第5話

 息を切らし、悪態をつきながら、やっと目的地である《ロイ・ガーテリア教授》と金のプレートがかけられた扉の前に立った。

 ちょっと前までなら気軽にノックできたのに、今では回を追うごとに憂鬱になっている。気が重いと思いながらも、イアンはこんこんと扉を叩いた。

 「イアンです。中に入っても?」

 「ああ」

 無愛想な声はいつもと変わらない。

 (特別機嫌が悪いわけじゃなくてよかった……)

 イアンはパンツのポケットから封筒を取り出し、扉を開ける。

 部屋は本や資料で埋め尽くされてひどく汚い。窓の桟には埃が厚くつもり、長らく掃除されていないことが伺える。イアンは紙を踏まないよう慎重に足を運びながら、部屋の主がいるデスクへと向かった。

 「イアン、迎えにはまだ二十分も早いぞ」

 よほど面白い記事なのか、ロイは書類から目を離さない。

 イアンはわざと彼の言葉を無視して、デスク前の唯一床が見える場所に足を滑り込ませた。

 「おい、お前……その頬どうした」

 返事が無いことを不審に思ったロイが、やっと顔をあげる。

 身だしなみより研究を選ぶせいで、せっかくの綺麗な黒髪は無造作に束ねられ、輝きのあった瞳は睡眠不足で濁っている。白衣もよれよれで、いつ洗ったのか不明だ。

 そんな汚いなりでも世間一般より美男子なのは、ロイの生まれ持った遺伝子のせいか、普通の人より強いアルファの性がそうさせるのか。

 なんにせよ、得な顔だなとイアンは思った。

 「ロイ・ガーテリア第三王子殿下。この度は大事なお話があって伺いました」

 急に胸の前で敬礼し始めたイアンを、ロイはぽかんと口を開けて見つめる。

 「一身上の都合により、今月いっぱいで」

 「やめろやめろ!! なんだ、その気持ち悪い言い方は!! ここには俺とお前しかいないんだぞ!」 

 せっかく丁寧にお願いしようとしているのに、イアンは『気持ち悪い』という言葉に腹が立つ。

 「それは何回言っても君が退職届を受け取ってくれないからだろう!?」

 怒りに任せて握りしめていた退職届を投げる。顔面に向けてなかなかの速さで投げたのに、運動をしてないはずのロイは軽々と封筒をキャッチした。そういう些細なところに能力差を感じて、イアンはむなしくなる。

 「おい! だからって投げなくてもいいだろ!?」

 「じゃあ受け取ってよ!」 

 「それは嫌だ!」 

 側に仕えて十年。相変わらずの暴君ぶりに呆れてしまう。ここ数週間毎日こんな感じだった。門前払いと怒鳴り合いの日々。これ以上長引かせて、関係が悪化するのは避けたかった。

 「なんでそんなに嫌なんだよ……俺が辞めてもジャックさんがいるじゃないか!」 

 ジャックは執事だが、騎士団から師範を頼まれるくらいには剣が立つ。白髪混じりの長髪と、口髭を立派に生やした小柄な体躯は、騎士団員で知らない人間はいないだろう。そもそも何で彼がいるのに、自分を近衛騎士として側に置き続けているのか、意味がわからなかった。

 「忘れたのか? お前は研究対象だ。いなくなったら困る」

 「だから呼ばれたら来るよ! どんなことも協力する!」 

 「じゃあ、別に辞める必要は無いだろう!」 

 「でももう、近衛騎士は限界だ!」 

 心からの叫びに、ロイの目が見開く。

 「この体になって二年。今はまだ君を守れるけど、この先はわからない」

 近衛騎士は王族一人に対して専属でつく護衛だ。騎士なら誰もが憧れる要職であり、その分責任も重い。オメガになってから、日に日に筋力が落ちているイアンには、不相応と思えてしかたがなかった。

