第二章
第9話
「はぁ……」
「おや、どうされたんですか? 昨日の怪我が痛むのですか?」
次の日の朝、離宮の食堂でイアンが朝食のベーコンエッグを口に運んでいたら、ジャックが入ってきた。
「いや、怪我は綺麗さっぱり治ってしまいました」
イアンは、ははっと乾いた笑いと死んだ目で返す。せっかく身を削ってまで退職しようとしているのに、上手くいかない現状が嫌になった。
「それはよかったではありませんか」
ジャックは笑みを返して、食堂の窓を開けようとする。片手には古びた水桶を持っており、昨日の
「すみません、ありがとうございます」
「いえいえ。また雨漏りですか?」
「はい、そうなんです。修繕はお願いしているのですが……」
十三歳で騎士になった際、ロイの住む離宮に居を移して早十年。
このひどい住環境が改善されたことは一度もなかった。
「相変わらず冷遇されてますね。うちのご主人様は」
王室というのはわかりやすい。離宮に住まわせるというのは、そういうことだ。
離宮のある宮廷は、南から北に上がるにつれ、外廷から内廷へと建物が変わっていく。最南端の正門から入り、西に政務官が務める省庁本部。東に王国の軍部がある騎士団本部。目の前に王の謁見の間と執務室がある
しかし、離宮があるのは庭園を途中で西に曲がり、雑木林を抜け、小川を渡った先。
元は流行病の者が出た時に隔離するために作られた、小ぢんまりとした屋敷だ。雨漏りがひどく、じめっとしているし、冬は寒くて凍えそうになる。
その中でもいいところを探すとするならば、季節毎に景色を変える湖畔のある庭ぐらいなもの。
「ロイ様は、頑張っていらっしゃるのですが……」
ジャックの瞳が悲しみを帯びる。
「そうですね……」
ロイの亡くなった母親の代から仕えているジャックの心境を思うと、イアンは何も言えなくなってしまう。
ガーテリア王国には既に優秀な王子が二人いる。ロイより七個年上の、双子の兄たち。一人は文官として秀でた政策を進める王太子レオ。もう一人は武官として騎士団長の座につく第二王子ノア。
ロイにはもう席が無い。しかも妾の子ならなおさらだ。
生まれた子がアルファだから一応置いているが、いなくなってもかまわない。ロイは物心ついた時から、必要とされていなかった。
「でも、ロイ様はご自身の境遇をあまり気にしてなさらないのが、唯一の救いです」
ジャックが、悲嘆を紛らわすように微笑む。イアンもその意見には賛同だった。
ロイは王室へ媚を売っても無駄だとわかると、
予算が回されなくなっても、教授としての給与が新たにできた。住居は王室のものなので勝手に修繕できないが、居を移すことは簡単ではないので、現在も住み続けている。
「俺は気にしなさすぎだと思いますけどね」
イアンは笑って答える。
ロイの逆境にめげず生きる姿は、憧れの花に似ている。我がままだけど、良くも悪くも周りからの評価を気にしない。孤高の狼のような威厳は、他の王族にはない美しさだ。
「ふふっ、そうかもしれませんね……そういえば、イアン様は何かお悩みでも? 先ほどため息をつかれていらっしゃったので」
「え? あ、ああ」
ジャックの質問に、イアンは昨日のことを思い出す。
「ロイに退職の話をしたんですが、聞き入れてもらえなくて」
「運命の番を探すという話ですか?」
「ええ……やっぱりあの日俺を運んでくれた人の顔は思い出せませんか?」
「……申し訳ございません。目深にフードを被っていましたから」
ジャックはイアンから目を逸らして答える。
「そうですよね……他に見たって人も?」
「聞いてはおりませんね。あの日は定例会議と軍事演習が重なっていましたし……他と予定が異なる近衛騎士以外は、修練場にいらっしゃらなかったでしょう」
「ですよね……」
イアンはあれから何度か騎士団本部へ行ったが、同じ匂いのアルファは出会えずじまいだった。相手が抑制剤を飲んでいたら匂いはしないかもしれないが、アルファで抑制剤を飲む人間はロイ以外聞いたことない。
すぐにわかるだろうと思っていた運命の番探しは、意外と難航した。
そのうち本部の団員たちに絡まれるのが嫌になり、イアンは騎士団本部へ行くのをやめてしまった。
「なかなかどうも、うまく行かないですね」
「そう、ですね……」
二人は静かに、食堂の窓から外を見る。
雑多な木々に囲まれた湖畔が、そよ風で波打っていた。
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