第20話 もやもや

 実際はほんのわずかの時間だったはずだ。なのに極度の緊張の余り、それが数分にも数十分にも感じたほど、周りの時間が止まって見えた。

 明日香さんはもちろん、ゲコでさえ、まるで一時停止しているかのように微動だにしなかった。

 止まった時間の中で俺は思う。明日香さんは西川ではない、第三者の女性の声に驚いたのだろうと。ならばゲコは? こいつの驚く理由は? 声の主が西川じゃないから?

 再びゲコの姿を視界に捉えたとき、俺は察する。膝を床につき、体を屈めている。視線の先は今開かれようとしている扉。およそクラウチングスタートの体勢で右手を背中に回し、攻撃準備を整えている。

 ゲコがこんな行動を取ると言うことは、声の主はメアなのか? それも強い波長、つまりは強い力を持った……だめだ。ここには明日香さんも、ベッドで寝たままの西川の妹もいる。例え相手がメアであっても、この場所で戦闘は……だけどその場合、黙って襲われてもいいのか?

 まとまらない考えが頭を巡っている間に、ガチャっとドアは開いた。

 同時に、ものすごい速さでゲコがドア目掛けて飛び掛かる。

 やっぱだめだ! 待つんだ、ゲコ!


「きゃぁぁぁぁ!」


 大きな女性の悲鳴が部屋中、いや、家中に響いた。

 まさか、明日香さんの前で……ゲコ、やっちまったのか⁉


「や、山根……さん?」


 ドアを開けた女性の震える声が聞こえる。ゲコの右手は彼女を襲うことなく、その前でピタっと止まっていた。どうやら彼女は無事のようだ……って、「山根さん」?

 その聞き覚えのある呼び方に気付き、俺はすぐに入口脇のスイッチを入れ、部屋に明かりを点す。


「里田さん⁉」

「山根さん、どうしてここに?」


 明かりに照らされた声の主は、博物館のカフェで働く里田さんだった。って、あれ? 俺、動く? ゲコは? よく分からないが、いつの間にか俺の体は元に戻ったようだ。相手はメアじゃない……まぁ博物館の仲間だからメアではあるんだけど、敵じゃないからゲコはいなくても大丈夫だろう。


「里田さんこそ、どうして?」

「あたしは西川さんに頼まれて……と言うか、いつもゆきちゃんの点滴薬を……」


 ゆきちゃん? 西川の妹の名前か?


「あれ? 天寺さんも?」

「はぁ、里田さんかぁ。びっくりしたよぉ。でも、なんか久しぶりだね」

「はい、お久しぶ……あれぇ?」


 挨拶を返そうとした里田さんの顔は、急ににやけ出す。


「山根さんと天寺さん、二人きりですか?」

「え? うん。西川君の妹さんのお見舞いに」

「二人きりでぇ?」

「うん……いや、そんなんじゃないから!」

「まだ何も聞いてないのに、なんか怪しいですねぇ」


 さすがJK、早速こういう方向に話を向けるか。でもまぁ、悪い気はしない。ってか、聞かれる前に明日香さんに即答で否定されたのは、ややショックではある。


「里田さんこそ、なんか最近西川君といい雰囲気なんじゃない? よく一緒に帰ってるようだし?」


 明日香さんは話題を返すが、その笑顔はやや引きつっているようにも見える。まさか、俺との関係を怪しまれて動揺してる⁉


「そう見えます? さぁて、どうでしょう?」

「えぇ? 違うの?」

「ふふ」


 JKにJDが圧倒されているな……。でもそんなウブな明日香さん、嫌いじゃないです!


