第九章

第35話

 待って、行かないで。俺の話を……

 「……ロイっ!」

 目を覚ますと見慣れない天井があった。イアンは体を起きあがらせようとすると、熱にうかされたような気だるさに、昨日あった出来事を思い出す。窓の外では夕闇が明けそうな空が見え、あれから数時間は経ったようだった。

 「なんで話を……」

 イアンは沸々とした苛立ちを、重い体を動かす原動力にする。ベッドから起き上がり、外に出ようと扉に手をかけたとき、聞きなれない声に手が止まった。

 「……なぁ、今ならオメガとヤれるんじゃね? 外の奴らも誘ってさ、襲っちまおうぜ」

 「たしかにな。どうせノア様もすぐには帰ってこねぇだろうし」

 声のトーンは低く、二人とも男のようだ。しかもオメガである自分を襲うなどと不穏な話をしている。なぜ見知らぬ人間が離宮にいるのか、イアンには不明だったが、すぐに扉を開けるのはやめた。

 (誰だろう今の声は。それにノア様って……)

 イアンは扉に耳をくっつけ、詳しく話を聞く。どうも彼らはノアの部下で、ここにいるイアンが外に出ないよう見張っているらしい。

 発情期ヒートのやわやわな頭には許容量を超えていて、イアンは倒れそうになる。なぜノアが自分のことを見張っているのか、理由がわからない。ロイがノアに頼んで発情期ヒートのイアンを見てくれるよう頼んだのだろうか? でもそれならジャックに……

 (……そういえば、ジャックさんはどこに?)

 昨日ロイと帰ってきたときにかなり物音がしたはずだ。けれど彼は昨日部屋にやって来なかった。

 (もしかして……あのときから何かおかしかった?)

 離宮の状況を確認しようと、イアンは熱に溶けそうな体を動かし、体が入り込まないように窓の外を伺う。

 「は? ……え? ……」

 イアンが暗闇に目を凝らすと、そこには動物の耳らしきものをつけた獣人種ぽい人影が離宮の外を歩いていた。顔には布を巻き、服装もアッバスのもののようだ。けれど歩き方と腰に帯刀している剣で、騎士団員だと一目でわかる。なぜ彼らは獣人種の真似事なんてしているのだろうか? わけがわからない。

 「うぅ……なにがどうなっているんだ……」

 疼く体は無理だと叫ぶ。このままベッドで寝ていたいと。

 けれどイアンの脳が警鐘を鳴らした。まだロイは大学から戻ってきていない。もう二時間以上は経っているのに。こんなに帰りが遅いのはおかしい。きっと何かあったのだ。

 (もし危険に晒されているなら、助けに行かないと……)

 近衛騎士として主人を守らなければならない。それが無くとも、好きだと思いを告げる前に、ロイと会えなくなるのは嫌だった。

 発情期ヒートの体に鞭を打ち、イアンは現状の確認をする。幸い服装は昨日のままで、レイピアも持ったままだった。体は言うことを聞かないけれど、動けなくはない。

 「とりあえず……外の人間に襲われる前に、この状況を何とかしよう……」

 目下の目標を定め、イアンは音を立てないようにベッドのシーツを外す。他にもロイのデスクに何か使えそうな物がないかと漁ると、二番目の引き出しに蒼玉陽花サファイアーフの液体が入った瓶が出てきた。

 「これなら……!」

 薄いブルーの瓶を持ち出し、イアンは扉の前で耳を澄ます。話しぶり的に離宮の中には二人しかいないらしい。それならいけるか……? と算段をたてていたら、希望が見える話が聞こえてきた。

 「おいあの老人ちゃんと縛ったんだよな? また食堂で暴れられたら困るぜ?」

 あの老人とはジャックのことだろう。ジャックがまだ離宮の中にいたことを知り、イアンは安堵する。

 (よかった……! ジャックさんが離宮にいる! 縛られているということは、やっぱり何かあったんだ……)

 どうにかジャックに会うため、イアンは壁で息を潜めて、きぃ……と扉を開けた。

 「おい、なんで勝手にドアが……って、中に誰もいないぞ」

 「はぁ? んなわけあるか」

 外の見張りと同じように、変てこな獣人種もどきの人間が二人入ってくる。イアンは彼らに気づかれる前に、後ろからまとめてシーツでくるんだ。

 「ふがっ!」

 「うっ!」

 イアンは急いで部屋を出て扉を閉める。外から扉の床の間に蒼玉陽花サファイアーフの液体をかけると、瞬時に氷のストッパーが出来上がった。

 (これで少しは時間稼ぎになるはず……!)

