第三章
第17話
研究室に行った翌日、ロイが大学にいる間、イアンはジャックへ相談を持ちかけていた。
「ジャックさん、俺に稽古をつけてくれませんか?」
「おや、どうされたのですか?」
離宮の庭でシーツを干すジャックが、首をかしげる。
「うーん、それがうまく言えないのですが……」
あれからイアンは自分なりに考えた。心に咲く
(それはきっと……厳しい環境で咲く姿に、性転換で不利になった体を、重ね合わせていたからだ)
同じように厳しいと思っていた世界は、彼女たちにとっては恵まれた場所だった。自分とは違う、だからうまく重ならないのだと気づいたとき……ロイの言葉が頭に蘇った。
『イアンには素晴らしい身体能力がある。この手はまだ……動くだろう?』
イアンは右手の甲に視線をやる。
……オメガの体は本当に厳しい環境なのだろうか?
……知識のない自分が勝手に諦めただけで、本気で向き合ったことがあっただろうか?
そう思うと、急に剣を握りたくなってしまった。
『頭で色々考えるより、試しに動かしてみたらいい』
ロイの言う通りだ。自分は
「いまある手足を、動かしてみることかなって……」
ぽろっと出た言葉に、ジャックの目がかすかに見開いた。
「あ、すみません。何を言ってるんだって」
「いえ、とても良いことだと思いますよ」
被せるように、ジャックは了承をしてくれる。その顔はいつもの柔和な笑顔より、少しだけ嬉しそうだった。
◇◆◇◆
それからというもの、イアンは忙しくなった。
朝は基礎運動、その後ロイを離宮から大学まで送り届け、戻ってくるとジャックの剣術指導。そして夕方、大学へロイを迎えにいく。
大変だったけれど、汗を流すのは気持ちがよかった。今の体は疲れやすいところが難点で、毎日死んだように眠ってる。けれど訓練すればするほど動けるようになっていき、辞めたいなんて発想は、ちっとも頭を掠めなかった。
「お前、最近顔が明るいな。鍛錬のおかげか?」
ロイがテーブルに落ちてきた
離宮の庭は一面黄色い絨毯になっていて、いくらはいても集めきれないと、ジャックが愚痴をこぼしていた。
「え? あー、うん。たしかにそうかも」
イアンはまだ温かいスコーンを半分に割りながら、曖昧に頷く。
「ま、体を動かすのは楽しいよな」
ふうとロイが
ロイはイアンを研究室に案内した日から、週末に一日だけ休みを取るようになった。その日はイアンを楽しませるんだと意気込んで。
どうせすぐに飽きるだろう。休みを取るなんて口だけだ。イアンはそう思っていたのだけれど、現実は異なった。
三週間前の週末は、
「おい! 今日はミートパイを食べる日だ。忘れたわけじゃないよな!?」
と言ってサクサクのミートパイを、二人で気持ち悪くなるほど食べた。
二週間前の週末は、
「イアン、今日は大学でピクニックをするぞ! お前外出るの好きだろ?」
と言って、大学内の芝生で日向ぼっこをしながら、くだらない話をたくさんした。
一週間前の週末は
「今日はテニスだな! 体を動かすのは楽しいはず!」
と言ってボールを追いかけていたら、いつの間にか日が沈んでいた。
そして今日は、
「離宮の庭でアフタヌーンティーだ! 紅茶とスコーンが嫌いなガーテリア民はいない!」
と言い、外にテーブルと椅子を出して、優雅にお茶会をしている。
毎回「お前が楽しみそうなのがこれしか思いつかない……」と悔しそうに言われるが、イアンは高い買い物をするより、高級な食事をしに行くより、ロイとたわいもない話をして、何気ない日常を過ごす方が心地よかった。
一方で、最近よく聞かれる質問に、答えるのが苦しくなっている。
「ところで運命の番と生きるより楽しいことは、見つかったか?」
「えーっと……」
イアンは『見つかったよ』と言いたかった。ここまで自分を楽しませようと苦心してくれているのに、つまらないと言っているようで心が辛い。けれど運命の番探しをやめる気にはなれなかった。
なぜなら、ロイと過ごす楽しい日々は、運命の相手でもできてしまうから。
一人で極めたいと思えるものが見つかれば別なのだが……テニスもピクニックも美味しい料理も、その域には達していなかった。
イアンはなんて答えようかと悩んだ末に
「ロイには申し訳ないけど、まだ見つかってないかな……」
と先週と同じ文言を繰り返すほかなかった。
「そうか……」
ロイは眉間に皺を寄せて、金の細工がされたティーカップに口をつける。
——なんでそこまでして、運命の番探しをやめさせたいの?
ロイが運命の番を軽蔑している理由は、未だわからずじまい。聞いてしまったら、週末の楽しい時間が無くなってしまいそうで、あと一歩を踏み出せずにいる。
「まあそれはいい……見つからないのなら仕方ない。それよりも鍛錬はどうだ? あれから毎日やってるんだろう?」
「え? あ、うん。前のようには行かないけど、順調だよ」
まだ温かい紅茶を飲みながら、イアンは答える。鼻腔に爽やかな花の香りが抜けた。
イアンは自分でも驚いていた。オメガの体が想定よりも動けることに。
ベータのときより上達は遅かった。しかしジャックの教え方がうまく、オメガ特有の柔らかい体が馴染んできたところだ。レイピアもだいぶ振れるようになり「イアンさんは適応能力が高いですね」と褒めてもらえるほどになった。
(もっと鍛錬すれば、
もしそうなれたら、再び心の彼女と自分が、うまく重なる気がする。イアンに確証はなかったけれど、一か月前よりは、憧れの花に近づいた実感があった。
「よかったな。お前はやっぱり体を動かす方が合ってる」
「ロイが教えてくれたおかげだよ」
イアンはカップをテーブルに戻し、右手の甲をちらっと見る。
『この手はもう動かないのか?』
あの言葉がなければ、剣は握っていなかっただろう。試しにでも動かしてみようと思えたのは。ロイのおかげだ。
「俺は何もしてない」
ぷいっとロイは顔を逸らし、
「ふふ、その照れ隠し、昔から……」
——昔から、変わっていないはずだった。
最初に目に入ったのは、横から見るとより長く感じるまつ毛。
次に鼻筋の通った輪郭が映り、最後に整った唇で止まる。
ふわりと右手の甲に感触がした。
イアンはどきっとして手を見ると、黄色い葉が一枚。上に重なってる。
あの日も花びらが落ちたかのような、微かな触れ方だった。なのにロイの大人びた顔が目に焼き付いて離れない。
いまもそうだ。ただのふとした表情なのに、何かが心臓をぞわりと撫でて——。
「そうだ、五日後の夜予定を空けておけ」
「え、あ、うん」
見つめていた顔が動いて、慌てて視線を外す。
五日後、五日後、五日後……
忘れないように頭で繰り返すけれど、イアンは跳ねる心臓に、意識が持っていかれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます