第38話

 セオドアが剣の柄で最後の一振りを加えると、ガラスはぴきっとひびが入り、粉々になる。

 ノアはやっと捕まえられるとため息をついた。まさか軍服の上着を別のところにかけて、匂いを分散させるなんて姑息な手を使うとは思わなかった。おかげで手間がかかったが、ロイの弱点であるイアンが来てくれたのは嬉しい誤算だった。

 (イアンだけでも捉えられれば、ロイは言いなりだろう……)

 しかしガラスの雨から現れた二人は、想像もしない出立をしていた。

 「はぁ……?」

 というのも、イアンがロイの後ろに立ち、首筋にレイピアを当てていたのである。

 「……どうしたのかな? 仲違いでもしたの?」

 ノアはまためんどくさい状況になり、苛立ちが募る。イアンが本気でロイを殺すとは考えづらかった。けれどこちらが簡単に手を出すこともできない。下手したら発情期ヒートで震えているイアンのレイピアがロイに当たってしまうだろう。なんとか二人を引き離せないか……と模索していると、ロイがくつくつ笑い出した。

 「どうしたんだいロイ? とうとうおかしくなった?」

 「いや、そうじゃない……なぁノア。もし性転換薬なんてものは本当になくて、聖闘技祭せいとうぎさいを優勝したのはイアンの実力だと言ったら……どうする?」

 「……はぁ?」

 この後に及んでまだそんな見えすいた嘘をつくのか。どこまで自分を馬鹿にする気だろう。ノアはふつふつと怒りが込み上げてくる。

 「そんな冗談……」

 「そうだよな。信じられないよな。今まで必死に努力してきたことがないんだから……どうせお前のことだ。ベータだから成長できないんだと、アルファじゃないからうまくいかないんだと、性別を理由にいつも途中で諦めたんじゃないのか?」

 「なっ!」

 ロイは何も知らないはず。なのに今まで自分の成長を間近で見たきたような言い方に、ノアは憤りが増した。ロイはアルファだからわからないのだ。勝てない相手がいると知っていながら、努力することの大変さを。

 「だから性転換薬に拘る。アルファなら成功するはずだと……そいういうところが……」

 「もうこんな無駄話はやめよう。早く性転換薬……赤い緑柱茎ビキシバイトを渡せ……手間は増えるけど、君たちを殺した後に探すという方法もあるんだぞ」

 ノアの凄む声に、ロイはやっと自分の立場を認識したのか、口を閉ざす。そして呆れたように

 「赤い緑柱茎ビキシバイトね……」

 と言ってポケットから赤い液体の入った小瓶を取り出した。

 「お前が探しているのはこの薬か」

 「やっぱりあったじゃないか」

 朝日が差し込み始めた研究室に、きらりと輝く真っ赤な薬品。

 魔法陣を操れるハーフエルフを捕まえ、部下にアッバスのふりをさせてまで手に入れたかった品物。それがやっと、目の前に現れた。

 「それを床に転がして渡せ。そしたら二人の安全は約束するよ」

 ノアは二人にとって最適の提案をしたが、ロイは迷いをみせる。

 「本当にいいのか? お前赤い緑柱茎ビキシバイトが何か知らないだろ?」

 「飲めば性転換する薬だろ。それぐらいわかる!」

 向こうが不利な立場なはずなのに、こちらが遊ばれている感覚になるのはなぜだろう。ノアはそれがひどく腹立たしい。

 「違うな。これは飲み薬なんかじゃない。本来は首筋に少量を……しかももっと薄めたものをつけて使うんだ。香水みたいに」

 「香水みたいに?」

 香水みたいに使うだけで性転換が起こるほどの変化が、体に現れるのだろうか。にわかには信じがたい内容に、ノアは疑いの目でロイを見る。

 「ああそうだ……それでフェロモンの香りを強くして、相手を誑かすんだよ!」

 と言い切る前に、ロイは小瓶をセオドアに投げつけた。

 「なっ!?」

 「うっ!」

 セオドアの顔面に小瓶があたり、パリンッと音を立てて割れる。ロイがその間に

 《我、汝の真の力を発揮せん!》

 と叫んだ。

 瞬間、嗅いだこともない強い香りで眩暈が起こる。倒れ込みそうになる体をすんでんのところで支えると、ロイが詠唱を唱えながら、ポケットから出した小瓶を騎士団員に投げつけるのが見えた。

 「ぎゃぁ!」

 「な、なんだ!?」

 黄金こがねに輝く煙。煌めく真紅の結晶。華やかな香気がフェロモンに混じって漂い、ノアは場違いにも美しいと思ってしまう。

 「ノ、ノア様!」

 よろっとセオドアがこちらに向かってくるのを、ノアは鼻を押さえて睨みつける。

 「こっちにくるな! あいつらを取り押さえろ!」

 ロイはイアンを抱え、雑にレイピアを振るって通り抜けようとする。セオドアが手を伸ばすが、足元に翡翠の液体を投げつけられ、身動きが取れなくなった。ノアも必死に体を動かすが、先ほど吸い込んだ黄金の煙のせいで意識が遠のく。

 最後に視界に収めたのは、研究室を飛び出していくロイの背中と、抱えられたイアンの真っ赤な顔だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る