第36話

 遡ること数時間前、ロイは眠りに落ちたイアンを襲う前に部屋を出た。

 私室の引き出しには必ず抑制剤の予備を入れていた。けれどいくら探しても、どこにも見つからない。だとしたら大学までとりにいかなければ……とロイが玄関ホールに降りると、そこにいるはずのない人物が立ちはだかっていた。

 「……はぁ? な、何でお前が……」

 と言ってる間に、玄関からアッバスの特殊部隊……のような格好をした騎士団員がずかずかと入ってくる。

 「やあ、ロイ。イアン君の体調はどうかな」

 不敵な笑みを浮かべるノアを、ロイは睨みつける。玄関から最後に入ってきたセオドアらしき背格好の人物は、ノアの横で立ち止まった。

 「おい、ノア。これはどういう……」

 と言いながら、ロイはジャックがいないことに気づく。普段だったら帰ってきた物音でジャックが出迎えるはずだ。ということは、すでに離宮はノアによって占拠されているということ。

 (くそっ、イアンのフェロモンに当てられて、冷静な判断ができていなかった……!)

 後悔しても遅い。けれどノアが離宮を占拠する理由も、アッバスの特殊部隊なんかになりきる理由も、ロイには思いつかなかった。

 「今日という日を待ってたよ。とうとう完成させたんだね」

 「はぁ?」

 口角をあげ嬉しそうにするノアを、ロイは異質なものを見る目で見る。

 (とうとう完成させた? こいつはこの状況で何を言っている?)

 ロイがフェロモンで焼き切れそうな脳みそを必死に働かせていたとき、イアンが寝ている二階へ誰かが登る音がした。

 「入るなっ!!」

 悲鳴に似た叫びに、登る足音が止まる。

 「そっか……二階にイアン君がいるんだね。僕にはわからないけど」

 「はぁ……?」

 そんなわけない。イアンの甘い匂いは扉を閉めていてもわかるほど、二階から降りてきている。運命の番であるロイはことさら強く感じるが、アルファの人間なら誰でもわかるはずだ。

 疑いの目で見るロイに、ノアは歪んだ笑みを浮かべる。

 「ねぇ学者先生。匂いも感じない。フェロモンも出ない……それでもアルファって言えると思う?」

 「お前……」

 「たしかに十歳のときに受けた検査はアルファだった。でも僕にはフェロモンがわからない」

 そんなことあるわけない。とは言えなかった。『後天性オメガ』があるなら『後天性ベータ』があってもおかしくない。希少な症例がイアンに当たったように、ノアに当たる確率はゼロではないのだから。

 ロイはぎりっと歯を噛み締め、ノアを睨みつける。

 「……そんなの、もう一度検査すればいい」

 「そんなことできるわけないだろう!」

 ノアが激昂する。主人の荒ぶる様子に、隣に立つセオドアが悲しげな顔をした。

 「でも二年前からロイが急に性転換薬を研究し始めたって聞いて……僕は待ったよ。機会を伺い、研究室に侵入できる技術者も手に入れた」

 「技術者って……」

 「手に入れたのはちょうど三ヶ月前だ……そこまで言えば、わかるでしょ?」

 「まさか……! お前っ……!」

 三ヶ月前から始まった研究室の攻撃。それとときを同じくして連絡が取れなくなった、学長の知り合い。もし王室所属のノアの仕業だとしたら、研究室の一桁魔法陣まで侵入できたのも説明がつく。魔法陣をいじれる力を持ったものさえいれば、余裕だっただろう。

 「全て……お前がやったのか……!」

 「ああそうだよ。でも中に入るのも一苦労だったんだよ……学長だっけ? 彼、王室に報告していない魔法陣を仕掛けていてね……食えないじじいだ。だからロイにおもちゃを渡して侵入したんだけど……」

 「おもちゃって……」

 「あれ? 気づいてなかったの? 聖闘技祭せいとうぎさいの募集要項だよ」

 「……っ!」

 研究室に侵入者が現れた日。学長は聖闘技祭せいとうぎさいの要項を熱心に見ていた。そのときは深く考えていなかったが、まさかあの用紙が侵入する糸口になっていたなんて……自分が種をまいていたとは知らず、ロイは悔しさで唇を噛む。

 「でもその日は欲しいものは見つからなかった。まあ、予想通りだったけどね。ロイの研究は人間種の第二性を変える貴重なデータだ……侵入しただけで見つかるわけがない。だから最終手段として、今日という日を選んで直接聞きにきたのさ」

 聖闘技祭せいとうぎさいの最終日。アッバスの特殊部隊に扮した騎士団員。それらを合わせると、導き出される答えは一つだ。

 「……全部百獣の爪キングス・クローのせいにするつもりか」

 「ご名答。さすが学者先生だね」

 ノアはわざとらしく拍手する。

 「大学に侵入しても無駄だとしたら、君を脅すしかない。でも脅したことが世間にばれたら終わりだ。でも今日なら最悪死人が出ても……言い訳がたつからね」

 「アッバスの特殊部隊による暗殺……」

 「そうだよ。君が死んでも国際問題になるだけで、僕の罪にはならない。幸い君は人脈が皆無だから……君が死んでも、証拠を探して訴えるような人間はいないでしょ?」

 ノアの言う通りだった。腐っても第二王子。多少派手なことをしても揉み消せる。

 「くそっ……! そこまでしてお前が欲しいものはなんだ」

 「もうわかってるでしょ?」

 ノアの目が冷たく光る。

 「『赤い緑柱茎ビキシバイト』」

 「……っ」

 「僕は君が開発している性転換薬、『赤い緑柱茎ビキシバイト』が手に入ればいい」

 ノアは『後天性ベータ』だ。アルファに戻る薬が欲しいのは、容易に想像できた。

 「でも、それは……」

 一度侵入しているならわかっているはず。その薬がまだ未完成であることを。

 「僕は知ってるんだよ……本当は性転換薬が完成しているって」

 確信を持ったように言うノアに、ロイは目を見開く。

 「お、お前、なに言って……」

 「今日のイアン君の活躍。どう考えてもオメガができるものじゃない。大学側は隠してるんだろう? 世の中のベータが全員アルファになったら、君たちが困るから! 僕はそのためにも公表しなければならない。世の中の、ベータとオメガのためにも!」

