第25話 決戦前夜

「あ、明日香さん……」


 ゆっくりとこっちに歩み寄ってくるのは、明日香さんだった。でもなんだろう、歩き方が色っぽいと言うか、何か分からない妙な感覚があった。


「天寺氏は五日間、ずっと山根氏を心配して側についていたガニよ。それはもう、わいたちが憐れむくらい、健気に看病を」


 マジかよ⁉ すげぇ嬉しい……って、五日間? 俺、そんなに寝てたのか?

 明日香さんは俺の横に立つ博士のところで止まる。すると右手で博士の顎をおもむろに掴んだ。


「おい、豚野郎。よくもあたいを、あんな狭いとこに閉じ込めてくれたな⁉」


 そのまま博士に暴言を吐く。

 ――え? 明日香さん……?


「はい、すみません。わいは豚です! モグラですけど汚い豚ですブヒィ」

「豚が人の言葉しゃべってんじゃないよ!」

「ブヒィ!」


 ……誰これ……。ってか、俺は一体何を見せられてるの……。

 明日香さんはそのまま博士の顎を放ると、俺の前に来た。


「尊……目が覚めたんだね。ったく、心配させやがって」


 そう言って、俺の頭を抱きかかえる。もしかしたら泣いてる? いやいや、それよりも、何この状況。明日香さんの体温、髪の毛のいい香り。あ、そっか。これ、夢か。話し方もちょっと変だし。

 考えられないシチュエーションに、俺は夢落ちの判断を下す。

 そうだよ、最初ゲコに見せられたような夢だ。なら……胸とか触っても……いいんだよね?

 あと数センチで届きそうな、眼下にある彼女の胸の膨らみを見て、抑えきれない下心がしゃしゃり出る。


『待ちなさい、尊』


 え?


『これが現実だったらどうするのですか? これまで培った明日香さんとの絆が壊れかねませんよ?』


 尊(良心)の声だ。

 確かに、そうだよ……さすがにまずいよな……。


『おいおい、お前ここでもヘタレるのか?』


 ⁉


『そうやってヘタレ続けてるから、童貞のままなんだろうが』


 今度は尊(悪魔)の声が聞こえる。悔しいことに反論できない。


『お前よく考えろよ。女が抱きついてきてるんだぞ? エロゲーを思い出せよ』


 エロゲー?


『これはもうOKのサインだろうが! 何日和ってるんだよ⁉ 何のためにエロゲーをやって来たんだよ! 攻略するんだよ!』


 ……確かにそうだ。エロゲーならこれは間違いなく、この先があるパターンだ。


『落ち着きなさい。あれはゲームです。現実と一緒に考えたら犯罪者になりますよ』

『うるせぇな! これだって夢なんだから、欲望のままに好き放題やればいいんだよ!』

『まだ、夢と決まった訳では――』

『黙れ、このクソチェリーが!』


 悪魔が良心を殴り飛ばし、勝敗は決した。

 俺は震える右手を、抱擁する明日香さんの胸に向かわせる。


「びっくりしたガニか?」

「うぉ⁉ びっくりした……博士、急に……何?」


 唐突な博士の声に驚き、即座に右手を引っ込める。


「天寺氏、いつもと調子が違うくないガニか?」

「確かに。雰囲気と言うか、しゃべり方と言うか」

「これガニよ」


 博士は手に持った銅鏡を掲げ、再度俺に見せる。


「それって……明日香さんの」

「そうガニ。天寺氏の神器ガニ」

「それが……なんの関係が?」

「鈍いガニね。天寺氏は今、メアの状態ガニよ」

「え⁉」


 確か明日香さんは、銅鏡がないとメアを制御できないはず。前にその状態で俺は殺され掛けて……。


「なんか、前と違うような……」


 そう、今はこんなに心配されている。とても襲われるような感じじゃない。


「この神器にもインストールしたガニよ。わいの作ったアプリを」

「アプリ? それで、メアの暴走を……?」

「制御はもちろんガニが、今まではメアと天寺氏の波に若干のズレがあったガニ」

「ズレ?」

「そのせいで、メアが天寺氏の記憶を共有できずに暴走状態だったガニ」


 そうか、明日香さんがたまに記憶がないって言ってたのは、それを共有出来てなかったからか。でも待てよ? そうすると、明日香さんはメア状態のときも記憶が残るのか?


「だと、明日香さんは今の記憶を?」

「そこは星野氏に隠すよう頼まれたガニだから、ちゃんと設定してるガニ」

「設定……って、何?」

「プライバシー設定ガニ。今の社会の常識ガニ。ついでにメアのログイン、ログアウトも遠隔設定してあるから、天寺氏は操作不要ガニ」


 え……メアってそういうものなの? でもまぁ、それなら安心か。


「尊、もう心配かけるんじゃないよ」

「う、うん。ありがとう……ごめん、明日香さん」


 尖った明日香さんもこれはこれでいいな……。しかしメアと言っても、明日香さんに過度に心配されるってのも恰好つかないよな。ゲコさえいれば……。


「⁉ 尊君⁉ やだ、私……ごめんなさい!」


 明日香さんは突然声を荒らげ、くっついていた体を慌てて離す。後ろで博士が、にやにやと銅鏡を持った手を振っている。どうやら遠隔操作? ってので、メアを引っ込めたようだ。


