第18話

 五日後の夜は明かりが無くても歩けそうなほど、満月が輝く快晴だった。

 離宮の玄関を出るとかすかに肌寒かったが、イアンはいつものシャツにカーディガンで済ませた。

 「すまん。待たせた……ってお前その格好寒く無いのか?」

 ロイは黄水晶芒シトリンブランチが淡く照らすランプを持って玄関から出てくる。上にはダッフルコート、首にはマフラーを巻き、かなり防寒していた。

 「うん、我慢できるからいいかなって」

 「おい、風邪をひいたらどうする」

 ロイは首に巻いていたマフラーを外し、イアンに巻きつける。イアンはそんなことされたことなくて、どぎまぎしてしまった。

 「あ、ありがとう……あ、ランプ持つね」

 「いや、大丈夫だ。暗いから隣を歩け」

 黄水晶芒シトリンブランチのランプで足元を照らしながら、ロイはイアンの歩幅に合わせて歩いてくれる。

 少し前ならイアンが何も言わなくても、持てと言ってランプを押し付けていた。マフラーなんて、絶対に貸してくれなかっただろう。

 (……最近のロイはおかしい。優しいというか、我がままが減ったと言うか……)

 イアンはその態度が、少しだけこそばゆかった。

 「今日はあれに乗るぞ」

 ロイが歩みを止め、湖畔の桟橋を指差す。そこには木製のボートがとめてあった。

 「え? 本当に?」

 「ああ、そうだ」

 イアンは桟橋の先まで行き、まじまじと実物を見る。このボートに乗ったのは、五年以上前だ。大人の男二人を支えられるのか、耐久性に不安が残った。

 「このボートってまだ使えるの?」

 「安心しろ。この前しっかりと点検した」

 先に乗り込んだロイが手を差し出す。イアンはその手を握りながら、おそるおそる足を踏み入れた。ボートが揺れる。怖くなってロイの手を握る力が強くなるが、揺れはすぐに安定した。

 「よし、それじゃあ動くぞ」

 イアンが座ったのを確認すると、ロイはオールを手にとり、霧で何も見えない湖畔へと進んでいく。湖畔の上はひどく寒くて、イアンはマフラーをたぐりよせた。

 ボートがちょうど湖畔の中心あたりにきたときだ。ロイがコートのポケットから一枚の布を取り出した。

 「いまから大事な儀式を行う。失敗したら全部が木端みじんになるから、暴れるなよ?」

 「え!? そ、そんな怖いことするの!?」

 「ほぼ成功するから大丈夫……だと思う」

 ほぼっということは、少しでも失敗する可能性があるということだ。できればそんなことして欲しくない。イアンがそう文句を言う前に、ロイは布をボートの下に置き、

 《我、記されし地に向かいたもう。天の先に見えし……》

 と唱え始めた。

 「え、詠唱って、そんな大掛かりな!」

 イアンの心配をよそに、図形やら文字やらがたくさん書かれた布が光を放つ。

 《……南に下りし、遠きを見ん。我、魔素の大意なり》

 ロイが詠唱を終え、イアンは大きな衝撃がくるのではと身構えたが、布はパッと発光しただけ。何事もなく、体もボートも無事だった。

 「ロイ今のは何を——」

 と聞こうとしたとき、ふわっと、温かな空気が耳にあたった。

 先ほどまでの震えるような湖畔の冷気ではなく、かすかに花の香りを乗せた風が背中から吹いているようだ。

 ——後ろから何でこの匂いが? 

 不思議に思いイアンが振り向くと、ボートが動き出した。もやのかかっていた霧が晴れ、開けた視界の先には——

 紺瑠璃花ネイビー・ラピスラズリの群生が、星空に浮かんでいた。

 「えっ……え?」

 離宮の湖畔はどこにもない。あるのは見渡す限りの湿原と、紺瑠璃花ネイビー・ラピスラズリの澄み渡る紺青たち。晴れた夜空が湿原に反射して、まるで紺瑠璃花ネイビー・ラピスラズリが星々の中を漂っているようだった。

 この世のものとは思えない光景に、イアンは異界の扉を開いてしまったのかと錯覚する。

 「幻想の花国」

 後ろから聞こえてきた声に、体を元に戻す。

 「ガーテリアの別名さ。この景色を見ると、納得だよな」

 霧の中を抜けてきたはずなのに、ロイの後ろにも魔花まかが咲きほこっているのが見える。

 何がどうなっているのかわからず、イアンは開いた口が塞がらない。

 「ここは王立ミネルヴァ大学が所有する魔花まか自然公園だ……ちゃんと現実に存在する場所だから、安心しろ」

 おかしそうに笑うロイに、やっと抜けてた魂が戻ってきた。

 よく見ると、ロイはいつの間にかコートを脱ぎ首の空いたシャツ姿になっている。ここはガーテリアの南に位置しているのか、夜でも暖かい。イアンもマフラーを外し、首周りを楽にした。

 「さっきの布はここに来るためのものだったんだね」

 「ああ。学長から借りてきた」

 「……エルフの魔法陣はすごいね」

 「そうだな」

 会話を続けようか迷ったが、それよりも壮大な景色を眺めたい欲が勝った。ロイも無理に話そうとしない。

 ゆっくりとボートが湿原を進んでいく。

 怖いぐらい美しい夢幻の世界に、二人だけ取り残されてしまったかのようだった。

 「……ねぇ、覚えてる? ロイが十二歳ぐらいのころかな。メイドのマディおばさんがさ、ベータなのにロイのフェロモンに当てられちゃったときのこと」

 体の隅々に甘い紺瑠璃花ネイビー・ラピスラズリの香りが巡ったあたりで、イアンは口を開いた。

 決してボートは小さくなかったが、ロイの長い足が窮屈そうに収まっているのを見て、初めて乗ったときはそうでもなかったのに……と思ったのがきっかけだった。

 「ああ覚えてるさ、お前と一緒にボートに乗って池まで逃げたな」

 「そうそう。あのときは大変だったよね」

 マティおばさんだけじゃない。十代前半の美少年を狙う使用人は多かった。十一歳のときは家庭教師に服を脱がされ、十三歳のときは庭師の青年に雑木林へ連れ込まれそうになっていた。そういう下劣な考えを持つ悪人は、頭だけは回るため、ジャックのいない隙を狙ってやってくるのだ。

 イアンも王室専属の使用人に剣を振るうわけにもいかず、ロイを連れて毎日逃げ回っていた。いまはもうロイが全員追い出したおかげで、そんなことは無くなったのだけれど。

 「なんで……俺を守ってくれたんだ」

 「え?」

 「俺なんか守っても、お前に得は無かったはずだ。実際お前が来るまで、ジャック以外誰も守ってくれなかった」

 オールを漕ぐロイの顔には疑心の色が浮かんでいて、イアンが初めて会ったときに絡っていた、刺々しさを彷彿とさせる。

 ロイの言う通り、冷遇されている第三王子を真面目に守ったところで誰も評価はしてくれない。それよりも他の上級貴族へ媚を売って、御用を聞いた方が将来的にはいいだろう。

 「うーん、そうだなぁ」

 イアンは十三歳で騎士になった。その後すぐに第三王子の近衛騎士に配属にされ、当時は大変驚いた。普通、王室の近衛騎士には最高位騎士か、アルファの優秀な騎士がつくものだから。

 異例の大出世にイアンは喜んだが、周りの目は冷めたものだった。

 『ベータの癖に、技能試験でアルファの先輩騎士に勝ったからだ——』

 まことしやかに囁かれた噂は、随分後になってから知った。出る杭は打たれるのが騎士団本部。成績は良く、爵位も申し分ないイアンの扱いに困った結果、第三王子の近衛騎士に落ち着いたのだろう。