 「だから潔く、近衛騎士は辞めたい」

 ——置かれた場所を嘆く暇があるのなら、凛と美しく咲くわ。

 イアンの脳裏に、憧れの麗しい姿が映る。

 きっと彼女なら、ベータの生活に未練たらしくすがらない。何をしてもあの頃には戻れないのだ。ならオメガとしての幸せを、享受したい。

 清々しい顔で言うイアンとは対照的に、ロイは苦虫を噛み潰しような表情をする。

 「……エバンズ伯爵家は許さないだろ」

 「実家にはちゃんと言ってきた……勘当されちゃったけど」

 頬のガーゼを触りながら、イアンは苦笑いをする。

 近衛騎士を辞めるなんて外聞としては最悪だ。元から家族の関係を断つ覚悟はしていた。

 「お前、そこまでして……」

 「あとは君の許可だけなんだ……ロイには本当に感謝してる。だからせめて、円満に辞めたい」

 オメガになって騎士団に居場所が無くなったとき、ロイにまで見放されていたらと思うとゾッとする。実家で肩身の狭い思いをするか、路頭に迷っているか。どちらにせよ、イアンには耐えられなかった。性転換直後の体と心が乖離かいりしかけていた時期なんて、特にそうだ。

 ロイがそばにいたから、無理にでも日常を過ごせた。心は嵐のように荒れていても、住む場所と周りの関係だけは安定していた。そのことが、どれだけ有り難かったか。

 けれど凄惨な嵐もずっとは続かない。二年という歳月は徐々にオメガの体を受け入れさせ、イアンにできることとできないことを判別させた。

 いつまでもロイの厚意に世話になるわけにはいかない。役に立たないと知りながらも近衛騎士に留まることは、イアンにはできなかった。

 「……っ」

 ロイの瞳はぐらっと揺れる。何か考えるように額に手を当てると、しばらく黙ってしまった。

 お互い無言のまま、秋風だけが窓枠を震わせる。

 外の広葉樹が一枚二枚と葉を落とし、もうすぐ二桁になりそうなとき、ロイの声が部屋に響いた。

 「お前、騎士辞めて何するんだ?」

 「え?」

 「前までそんなこと言わなかっただろ? 急にどうした。何か理由があるのか?」

 「あーえっと」

 イアンは目を泳がせ、なんて答えようか考える。

 正直、ロイは馬鹿にしそうだから話したくなかった。そんな理由で辞めるのかと言われたら、傷つくのはわかっている。

 一方でここまでお世話になった相手に、嘘はつきたくないとも思った。イアンは元からごまかすのは上手くはない。下手なことをいってもバレるのは目に見えている。

 (それなら、ちゃんと話した方がいいよね……)

 イアンは一人頷き、口を開く。

 「その、気持ちの整理もついたし、もうそろそろ『運命の番』を探したいなって……」

 『運命の番』

 それはフェロモンが強く惹かれあってしまう番のことを言う。噂によると、オメガは相手のフェロモンを嗅いだだけで発情期ヒートになってしまい、手が震え始めるらしい。

 夢物語と言う意見もあるが、イアンには確信があった。二年前、自分を離宮に連れて来てくれた謎の人物。きっとあの人は——

 「……だめだ」

 「え?」

 「『運命の番』だけは、絶対にだめだっ!」 

 空気がビリッと割れた。聞いたこともない怒号に目を見張る。

 「そ、そんな」

 「だって……だって、運命の番だなんて……フェロモンに抗えない獣みたいな関係だ!」

 ロイは紅玉の瞳を震わせ、叫び声をあげる。冷静さを欠いたその表情は、恐ろしい怪物に怯える子供のようだ。

 「そ、そこまで言わなくてもいいだろ!?」

 イアンは今し方聞こえてきたとんでもない極論に、耳を疑う。けれどロイは、なおも声を荒げる。

 「じゃあ! 運命の番なら強姦してもいいって言うのか!?」

 「そ、そうは言って無いじゃん!」 

 「でも同じだろ!? フェロモンに惑わされて、相手の合意を得ずに番にする。そんなの強姦と同じだ!!」

 バンッ! とデスクを叩く音に、イアンは身がすくむ。

 (ど、どうしてそこまで怒ってるの……!?)