「あたし、ゆきちゃんと友達なんです」

「同級生?」

「はい。小さい頃からずっと一緒で。だから、昔からよくこの家に遊びに来てたんです」


 つまり、里田さんが人間だった頃のことか。記憶は受け継ぐってマスターが言ってたし、里田さんもその頃からの記憶を鮮明に覚えているのだろう。


「ゆきちゃん、急に寝たきりになっちゃって。博士に診てもらっても、毒が原因ってことしか分からなくて」

「やっぱり、まだ解毒薬は無理そう?」

「――はい。でも、点滴があるから、なんとか生きてるうちに薬が出来れば、また前みたいに――」


 里田さんは言葉を詰まらせる。薬が出来る保証もないし、栄養を送り続けてもいつまでもつか分からない。そんな不安を感じてるんだろうな。なんだよ、メアって言っても、俺たち人間と同じじゃないか。


「大丈夫。ゆきちゃんはきっと元気になるよ。博士も今頃解毒薬作り、必死に頑張ってくれてるよ。私たちも出来ることはなんでもするから。ね、いいでしょ? 尊君?」

「え? あ、はい。もちろん」


 博士は今頃エロゲーを必死に頑張ってるとは、口が裂けても言えない。


「ありがとうございます。天寺さん、山根さん」

「ううん、気にしないで。博物館の仲間として当然よ。それにしても、こんなときに当の西川君はどこにいるのかしら?」

「西川さんは、生活費を稼ぐために夜勤に」

「え? あら、そっか。博物館だけじゃ厳しいよね……。おじいちゃんにちょっと言っておかないと」

「いえ、お気遣いなく。あたしたちでなんとかやり繰り出来てますから」

「『あたしたち』? ははぁん。もしかして、もう同棲とかしちゃってるのかなぁ?」

「そ、そんなんじゃないですよ!」


 形勢逆転。今度は明日香さんがにやけながら里田さんに言う。顔を真っ赤にして否定するが、俺でも分かるくらい表情に出る娘だ。

 そのまま和気あいあいと、和やかに三人の会話は弾んだ。若干俺だけ蚊帳の外の感は否めないが……。


「本当に私たち帰って大丈夫?」

「はい。あとはゆきちゃんを着替えさせて、点滴薬を変えるだけですから」

「でもほら、暗いしさ。俺たちで一緒に帰り道送るよ?」

「ありがとうございます。でも、明日祝日だし、ゆきちゃんの側にいたいから。今日はあたしここに泊まりますので、心配なさらず」

「そ……そう?」


 ゆきちゃんのことを思ってのことだし、友達なのだから別に普通のことなのだが、ここがあの西川の家ってのがやや引っかかって、歯切れの悪い返事をした。


「山根さんは天寺さんを送ってあげてください。それとも、一緒にゆきちゃんを着替えさせますか?」

「そ、そんなこと言ってないし!」


 童貞の俺はこういうジョークに弱い。焦ってマジレスしてしまう。


「えぇ、尊君。ほんとはどうなのかなぁ?」

「明日香さんまで! もう夜も遅いし、行こう!」

「あはは、ごめんごめん。じゃあ里田さん、ゆきちゃんのことお願い。西川君にもよろしくね」

「はい、お気をつけて」

「じゃ、じゃあどうも……」


 くそぉ、JKになめられるとは……。

 足早に階段を下りて、玄関を出る。あれだけ激しかった雨は嘘のように上がっていた。


「かわいい妹さんだったね」

「う、うん」

「元気になればいいんだけど、西川君も大変だよね」

「ま、まぁ」


 だからと言って、あいつが俺に好き勝手していい理由にはならない。ところで、なんだろう。さっきから……。


「でも、窓を開けっぱなしにして、鍵も掛けないなんて。西川君何考えてるのかしら」


 うぅん、妙な違和感がずっと頭の中で引っかかる。


「里田さんに任せて、気が緩んでるんじゃ?」

「あはは。そうね、里田さんがいれば安心だしね」




「じゃあ、ありがとう。尊君も気を付けて帰ってね」

「うん、また明日。おやすみ」


 なんか、恋人みたいじゃないか! また明日香さんとの距離が縮まった気がする。

 明日香さんを送って、浮かれながら俺も家路につく。が、その道中もずっと頭のもやもやが消えない。

 何でだ? 何がそんなに気になるんだ?

 その原因が何か、考えれば考えるほど分からなくなる。


 正体不明の違和感を抱えながら、俺は布団の中で眠りに落ちた。

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