 しかし周囲の思惑など、イアンにはどうだって良かった。

 どこへ行っても凛と美しく前を向く。騎士として恥じぬ生き方をしたい。

 ただそれだけを信念に、ロイに付き従った。

 「俺は近衛騎士としての職務をまっとうしたかっただけだよ。それに……君に必要とされていることが、嬉しかったんだと思う」

 「嬉しかった?」

 改めてロイに問われ、イアンは気恥ずかしくなる。

 「ほら、ロイの護衛って俺一人しかいないし……いなくなったら大変かなと思って……」

 助けて欲しいと直接言われたことはない。最初のうちは『やめろっ!』という叫び声を聞いて駆けつけていた。それがだんだんとイアンの名前を呼ぶようになり、側にいろと言われ、徐々に必要とされることが増えた。主人との距離が近づく度に、近衛騎士としてもっと役に立ちたいと思うのは、当然の宿命だろう。

 「ま、俺の勘違いだとは……」

 「いや、お前は必要だ」

 ロイの装飾のない言葉に、心臓がどきりとする。

 「今も昔もこれからも……俺にはイアンが必要だ」

 いつの間にかボートは動きを止め、ロイがイアンを見つめている。嘘偽りない真っ直ぐな物言いは、愛の告白のようにも聞こえて——

 そういう意味で言ってるわけでない。イアンはわかっていたけれど、頬は否応なしに熱くなった。

 「そ、そうはいっても、君を助けていたのは昔の話だ。今は役には立たない……俺を近衛騎士として側に置いてくれるのは嬉しいけれど、あのときの恩はもう十分返してもらったよ……」

 勘違いしないように述べた戒めの言葉に、大きなため息が聞こえた。

 「恩ってお前……俺がお前を近衛騎士に置いてるのをそんな風に思ってたのか?」

 「え? 違うの?」

 「そんなわけあるか」

 まさかの事実に、イアンは驚く。ロイはその様子に、呆れているようだった。

 「じゃ、じゃあ……なんで俺を側に置いてるの?」

 「それは……」

 イアンの返しが意外だったのか、ロイは満月が映り込む水面を見ながらしばらく考えこむ。ぽつりと返ってきたのは

 「……研究したいと思ったからだよ」

 というなんともロイらしい答えだった。

 「あ、そっか……」

 イアンはすっかり忘れてた。ロイが研究にしか興味がないことを。その事実にどこか落胆していて、自分はなにを期待していたんだろう? という疑問が頭の中をよぎった。

 「そうだ。運命の番探しをやめる気にはなったか? 運命の番なんかいなくても、美しい景色を見て過ごすのは楽しいだろう?」

 「え、あ-……」

 イアンは頭の中の疑問を隅によせ、もう一度湿原を見渡す。たしかにロイの言う通り、運命の番がいなくても、幻想のような世界は心を震わせた。

 それでも思ってしまう。

 「楽しいけど……それって運命の番と見ても楽しいんじゃないかな」

 ここ一ヶ月、感じ続けていたことだ。今日の素晴らしい風景だって、見るのは楽しいだろうけど、一人では熱中できそうにはない。

 残念ながら今回も、いるとわかっている相手を探すのは、やめられそうにはしなかった。

 「そうかもしれないな」

 珍しく、運命の番を軽蔑しているロイが、イアンの意見に同意する。

 「運命の番と一緒ならより楽しいかもしれない。でも、そいつが魔花まかに興味が無かったら? お前の意志なんて無視して、体だけを求める最低なアルファだったら? ……きっと一生ここには来れないだろう」

 「そ、そんなこと」

 あるわけない……とは言い切れなかった。

 運命の番は発情期になった自分を離宮まで運んでくれた優しい人。それ以外イアンは何も知らない。すぐに番にしなかった理由も、イアンに会いに来ない事情も、いまだ謎に包まれたまま。

 悔しいことに、ロイの指摘は的を得ている。

 「……イアンにはそんな素性もわからないやつと、番になって欲しくない」

 ロイから聞こえてきたつぶやきに、イアンはえっと声が出そうになる。どうしてロイが自分の番相手に口を挟むのだろうと。それこそロイには関係ないことなのにと。

 「だ、だったら、どんな相手だったらいいの?」

 狼狽えるイアンに、なぜかロイは目を伏せる。

 「それは……イアンが……心から好きになったやつ」

 ——心から好きになったやつ? 