 あまりにも突拍子もない話に、ロイは開いた口が塞がらない。

 (こ、こいつは、それだけの情報で、こんな馬鹿みたいなことをしでかしたのか……!?)

 ロイは頭が痛くなる。ノアにとって、オメガの人間が聖闘技祭せいとうぎさいで優勝するのは、薬を使わないとできないことらしい。努力の賜物という考えは、一切思い浮かばなかったのか。

 「別にシラをきるならそれでもいい……でもそしたらセオドアをイアン君の部屋に入れるよ」

 「お前っ!」

 「君には選択肢が二つある。僕に『赤い緑柱茎ビキシバイト』を渡すか、イアン君をセオドアの番にさせるか。さぁどっちを選ぶ?」

 「くそっ……!」

 ロイは必死に頭を回転させる。

 (考えろ、考えろ、考えろ……! どうにかこの状況を打破する方法を…!)

 このまま大学に行っても、性転換薬なんて無いものを渡すなんてできない。それはイアンがセオドアの番になる時間稼ぎであり、根本的な解決にはならないだろう。

 だとしたらノアを罰することのできる人物の協力が必要だ。ノアより身分が上で、身内だからと忖度しない奴。でもそんな馬鹿正直な人間、いるわけが——

 「そうだ……!」

 「ん? どうしたの?」

 小さくつぶやかれた独り言は、ノアの耳にまで届かなかったようだ。ロイは内心の計画が悟られないように、ある人物の名を呼ぶ。

 「……そういえば、ジャックはどうした」

 「たぶん隣の部屋で寝てるんじゃないかな」

 「……ここに呼んでくれ。生きてるか確認したい」

 ノアが顎で指示を出し、部下が部屋から連れ出してくる。

 「んんっ!!」

 ジャックは縄で縛られており、身動きは取れそうにない。しかし耳は塞がっておらず、声は聞こえるようだった。ロイはそのことを確認すると、すっと目の光を無くして、ジャックに冷たく言い放つ。

 「ジャック。お前は使えないやつだな」

 もがいていたジャックが動きを止める。

 「お前の優秀な旧友だったら、こうはならなかっただろう」

 少しだけ驚きに目が開かれたが、『旧友』と言う言葉に察してくれたようだ。眉をぎゅっと寄せて、小さく頷く。

 「俺は大学に行って、ノアに研究室を案内する。しばらくは戻ってこないが……それまでにせいぜい逃げるんだな。じゃないと俺が殺してやる」

 ジャックの目にしっかりと意図が伝わったことを確認し、ロイはノアに向き直る。

 (今はジャックを信じるしかない。どうにかジャックが逃げて連絡をとってくれれば……確率は低いが、あいつが動いてくれる)

 ロイは祈るような気持ちで、薔薇宮殿のある方を見つめた。

 「長年仕えてきた執事にひどい態度だね」

 「何とでもいえ……今言った通り、『赤い緑柱茎ビキシバイト』はここにはない。大学に行くぞ」

 「聞き分けがよくて助かるよ」

 「ただし条件がある」

 ここを離れるのならば外せないこと。それは何よりも大事で大切な存在が傷つかないこと。

 「……絶対にイアンの寝てる部屋には誰も入れるな。それと、アルファは全員俺とこい。離宮に残るのはベータだけだ」

 イアンのフェロモンに当てられて、汗が滲んでいるセオドアを見ながら、ロイは言う。多分アルファはセオドア一人。最悪ベータがうなじを噛んでも番にはならない。だとしたら、セオドアだけでも連れて行ければ、イアンが無理やり番にされることはないだろう。残ったベータの奴らがイアンを襲う可能性もあったが……全員連れていくのは、ノアが許すはずがない。ロイが今できるイアンへの安全策は、これが限界だった。

 「……わかった。セオドア、君は僕と一緒に大学に行こう」

 ノアはそう言うと玄関の方へ歩き出す。ロイはその背中に問いかけた。

 「最後に聞く……今日俺の抑制剤を入れ替えてイアンを発情させたのも、この屋敷に抑制剤が無いのも、全部お前の仕業か?」

 ここまで用意周到な計画が練られているのだ。答えは決まっているも同然だった。

 ノアは振りかえり、薄く笑みを作る。

 「ああそうだよ。君たちは体調不良で離宮に帰って……その間に百獣の爪キングス・クローに暗殺されたって筋書きにするためにね。騎士団本部内のことで、僕が知らないことがあるとでも?」

 異母兄弟の兄を、ロイはあらん限りの憎悪を込めて睨む。

 「そうか……わかった。なら俺はお前を………絶対に許さない」

 イアンの努力で勝ち取った最高位クラウンを、最後の最後で台無しにした。自分がベータであることを認められないが故に。

 殺したいほど憎い。

 ロイは明確な殺意をもって、手を握りしめる。怒りに沸き立つ血は収まりそうもなく、また収まらないでくれと願った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る