第37話

 「ねぇまだ開かないの?」

 「本来は学長の許可がないと開かないんだ。時間がかかるのは仕方ないだろう」

 「さすがに時間かかりすぎじゃない? 変なことしてないよね?」

 (くそっ、さすがにもう開けないと怪しまれるか……)

 ノアの苛立つ声に、ロイは仕方なく個別研究室の扉を開けた。

 ここにくるまで適当に誤魔化しつつ、ロイは各関門で時間を稼いだ。大学に入るとき、校舎に立ち入るとき、教授室に入るとき、研究室に入るとき。どれも一時間ずつかけ開錠し、今は離宮を出て五時間ほど経っただろうか。遠くの空は明るくなり始めており、さすがにノアも怪しんでいる。

 これでもかなり頑張った方だ。ただ残念なことに、この先は時間が稼げそうなものが何もなかった。

 (あとは…資料を探すふりか……)

 しかしそんなの数分、よくて数十分しか持たないだろう。ロイはデスクの引き出しを適当に開けながら、次の手を考える。

 どうにかこの数時間の間に、ジャックが隙を見て逃げ出していることを祈るばかりだった。念のため、教授室から研究室に入る鍵は指したままにしてきた。ジャックがなんとか旧友と連絡がつけば、そこから入ってこられるように。今自分がしなければならないのは、援軍が来るまでの時間稼ぎだ。

 ロイは魔花まかの粉や液体が入った瓶を取り出しながら、ここにある適当なものでそれっぽい性転換薬を作れば時間が稼げるだろうか……と算段したとき、ガラスの向こうに一瞬、ここにいてはいけない栗毛が見えた気がした。

 「えっ」

 息が止まる。とうとうあまりの極限状態に幻覚まで見え始めたか……? とロイは目を凝らすが、プランターの合間からちらちらと現れるくせっ毛は、どう考えても見慣れたもので——

 「——っ!」

 ロイは急いでガラス張りの個別研究室のブラインドを全面下げる。あれは幻なんかではなかった。疑いようのない現実だ。

 「え、ロイどうしたの?」

 「資料を出すのに必要なんだ!」

 自分でもわけわからないことを言っている自覚はあった。けれど今見えた人影がここから見えたら終わりだ。幸いにもこの部屋にはノアとセオドアがいる。扉が閉まっている限り、プランターに隠れた人影が匂いでばれることは——

 つかの間、唯一ブラインドが閉められていないガラスの扉に、深青の瞳が映った。

 「なっ!」

 叫びだしそうな口を、ロイはばっと手で抑える。

 (なんでここに!? お前は動けるような体じゃ……!?)

 ロイのただならぬ様子に気づいたノアとセオドアが、扉に駆け寄る。

 「ま、待て!」

 静止する声も虚しく、扉が開かれた。しかしロイが予想した人影はどこにもおらず、二人はきょろきょろと左右を見渡す。

 「匂いはします……でも分散してて……」

 とセオドアが左の花壇の方へ足を向けたとき、右側から柔軟な体を生かして、ある人物が滑り混んできた。

 「「あ」」

 二人の間抜けな声をよそに、入ってきた人物は扉を閉め鍵をする。

 「ロイ! 早く棚を!」

 その声にはっとして、扉を塞ぐように棚を倒す。外から扉を叩く音が響くが、強化ガラスのおかげでしばらくは持ちそうだった。しかし密閉された空間に、甘い香りが充満する。

 「イ、イアン! お前! どうして!」

 フェロモンの匂いも、栗毛のくせっ毛も、深青の瞳も、ロイの近衛騎士に他ならない。けれど彼は発情期ヒートでベッドで寝ているはずだ。なのになぜこんなところにいるのか。ロイは夢かと疑ってしまう。

 (まさか……俺を助けにきたわけじゃないよな……!?)

 床に倒れ肩で息をするイアンから、ロイは急いで距離をとる。手で鼻を抑えても、運命の番の前では焼け石に水だった。

 「そんなの、俺が君の近衛騎士だからだ! 俺は君を守る役目がある!」

 怒りと発情期ヒートで顔を真っ赤にさせて、イアンは声を張る。

 「馬鹿かお前は!! 俺がどんな思いで」

 「馬鹿は君だ!!」

 イアンは力が入らない体でぐったりと立ち上がり、ふらふらになりながらロイに近づいてきた。

 「やめろ、近寄るな! 俺がお前にしたことを忘れたのか!? 俺はお前を襲って」

 「恐怖を植え付けたって? 俺に心の傷を負わせたって? そんなの君の勝手な妄想だ!」

 涙をぽろぽろ落としながら、なおもイアンは歩みを進める。

 「あのとき俺がどう思ったか、ロイは知らないくせに!」

 「そ、そんなの」

 『なんで……どうして……』

 ロイの脳裏に、怯えたイアンの顔が鮮明に映る。絶望に陥る瞬間。あんな切り裂かれるような思いは、もう二度としたくない。

 けれどイアンは近づくのをやめない。このままだと襲われるかもしれないのに。

 (逃げろ。お願いだから逃げてくれ……!)

 もうこれ以上、ロイは罪を背負いたくなかった。愛しているイアンを傷つけるなんて、心が耐えられない。

 ロイが壁際ぎりぎりまで下がったとき、イアンは訴えるように叫んだ。

 「俺は……俺は、あのとき『こんなにも幸せなんだろう、ベータなのに……』って思ったんだよ! 番うことって、こんなにも、心を満たすんだなって……!!」

 「……えっ?」

 吸い込まれそうなラピスラズリの瞳を、ロイは奥の奥まで見た。

 (こんなにも幸せなんだろう? ベータなのに……って?)