 「そ、そんなの……」

 なんてメルヘンな考え。

 ロイの可愛い思考に、初めてアルファを憎いと思った。

 「そんなの、選ぶ側の意見だ」

 イアンはうっと苦しくなるほど首をつかむ。指がチョーカーに食い込み、気道を狭めた。

 こんなのは八つ当たり。ロイは悪くない。そう頭では理解していても、話すことをやめられなかった。

 「ロイはアルファだから、そんなことが言えるんだ。でも俺は、子供も産めない、中途半端な体なんだよ? 誰も番になんて——」

 そのとき、ボートが大きく揺れた。

 「いま、子供を産めない……中途半端な体って言ったか?」

 首を締めていた手が、無理やりロイに引き剥がされる。跡になりそうな強い力に、イアンは目を見開いた。

 「ロ、ロイ、?」

 「おい、それは誰かに言われたのか!?」

 声にははっきりと怒気が孕んでいて、ビクッと体が震える。

 「そ、そういうわけじゃ……」

 嘘だった。

 実家に帰ったら、部屋で話している両親の声が聞こえた。

 大学の構内を歩いていたら、学生がすれ違いざまに囁いた。

 騎士団本部に行ったとき、団員たちが馬鹿にするように吐き捨てた。

 イアンは何度も、何度も、刺されたことがある。憐れみの声に混じった、毒の針に。

 「言われたんだな……お前はすぐ顔に出る」

 怒りは消え、悲しみに満ちたロイの顔に、イアンは動揺する。

 「あ、その」

 ロイは無言でイアンの頬に指を這わせた。何かを拭われる感覚に、イアンは初めて涙が出ていたことに気づく。

 「ご、ごめん、泣くつもりは」

 「違う。謝るな」

 不完全なイアンの体が、ロイに包み込まれた。とくとくと温かな鼓動がシャツ越しに伝わる。

 「俺はお前に怒ってるんじゃない。お前のことを、子供を産めるか産めないかで判断した、クズどもに腹が立ってるんだ。イアンのことを、何も知らないくせに!」

 背中に回された腕がぎゅうとしまる。

 「お前の瞳は……紺瑠璃花ネイビー・ラピスラズリに似ていて吸い込まれそうなほど綺麗だ」

 「……え?」

 突然の告白に、イアンは戸惑った。

 「……触るとふわふわの癖毛は、いつも手を伸ばしたくなる。ぱっと華やぐような笑顔。剣を握る凛々しい姿。凍てついた心を溶かす、暖かな声。どんな人間にでも手を伸ばす優しさは、誰にも真似できない」

 恥ずかしくなるほどの褒め言葉が、雨のごとく降ってくる。

 「たとえ子供が産めなくても、お前の番になりたいやつはたくさんいる。それぐらいお前は魅力的だ。だから……だから、誰も番にならないなんて、そんな悲しいことは言うな」

 毒に侵され萎びた心に、ロイの降らせる沛雨はいうが染み渡る。

 イアンの中で、何かがうねった。それはまるで、枯れかけの花が、新鮮な水を得て蘇るように。

 「……お前を傷つけるやつらより、俺の方がお前を知ってる。だから俺の言葉だけを信じろ。イアン、お前だって番う相手は選べる。フェロモンなんかじゃなく、お前が一生添い遂げたいと思う相手と番になれ。お前を一番に考えて、何よりも大事にしてくれる……そんなやつなら、俺は文句は言わない」

 ロイはイアンの背中を優しく撫でる。大切な物を扱うような手つきに、とうとう、イアンの口から嗚咽が溢れた。

 イアンは弱い部分を晒したくなくて、必死に抑える。けれど抑えようと思えば思うほど、しゃっくりはひどくなっていって。途中でやめた。

 (どうしてロイは……俺のことを……大事にできるの?)

 わからないことだらけだった。たくさんの褒め言葉も、いつから感じていたことなのか。それは本心ではなく、慰めるための優しさなのか。

 知りたいことも、考えたいことも沢山あった。けれどロイの手のひらが温かすぎて、イアンの思考はまとまらずに、流されていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る