第6話

 くせっ毛の丸っこい後頭部が部屋から出ていったのを、視界の隅に確認してからロイは顔を上げた。

 「ここが限界か」

 「うーん、そうだね。いくら結晶を入れても性転換値を超えないんだよ」

 「そうだよな……」

 『でももう、近衛騎士は限界だ!』

 ロイはイアンの悲痛な顔が頭から離れない。剣を握るのが楽しいとさえ言っていたのに。まさか、あんなことを言うなんて思ってもいなかった。もし、オメガになってしまったせいだとしたら……早くベータに戻す方法を見つけなければならない。

 「やはり、俺のフェロモンが」

 「何回も言ってるけど、君のフェロモンだけじゃ説明がつかないことだらけなんだ。イアン君がオメガよりのベータだった可能性もあるし、まだ不確定なことを決まったことのように言っちゃだめだよ」

 「……すまん」

 オリヴァーは慰める気なんて無かったとしても、ロイは少しだけ罪悪感が薄れた。

 しかしそれは薄れるだけで、あの日から消えることはない。



 ◇◆◇◆◇



 二年前の冬。初雪が降った日に、ロイは運命の番に出会った。

 そして、一生消えない傷を心に植え付けた。

 あの日はイアンの誕生日。ロイはイアンに内緒で、大学の講義を早めに抜けてきた。いつもは迎えにきてもらっているぶん、今日は自分が迎えに行ってやろうと思ったのだ。イアンの驚く顔を見るために、ちょっとしたプレゼントも用意して。

 ——、胸に秘めた思いは隠し通すつもりだった。

 ジャックが手はず通り離宮から迎えにきたので、そのままイアンがいる修練場に迎えに行った。けれどその日は修練場にはおらず、倉庫の方が空いていたから中を覗いてみたのだ。暗闇の中、見慣れた栗毛を視界にとらえたとき——理性を飛ばす甘やかな香りに目がくらんだ。

 「うそ……だろ……!」 

 運命の番に、支配される。

 契りを結べ。

 うなじに愛を。

 ガンガンと鳴る本能の叫びに促されるまま、震えるイアンを押し倒した。まぎれもなく自分がやったはずなのに、記憶があやふやなのが、ひどく恐ろしかった。

 『なんで……どうして……?』

 イアンは怯え切っていた。吸い込まれそうな深青の瞳に光はなく、恐怖に満ちた声に、本能が止まった。

 晴れるような、笑顔が好きだ。

 剣を握る凛々しい容貌は、ずっと見ていたい。

 でも、恐ろしさに歪む姿は嫌だ……! 

 ロイはわずかに残る理性を手繰り寄せ、万が一の時のために持ち歩いていた強い抑制剤をイアンに飲ませた。ジャックの名を叫び、彼が来るまで己の中で目覚めた獣と戦った。

 たった数分だったように思う。

 数分だったけれど、今でも手が震えるほど恐ろしかった。あの時ジャックがいなかったら。抑制剤を持っていなかったら。

 ——イアンを無理やり自分のものにしていたら

 二十一歳の誕生日に渡すはずだったプレゼントは、うなじを守るチョーカーに変わった。全部が全部、自分のせいではないとわかっていている。それでも、己の中に眠る獣がいつか目覚めるのではないかと、恐怖に怯える毎日だった。

 ロイがイアンを元に戻す研究にのめりこんだのは、内なる獣から目を背けるためだ。しかし研究の末に、己の強すぎるフェロモンが性転換のきっかけだと知ったときは、さすがに罪悪感で死にそうになった。

 あと一歩で思いとどまったのは、死んでもイアンはベータに戻らないと気づいたから。

 「なんで……どうして……?」

 ジャックが言うには、押し倒しただけで、強姦まではいってないという。でもイアンの怯えた顔はロイを苦しめ、『お前は犯罪者だ』と糾弾した。

 ロイの中で自責の念が消えることはない。いくら洗っても落ちない、黒いインク染みのように。

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