第五章

第23話

 ひゅんとレイピアが空を切る。イアンは落ちてきた公孫樹いちょうの葉を目がけて振ったつもりだったが、レイピアは掠りもしなかった。

 「はぁ……」

 どうにも今日は朝から調子が悪かった。なんとかして煩雑な頭の中を整理しようと剣を握るも、悩みが解消されるわけもなく、無意味な時間を過ごしている。原因は明確だった。昨日気づいてしまった恋心をどうするか。

 (無かったことにしよう)

 理性的な方のイアンが唱えた。一介の騎士が抱くような感情ではない。主人に恋い慕っても、身分が違いすぎると。

 (でも、愛してると伝えたい)

 秘めごとが苦手な本能が叫んだ。ロイを見るたび脈打つ鼓動を、ずっとは黙っていられない。想い人の唯一無二の存在になれなくてもいいから、早くあふれる熱情を話してしまいたいと。

 「うぅぅ……! どうすればいいんだ!」

 イアンは理性も本能も叩っ切るようにレイピアを振り回す。もはや型は崩れ、隙だらけの素振りに、

 「イアンさん、剣心がぶれぶれですよ」

 と呆れるような声が、後ろから投げかけられた。

 「ジャ、ジャックさん! いつの間に!?」

 離宮の庭は落ち葉だらけで、足音を消すのは難しいはず。ジャックの能力の高さに、イアンは軽く戦慄した。

 「ひどい有様ですね。何かお悩みでも?」

 「あ、いや、その……」

 さすがジャックだ。剣心がぶれている原因も、お見通しだった。しかしロイに抱いてはいけない気持ちを持て余しているなんて、言えるわけがない。イアンは代わりになんて言おうか考えあぐねた結果、

 「あ、そ、その……聖闘技祭せいとうぎさいに出ないかと言われまして……」

 と別の悩みを出すことにした。一番の悩みではなかったが、聖闘技祭せいとうぎさいに出ることについて、ジャックに相談したいのは本当だった。

 「おお! ぜひ出場されたらいかがでしょうか?」

 「え?」

 イアンはさすがに止められると思っていた。最近は体力もついたとはいえ、まだジャックには敵わない。主人であるロイに恥をかかせないためにも、ジャックは反対するだろうと思っていたのに。

 「十分鍛錬されていますから。きっと素晴らしい成績を残せると思いますよ」

 「お、俺でもそう思いますか?」

 「ええ。イアンさんだからそう思うんです」

 優しい笑みに、久しぶりにあの問いかけが頭の中で響く。

 ——日陰に咲く紺瑠璃花ネイビー・ラピスラズリはかわいそうだろうか? 

 麗しい紺瑠璃花ネイビー・ラピスラズリが、前より自分と重なった気がする。勝手に限界を定めていたオメガの体が、想像を超えて馴染んできたからだろうか。

 「でも今の剣心ではだめですね。心に迷いが見られます」

 「そ、そうですよね……」

 ジャックの発言に紺瑠璃花ネイビー・ラピスラズリが離れる。内なる迷いを解決すればいい話なのだが、一人で悩んでいても答えが出ないことは、薄々気づいていた。

 (それならいっそ、相談してしまいたい……!)

 朝から思考を続け、疲労したイアンの脳は、ジャックに助けを求めることを許した。

 「あの、ロイに大事な話があるんです。でもそれを言ったら関係が崩れてしまうというか、言えないというか……でも伝えたくて」

 具体的な表現を避けて話すイアンに、なぜかジャックの目が憂いを帯びる。

 「そうですか……とうとう退職の話をされるのですね」

 「え?」

 「でもそれなら聖闘技祭せいとうぎさいに出てからはいかがでしょう? せっかくここまで鍛錬したのですし、今辞められてはもったいないかと」

 「あ、いや、その」

 と訂正しようとしたとき、ふとイアンは気づいた。

 元から運命の番を探すために近衛騎士を辞めるつもりだったのなら、告白して現状の関係が崩れても、辞めればいいだけだと。

 だとしたら……

 「うん。そうですね」

 すとんと納得するいい案が降ってきた。これなら理性の自分も、本能の自分も文句を言うまい。

 一人うんうんと確かめるように頷いていると、突然ジャックが「あ!」と言った。

 「そうです! イアン様にお声かけしたのは、もうロイ様を迎えにいく時間を過ぎていらっしゃったからなんです!」

 「え!? あ! 本当だ!」

 離宮の外壁にかけられた時計を見ると、予定の時刻を三十分も過ぎている。イアンは急いでレイピアを鞘に戻し、馬車へと駆けていった。






 「ご、ごめん! 急いだんだけど、出るのが遅くなっちゃって!」

 イアンが教授室についたのは指定の時間より一時間も後だった。日が沈みきった校内を走り、怒鳴られる覚悟をして扉を開けたが、ロイは静かに書類を見ているだけだった。

 「大丈夫だ。それよりお前が事故にあってなくてよかった」

 「え、あ、うん、俺は大丈夫」

 心配されるとは思っておらず、それだけでふわっと胸があたたかくなる。ロイはイアンのときめきに気づくわけもなく「帰るか」と言って、書類をかたし始めた。

 「あ、あの……」

 「ん? どうした?」

 イアンは真剣に話を聞いてもらうために、一呼吸置いてから声を絞り出す。

 「……俺、聖闘技祭せいとうぎさいに出ようと思って」

 「おお! いいじゃないか。お前なら絶対優勝できる」

 「そ、それはわからないけど……」

 「いや、お前なら大丈夫だろう」

 あたたかな胸の熱が、ぽっと増した。優勝できるとまで断言してくれるロイの期待に応えたい。忠誠心だけではないからこそ、強く感じた。

 「で、でね、もし俺が優勝できたら……ロイに聞いて欲しい話があるんだ」

 イアンは前を真っ直ぐ見据えて宣言する。ロイの瞳が一瞬大きく開かれて、すぐに伏せられた。何かを察したかのように。

 「……わかった」

 ロイが悲痛で顔を歪ませる。

 (きっと、退職の話だと思っているんだろうな……)

 イアンは騙しているようで心が痛んだ。けれど聖闘技祭せいとうぎさいで優勝して堂々とロイの隣に立てるまで、この思いは告げないと決めた。

 ——君が好きだ。

 黙っていられないほど咲きほこってしまった恋心を伝えたい。そのためなら、全てを捧げられる。

 (振られたら悲しいけれど……ここをやめて運命の番を探せばいいよね)

 すぐにそう、切り替えられるとは思えなかったが。

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