 そんな……そんなの……

 「う、うそだ。だって、あのとき、お前は!」

 「俺だって……! 初めてのことばっかで怖かったさ! でも、それは、君に対してじゃない! 急に変わった自分の体に対してだ!」

 二年間ロイを縛り付けていた映像が再生される。何度も何度も流れた恐怖の一場面。けれど初めて知った。その怯えた顔が、自分に向けられたものではないことを。

 「君が教えてくれたんじゃないか……日陰に咲く紺瑠璃花ネイビー・ラピスラズリはかわいそうじゃないって……それは知識のない馬鹿が勝手に決めつけたことだって……なら、俺の気持ちも勝手に決めつけないでよ……」

 「イ、イアン……でも、でも俺は、お前を騙して……」

 「それはすごく怒ってる。でもだからって……ロイを嫌いになんかなれない。優しい君が、俺を無闇に傷つけるなんて、そんなこと、するわけない……それぐらい、十年も君の近衛騎士をしていたらわかるよ!」

 ゆっくりとイアンが近づいてくる。ロイはもう後ろには下がれない。

 「俺はね、オメガの体は騎士として役に立たないと思ってたんだ……でも君だけが、俺の可能性を信じてくれた。子供ができないことも、関係ないって教えてくれた。俺でも気づかない俺自身の魅力を、ロイは知ってくれてて、それがどれだけ俺の心を震わせたか……」

 イアンが息を弾ませながら、ロイの肩に顔を埋める。立っているのがやっとの体を、ロイはおそるおそる手で支えた。

 「俺、ちゃんと抑制剤を飲んでいるときにね、ロイの近衛騎士は俺だけがいいと思ったんだよ……他の誰にも取られたくないって……それってもう……恋だと思うんだ。でもやっぱりこの気持ちはフェロモンが見せる幻覚なのかな……? また君はそう決めつけるの?」

 視界が滲む。ロイはイアンの細く引き締まった体を抱きしめ、首を振った。

 「そんなこと……そんなことはない……! お前の気持ちは本物だ。紛れもない本心だ」

 「本当……? よかった……やっとロイが、認めてくれた」

 イアンはふふっと笑う。その笑い声さえ愛おしくて、ロイは抱きしめる力が強くなった。

 「ロ、ロイ、く、苦しい……」

 「あ、わ、悪い!」

 慌ててイアンを離すと、フェロモンで熱に浮かされた瞳とぶつかる。ロイは本能のままイアンの顎を掴みキスをしようとしたが——すんでんのところで動きが止まった。

 (だ、だめだ! また自分の中の獣が現れたらどうする!)

 かすかに残っていた理性でロイは顔を逸らす。しかし完全に逸らし切る前に、唇にしっとりとした感触が当たった。

 「……っ!?」

 皮膚の薄い唇から、発情期ヒートの高い体温が伝わる。ロイは深いキスをしたくなる情欲を抑えて、代わりにイアンの体を抱きしめた。

 「ロイ……俺は君のことが……」

 「好きだ」

 イアンより先に、爆発しそうな感情が言葉になった。

 「ずっと前からお前のことが好きだ……ベータのときから欲しかった。いつもお前だけがいればいいって……お前のためなら死んでもいいって思ってた」

 うちに秘めていた思いが、たがが外れたように溢れ出す。元から一生伝えるつもりはなかった物。それを言葉にして、想い人に伝えている。

 (これは本当に現実だろうか……)

 にわかには信じがたい光景に、ロイは幸せで倒れてしまいそうだった。

 一方イアンは困った顔をして

 「だ、だめだよ死んじゃ! そんな悲しいことを……」

 と言う。八の字に下がった眉は愛らしく、ロイは暴れる本能を押さえつけるために、理性を総動員しなればならなかった。

 「……すまん。でも本当に——」

 ——ドンっ! 

 一際大きな衝撃音が、部屋に響く。

 「……そう思ってたが、今はまだ死ねないな。お前だけでも安全なところに移動させないと」

 「それはだめだ。俺は君の近衛騎士だよ? 君に守られるんじゃなくて、守る立場だ」

 「……そうだったな」

 ふっと笑って返す。しかしイアンの体は発情期ヒートで震え始め、まともに戦えそうにはない。イアンもそれは気づいているのか、苦し紛れに

 「……時間さえ稼げればいいんだ。そしたらジャックさんが旧友を連れてきてくれる。それぐらいなら、俺にもできると思うから……」

 と返した。

 「それは本当か!?」

 ジャックはロイの伝言通り、ちゃんと逃げ出したらしい。きっと今頃旧友に会って、話をつけているだろう。

 (もしそうなら希望が見えてくる……!)

 ロイはフェロモンを振り払い、全神経を集中させ、目の前の愛する人を守る最善策を考える。幸いにも、ジャックは後三十分から一時間で来るだろう。それまでの時間稼ぎが必要だった。

 (問題は……この強化ガラスが割れたときだな……)

 今はまだガラスのおかげでノアたちは中に入れない。けれど扉のあたりからヒビが入り始めている。持って後数分といったところだった。

 割れたら最後。二人で無事にここを出るには、一か八かの賭けしか残っていない。

 「イアン……一つだけ案がある。でもそれには——」

 ロイの提案にイアンは一瞬目を見開くも、意を決したように頷く。そしてガラスの箱庭がばらばらになるとき、二人は覚悟を決めた。

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