 どんどんっと鳴る扉を背にして、イアンは食堂へと走る。

 「ジャックさん!」

 「んんっ!!」

 食堂を開けた扉のすぐそこに、縛られているジャックが芋虫のように横たわっていた。震える手で猿ぐつわを外し、レイピアで縄を切る。

 「イ、イアンさん……! す、すみま……」

 「それより剣は!?」

 「戸棚の中に予備が!」

 急いで壁の戸棚を開け、食器の奥に隠れた剣を取り出す。ジャックに投げて渡したとき、二階の扉が蹴破られる音がした。

 「おい、てめぇら大人しく……」と一人が食堂に入る前にジャックが太ももを剣で掠める。もう1人も食堂に入ることは叶わず、二人とも叫べないように縄で縛られるまであっと言う間だった。

 その間、イアンは本格的な発情期ヒートで床にへたり込んでしまったが、ジャックが別の戸棚から小瓶を取り出し、イアンに差し出した。

 「イアンさんこれを! 予備の抑制剤です。でもヒートを抑えられるほどで強くは……」

 「無いよりはましです!」

 ジャックからひったくるように奪うと、イアンは秒で飲み干す。もやがかかっていた頭が少しだけクリアになった。

 「イアンさん、今は悠長に状況をお話ししている暇がありません。あなたは今すぐ大学の研究室に行って時間を稼いできてください」

 「大学の研究室で……時間を稼ぐ……?」

 「はい。ロイ様がノア様に捕まっています。下手したら殺さる可能性も……!」

 「は!? え!?」

 ロイがノアに捕まっていて、殺されそうになっている? 全く事態が飲み込めず、イアンは眩暈がした。

 「体が非常に辛いのは承知です。私だって、できればあなたには無理をしてほしくない。でも今はロイ様の近衛騎士であるイアンさんにしか頼めないんです!」

 「で、でも俺の体は使い物になりません! それならジャックさんが行った方が!」

 「私はこの事態を収束する援軍を呼ばなければなりません。しかしその間にロイ様が殺されるかもしれない」

 だから自分が行くしかない——イアンはみなまで言わずとも、ジャックの言いたいことを汲み取った。きっとこれが最善の方法なのだ。だとしたら、近衛騎士のイアンは主人を守ることに全力を尽くすのみ。ジャックの苦しい決断をした眼差しに、イアンは全ての疑問を飲み込んだ。

 「わかりました。俺が時間を作ってきます」

 「ありがとうございます……ロイ様には『ジャックの旧友がすぐに来る』と言えば伝わるはずです」

 イアンには旧友が誰だかわからなかったが、そんなこと今は重要ではない。さっきよりも鮮明になった頭で己の使命を頭に叩き込む。

 「俺は今すぐ大学の研究室に行って、ロイが殺されないように、援軍が来るまで時間を稼げばいいんですね……ここから出る方法は?」

 「外にも二人しかいないようです。最小限の人数で動いているのでしょう……私が二人を相手するので、その間に彼らが乗ってきた馬で大学までかけてください」

 「わかりました」

 ジャックと共に、窓に映らないように姿勢を低くして玄関まで向かう。

 何一つ状況はわからないけれど、イアンがやることはいつもと変わらない。ロイを助ける。ただそれだけだ。

 「馬は出て左手にいます。三、二、一で開けたら、全速力で走ってください」

 「イエス・サー」

 イアンは自然と、騎士団の訓練で習う上官への挨拶が口から出ていた。玄関前で胸に手を当て敬礼するイアンに、ジャックは泣きそうな顔をする。

 「絶対に命を落とすような無茶はしないように。時間を稼ぐことだけに専念してください」

 イアンが強く頷き返すのを見て、ジャックは数を数え始める。

 「三……二……一!」

 開けられた扉からイアンは飛び出す。後ろも振り返らず、馬に飛び乗り離宮の小道を駆け抜けた。体は重い。でもロイに会いたかった。会って話しがしたい。それだけを胸に、イアンは馬を走らせた。

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