「いや、全然。明日香さん、俺、心配かけちゃって」

「もう、本当だよ。私、尊君が屋根から落ちたって聞いて……このまま目を覚まさないんじゃないかって……でも、よかった。本当に」


 屋根……そうか、西川にやられたとか言えないよな。明日香さんは目から涙がこぼれる。俺はなんて幸せ者なんだ。それを見て俺も目に熱いものを感じる。

 ……待てよ? ここにゆきちゃんがいて大丈夫か? 明日香さんを口止めしないと、この場所が西川に――って、口止めしたらメアのことが――。

 やや取り乱しながら振り向くと、ストレッチャーごとマスターは消えていた。


「どうかしたの?」


 俺の慌てようが分かったのか、反応されてしまった。


「いや、ううん。そのぉ、えぇと……」


 取り繕うとするが、もちろん俺は言葉に詰まる。


「よお、山根ちゃん。やっと起きたか」

「マスター⁉」


 豪快に扉を開け、マスターが戻ってきた。

 ってか、演技がわざとらしい。


「ほらこれ、あげる」

「え、なにこれ?」

「映画のチケット。ほら明日までの。俺うっかりしててさ、明日仕事なのよね」

「は……はぁ」


 急になんなの?


「山根ちゃん、明日行っておいでよ」

「いや、俺別に映画とかは……」

「あれ? 天寺ちゃんも明日休みだっけ?」

「うん、私休みだよ」

「じゃあ、天寺ちゃんにあげようかな?」


 うんうん、なんかよぉ分からんが、明日香さんは映画好きなんじゃない?


「え、いいの?」

「おっとぉ! よく見たらこれ、ペアチケットだったわ」


 俺はすかさずマスターの手からチケットをもぎ取る。


「明日香さん、俺ちょうど明日休みで。よかったら一緒に――」


 反射的に言ってしまったが、慌てて周りを見る。

 マスターのにやけ面。博士の呆気にとられた顔。双子の憐れむ眼差し……やっちまったか……。


「うん、行こう」

「ですよねぇ、何言ってるんだろ俺……え?」

「十一時頃でいいかな?」

「うん! じゃあ、どうせならお昼も――」


 と、言いかけたところで、周りにギャラリーがいるのを思い出し言葉に詰まる。


「いいねぇ。私、ずっと行ってみたかったカフェが駅前にあるの。そこでいい?」

「もちろん! じゃあ駅前のコンビニで待ち合わせでいい?」

「うんうん。明日楽しみ」


 これがデートと言うものなのか。十代では味わえなかった感激を噛みしめ、しわくちゃになったであろう顔を、マスターに向ける。


「ってことで、明日二人とも博物館には近づかないようにね」


 マスターは俺のそっと耳打ちをする。どうやらそういう意図だったようだが、そんなのどうでもいいのだ。感謝しかない。


「そんじゃ天寺ちゃん、家まで送ってくよ」

「あれ? 尊君は?」

「山根氏は大事を取って、もう一晩検査入院ガニ。明日はそのまま駅に向かわせるガニよ」

「そ、そうよね。さっき意識が戻ったばかりだものね」

「悪いねぇ天寺ちゃん。今夜は代理のナイトだけど我慢し――」

「マスター、そう言うのじゃないから!」


 マスターが言い切る前に、明日香さんはきっぱりと否定する。

 明日香さん、そんな力強く否定しなくても……。


「尊君、ちゃんと休んでね」


 明日香さんはどこか申し訳なさそうに俺を見つめる。


「明日香さん、ありがとう」

「ううん」

「マスター、明日香さんをよろしくね」

「任せなさい」

「じゃあ尊君、また明日」

「うん、また明日」


 五日ぶりに会えた明日香さんを名残惜しみながら、挨拶を交わした。そしてマスターと共に出て行く扉が閉まるのをそっと見送る。

 二人が出て行くと、扉の前に風が舞う。


「辰己氏、タイミングばっちりガニね」


 博士が語り掛ける人物は、風の中から現れ、博士に軽く会釈する。どうしてプロがここに?


「これを頼むガニ」

「わか、った」


 博士はプロに銅鏡を渡す。プロはそれを懐に入れると、風と共に去って行った。


「博士、明日香さんの銅鏡……大丈夫なの⁉」


 その大丈夫とは、明日香さんの手元になくてもと言う意味だった。メアの暴走はないとしても、いつも肌身離さず持っていたものだから。そしてそもそも、プロに渡す意味が分からなかった。


「あれが餌ガニ」

「餌?」


 そう言えば餌をどうのこうの言ってたような。


「ちょっとそれって、どう言う……」

「先生、言い過ぎ」

「先生、マスターに怒られる」

「おっと、危なかったガニ。山根氏、わいから聞き出そうとは中々の策士ガニね」

「なんの策もやってないよ、あんたがベラベラと言ってるだけじゃん」


 俺は呆れながら言う。


「さぁ、詮索はここまでガニ。まい氏、もえ氏、催眠療法ガニ」

「催眠処方」

「やすらかに」


 博士が指示すると、双子が俺の頭に何かを被せた。

 そのまま俺の意識は無くなった。

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