」


腹の底からそう叫ぶ。

燭台の炎がひときわ大きく揺らめくと同時に、悪魔は姿を消していた。




脱力しきって、がくりと膝をつく。

息が、酷く乱れていた。



……今のは、一体何だったのだろうか?

悪い夢を見たような気がして、吐き気が込み上げてきた。


エリシアの声に、救われた。



「悪魔に魂を売るなど……エリシアが喜ぶわけがない」

胸の中にいる彼女の声を、はっきりと聴いた。天に召されたエリシアが、守ってくれたに違いない。


たとえ時間を戻せるとして。エリシアが幸せになれていたかは、分からない。


彼女は私と過ごした時間を「とても幸せだ」と言ってくれた。

あの満ち足りた笑顔は、世界を変えたら得られないものだったのかもしれない。


息子のライエルだって、生まれてくるとは限らない。



「時間など、戻せるものか。前に進む以外の生き方を、君が望むわけがない。……エリシア。君に恥じない生き方を選ぶよ」


胸の中のエリシアに、私は誓った。そのとき――




「旦那さま! 旦那さま!!」

夜中であるにもかかわらず、大きなノックの音が響いた。

ハンナの声だ。


彼女にしては、珍しく慌てている。しかし、とても嬉しそうだ。


入室を許可すると、ハンナは息を切らせて入って来た。彼女の腕には、1歳の誕生日を迎えたばかりのライエルが抱かれている。

赤子の昼夜逆転は珍しいことではないと聞くが、ライエルは目をぱっちりと開けて興味深そうに私の部屋を眺めていた。


「……どうしたんだい、ハンナ」

「ライエル様が、お歩きになったんです!!」


喜びのあまり泣き出しそうな表情で、ハンナは私にそう言った。

「ご覧になってください!」


ハンナは、そっとライエルを降ろした。

ライエルは、よちよちとひな鳥のような歩みを始めた。2歩、3歩と小さく歩いて、すぐにペタンと座り込んでしまうと、ハンナを求めてはいはいを始めた。


「ほら! こんなにご立派に歩かれましたよ!?」

ライエルを抱きしめながら、ハンナは声を弾ませた。


「………………? そう、だな。確かに歩いている」

赤子の数歩の歩みというのは、そんなに尊いものなのか? 男の身にはいまひとつ理解が及ばないのだが、ハンナはとても嬉しそうに笑って、目尻に涙をにじませている。


ハンナがこんなに感情を露わにしている姿を見るのは、初めてだった。



私が呆気に取られてハンナを見ていると、彼女は不意にうろたえ始めた。

「……あ。わ、わたしったら……申し訳ありません!」

「何がだい?」


「このような夜分に。非常識でした。……ライエル様が夜中に目を覚まされたのでお世話を、と思っていたら、いきなりお歩きになったので。初めての歩みは、肉親が見守るべきものかと思って。……すみません」



申し訳ありません、と何度も言ってくる彼女を見て、私の顔は自然とほころんでいた。

「ありがとう、ハンナ。とても嬉しいよ」


ハンナは深くうつむいてライエルを抱きしめた。決して、私の顔を見ようとしなかった。

「……もったいないお言葉です。旦那さま…………」


ハンナは、震えている。

私は唐突に、ハンナの懺悔を思い出した。



『私は――死にたいです』

『でも……私は、しばらくは生きていようと思っています。せめて、ライエル様がおひとりで歩けるようになる日まで』




ハンナを手放してはいけない。私は、そう思った。


机の上に置きっぱなしにしていた書簡を掴み取り、それを暖炉の火にくべる。


「…………旦那さま。今のお手紙は……? 燃やしてしまって、良かったのですか?」

「あぁ。ウォード家には必要のないものだ」


あれは、王家への反逆を呼びかける者たちの手による文書だった。反逆、復讐……そんなくだらないもののために、未来ある者たちの命を危険にさらすなど、馬鹿げている。




「……ハンナ。君がこの屋敷で働いてくれたおかげで、私はとても救われているよ」


ハンナは、驚いたように顔を上げた。

幼さを残す彼女の顔が、リンゴのように朱に染まっている。その純朴さが、可憐だと思った。



「もし迷惑でなければ。……少しずつ、君と話す機会を持っても良いだろうか?」


燃え上がるような慕情を、エリシア以外の誰かに抱くことは終生ないだろう。しかし。

ハンナを尊く思う気持ちも、ひとつの想いと呼べるなら……



エリシアも、そんな未来を望んでいるような気がした。

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