第6話 さよなら山根尊
無言のまま、全力でその場を走り去った。
あの状況で下手に言い訳をするよりは、よほどマシだろう。
雑木林に少し入ったところで自転車を止め、息を落ち着かせる。
「いやぁ、山根ちゃんナイス判断。びっくりしたねぇ」
マスターは笑っているが、全力疾走後の俺は肩で息をするのがやっとだ。
「でもあれだな、何かしらカムフラージュしとかなきゃな。山根ちゃん、何か俺の頭に被せられるものある?」
ポケットに手を入れると、運よくコンビニのレジ袋があった。
「袋でいいですか?」
「お、いいね。また見られると面倒だから被せちゃってよ」
俺は袋を広げ、マスターの頭にそれを覆いかぶせる。
「え? ちょ、ま――」
マスターは口を激しく開閉するが、袋が口を塞いでいるらしく声ははっきり聞こえない。ただ、半透明の袋越しに見えるその顔色はみるみる青ざめていくのが分かる……あれ? ちょっと、これやばいんじゃ?
慌てて袋を外すと、マスターの荒々しい呼吸音が響き渡る。
「はぁはぁ、山根……ちゃん。レジ、袋ダメ……死んじゃう……もう死んでるんだけど、死んじゃう」
マスターの言い方、笑いどころなのか分からないのは相変わらずだが、とりあえず謝罪をしなければ。
「ご、ごめんなさい」
少し息を整えてからマスターは言う。
「ここの手前の道にコンビニあったでしょ? そこで紙袋調達してきてよ。紙だよ? 紙!」
「わ、分かりました。じゃあすぐ行ってくるんで、少し待っててください」
「よろしくねぇ」
雑木林を抜け、徒歩で来た道を戻る。
コンビニの灯りはすぐ見えるのだが、徒歩だと少々距離がある。
来るときは必死でよく見ていなかったが、交通量は結構あるようだ。
通りを渡る交差点で、信号を待ちながら何度かスマホを確認するが、相変わらずバインの既読は付かない。その代わりに流れてくるニュース記事が目につく。いずれも例の事件に関してだ。
天寺さんのことで一層増す不安の中、紙袋を調達し、足早に雑木林に向けて歩を進める。
そしてまた交差点に立っているとき、道の向こう側に見覚えのある顔があった。
――天寺さん?
信号が青になるのを待っているうちに彼女を見失ったが、彼女の進行方向を注意深く追跡していく。
あまり深追いすると、籠に置いて行ったままのマスターが心配ではあるが、それ以上に天寺さんが気が気でならない。
ところが幸運なことに、雑木林のすぐ脇の公園で彼女の姿を見つける。
「天寺さん!」
すぐに声を掛けながら、彼女に走り寄る。
遊具の陰に背を向け、屈む彼女の下に向かうと、奇妙な
俺の呼びかけにも反応しない上、物陰での奇怪な行動。恐る恐る彼女の正面に向かう。
あれ、違う。似ているのは服装だけだ。天寺さんじゃない。誰だ……。
そこで目にしたのは、血溜まりの中、倒れたスーツ姿の男性に激しくむさぼりついている女性。ゾンビ? まさに映画やゲームで言うところのそれがふさわしい。ともかく顔色も形相も全く尋常ではない女の人だ。
その光景のせいか、血の臭いのせいなのか、俺は猛烈な吐き気に襲われる。後退りした俺の足はそのとき小枝を踏んでしまい、枝の折れる乾いた音を周囲に響かせる。
その音に反応した彼女の両目が、俺をしっかりと捉える。見つかった、俺どうすれば……。
「す、すいません。いえ、ち、違うんです。俺、何も見てません! 誰にも言いませんから……」
懸命に取り繕うが、彼女はまるで意に介さず、ゆっくりと俺に向かって距離を縮める。
街灯のわずかな明かりの下だが、彼女の目は生気が抜けたようであり、口元は血まみれ、服も大量の返り血に染まっている。ふらつく足取りといい、本当にゾンビそのままじゃないか。
でもこれは現実。一体なにがどうしたって言うんだ⁉
俺の言うことを理解できないのか、聞く耳を持たないのか、その女性はどんどん歩み寄る。
後退りしながら、件の連続猟奇殺人事件の犯人が、目の前のこの若い女性なのではないかと考える。犯人は男性だと先入観を持っていたが、実際起きた目の前の光景に疑う余地はなさそうだった。
同時に「メア」と言う言葉を思い出す。これがマスターの言ってたメアと言うものなのか? さっき初めて聞いただけなので確証はない。確認しようにもマスターはこの場にいない。
そして俺の背中は公園のフェンスに当たる。隅まで追い詰められた。もうあとがない。
「ぐぁぁぁぁ」
声ともならないような唸りをあげて、俺の両肩を押さえつける。ものすごい力だ。全力で振り払おうとしても、全く動かない。そして、裂けたように大きな口を広げ、鋭く尖った牙で俺の首に襲い掛かる。
どうすることもできない俺は半ば諦め、目を強く閉じた。
何も起こらない。首も痛くない。どう言う訳か、強く押さえつけられていた両肩が、解放されていくような感じを覚える。そしてバタっと、何かが倒れるような音が聞こえる。
恐る恐る目を開けると、そこには俺を襲った女性が倒れている。体の数か所から出血している。ひどい火傷のような、まるでその部分が溶けているようだ。
その惨状に俺の脳の理解は追いつかない。
辺りの静寂の中、俺の激しい息遣いだけが響き渡る。
少し呼吸を整えてから、俺が目線を奥へ移したときだった。
「天寺さん⁉」
倒れた女性の対角線上に、天寺さんの姿を見つけた。
街灯に照らされたその顔は、はっきりこちらを見つめている。今度こそ間違うはずはない。
「ちょっと、何が何だか分からないけど、ともかくそのまま動かないで。今警察を呼びますから」
奥の男性の死体。目の前に倒れた女性。俺はここで見た理解し難い光景に、夢ではないかとも感じながらも、自身と天寺さんの安全を確保するため、110番通報をする。
「はい、こちら110番です。事故ですか事件ですか?」
繋がった。初めて掛ける110番通報に緊張しながらも、俺は事件を伝えるべく口を開く。
「あの、今公園で――」
そこまで話したとき、握りしめていたスマホが勢いよく飛んだ。ものすごい衝撃、耳の辺りが痺れているような感覚になる。何が起きたのか理解できない。
辺りを見回すが誰もいない。この公園内にいるのは、倒れた者を除けば俺と天寺さんだけ――。
そうして正面の天寺さんを見ると、彼女の手は長く伸び、まるで生き物のように俺を睨みながら、うねうねと動いているようだった。
「なんだこれ。一体どうなって――」
それを見ながら呆気に取られていると、その腕の先端から今度は液体のようなものが飛び出して俺に襲い掛かる。
「うぉ!」
間一髪のところで交わすと、天寺さんはこちらを向き直し奇声をあげながら近寄ってくる。
なんだこれ、夢なのか? その現実離れした様子に俺は逃げ出したかったが、それ以上に彼女を助けなくてはいけないと言う思いが勝る。
「天寺さん、俺ですよ、山根ですよ! 館長にも頼まれて、マスターと一緒にあなたを探しに。ほら、今日も一緒にシフトに入ってたじゃないですか⁉」
俺は目の前まで来た彼女に対し、両手を広げ丸腰をアピールする。これが対話を促す最善の策だと思ったから。このときまでは。
「うぐぁぁ」
相変わらず言葉というより、苦しそうな
次の瞬間、俺は腹部にとてつもない痛みを感じた。痛み? いや、苦しい、熱い。今まで感じたことのないような苦痛に見舞われる。
慌ててその腹部に手を当てると、その手が熱く濡れる。同時に鼻をつくような鉄の臭いがする。
刺されたのか? 一体どこにそんな凶器が? 苦痛に耐えながら、彼女に視線をやると、俺に差し出したはずの左手は、まるで大きな鉾のように鋭く形を変えている。鞭のような右手といい、こんなのもう化け物じゃないか。
それにしても痛い、痛い……いや、熱いのか? 分からない。もうどっちでもいい。
今まで感じたことのない苦痛の中、俺は必死に自分の腹を抑える。
ぱっくりと割れた腹部からは、手で押さえようが止めどなく血が溢れ出てくる。この手を放すと内臓が飛び出そうなほど深く、広く裂けている。
天寺さん……。
だめだ、助けを求めようにも、もう声が出ない。
膝をつき、屈み込んで両手で腹を押さえながら、天寺さんを見上げる。
いつもにこにこと優しい表情だった彼女の顔は、まるで別人のように見える。
出血が多いのか、意識がだんだん遠のいていく。この苦痛から逃れられるなら、いっそこのまま死んだ方が楽なのかもしれない。
視界もぼやけてきた。ただ、彼女がその異形の左手を突き上げ、俺に振り下ろそうとしているのは分かる。
覚悟を決めたとき、左手の勾玉が目に入る。
それを通す綺麗なミサンガ。そうだ、今日は俺の二十歳の誕生日。あなたに貰った誕生日プレゼント。もしかしたらわずかでも脈があったのかな? 思えば二十年間、ずっとぼっちだったな。彼女欲しかったな。生まれ変わったら、絶対リア充になってやる。
子供の頃からのフラれた経験がどんどん蘇る。
走馬灯ってこんななのか、想像と全然違うな。
霞む視界の中、天寺さんが異形の左手を振り下ろすのが見える。
これでこの苦痛から解放される。さよなら山根尊。
『バカ野郎! 早く俺様を呼べよ! 本当に死んじまうぞ⁉』
――誰だよ?
『誰? あれ、誰だ俺様は? って、んなこたどうでもいいんだよ! 早くしろ!』
呼ぶって言ったってどうやって? 顔も名前も知らないのに。
『なんかあるだろ? ほら、俺様を封印したあれだ』
ごめん、全く分からない。
真っ暗になった視界の中、俺に呼びかける声が聞こえた。だけどぜんぜん会話は嚙み合わない。これがあの世なのか?
俺、もう死んだってことか?
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