 「そんなのいない」と一蹴するならまだわかる。しかしロイの反応は『運命の番』を拒絶しているように見えて——

 心の中の紺瑠璃花ネイビー・ラピスラズリが……萎んでいく。

 イアンは思い描いていた理想を野蛮だ犯罪だと言われて、怒りよりも悲しみの方が勝った。まさかここまでロイに反対されるなんて、考えてもいなかったのだ。

 「そ、そんな……」

 ショックで立ち尽くすイアンに、ロイはやっと周りが見えたようだ。はっとした後、気まずそうに目を伏せる。

 「……どうして運命の番なんか探すんだ。お前はもっと他に」

 「他にって……何?」

 イアンはすがるように言ってから、後悔した。こんな姿、ロイには見せたくなかった。

 「俺ね、これでも一生懸命考えたんだよ。オメガであることを受け入れて……楽しく生きていく方法を」

 「……」

 「……それが、運命の相手と番うことなんだ。だって、オメガの幸せって番うことでしょ?」

 あの日与えられたのは悲運なんかではない。そうイアンが思えたのは、初めて嗅いだフェロモンに、ふわりと温かく包まれたからだ。

 番がいれば孤独では無くなる。一生を添い遂げる相手ができる。そのときは、フェロモンの結びつきを感じれる体に感謝さえした。

 (……これが、オメガの幸せ)

 脳に焼印が刻まれた。時間が経っても、冷めない熱で。

 おかげでイアンはオメガの体を前向きに考えられた。番がいれば、幸せになれると信じられたから。でも子供も産めない中途半端な自分と、番になってくれる相手がいるとは思えなかった。フェロモンで結ばれた、運命の番を除いては。

 例えそれがロイの言うフェロモンに惑わされた野蛮な行為だとしても、イアンには運命の相手しかない。だからなおのこと悲しかった。ロイの言動は、生きる希望を否定したのと同じだ。

 ロイは黙り、顎に手をやる。こんな状況でもロイの仕草は様になっていて、アルファはつくづく恵まれた性だなと、イアンは羨んだ。

 沈黙が落ちる。重い空気が教授室を支配したが、さっきよりも早く、静寂な空間は終わりを迎えた。

 「じゃあ俺が、運命の相手と番うより楽しいことを教えてやる」

 「……は?」

 一瞬、何を言っているのか、イアンには本当にわからなかった。

 ——運命の相手と番うより楽しいことを教えてやる? 

 (え? ロイが? 俺に?)

 なんの冗談だろう。だって、ロイがそこまでする理由が見当たらないのだ。

 困惑するイアンをよそに、美しい赤い虹彩がきらりと輝く。

 「だってそうだろう? お前は運命の番と生きることが幸せだと勘違いしている。でもそれより楽しいことがあれば、運命の番探しなんて必要なくなるし、近衛騎士をやめなくて済む」

 「いや、騎士をやめるのはオメガとして職務に無理があるからで!」 

 「そういうところがダメなんだ。お前は視野が狭すぎる。どうしてオメガだからって番わないといけない。どうして騎士を続けられないと決めつける」

 「そ、そんなの、こんな体で君を守れるわけないだろう!?」

 イアンはだんだんと、話がおかしな方向へ進んでいくのを感じた。自分は近衛騎士を辞めたいだけだったのに。なのになぜ、ロイから『視野が狭い』など言われないといけないのだ。

 「俺は認めないぞ! お前が近衛騎士を辞めるなんて!」

 「な、なんでよ! 別に辞めても問題ないでしょ!」

 「『運命の番を探すため』なんて理由で辞めさせられるか!」 

 「理由なんて、君に関係なんじゃん!」 

 ——ドンドンッ! ガチャッ! 

 ヒートアップしていく会話を中断させたのは、荒々しいノックとロイの許可を得る前に開けられた扉の音。

 「お取込み中失礼するね〜ロイ急ぎの用件でさ」

 瓶底のような分厚いレンズのメガネをかけ、ブロンドヘアーを短く刈り込んだ大柄な青年が、ずかずかとロイのデスク前へやってくる。

 「おいオリヴァー、それじゃノックの意味がないだろ」

 オリヴァーと呼ばれた青年は、ロイの苛立った言葉を無視して「あれ? 今日はお迎え早いんだ」とイアンの隣に並んで言った。

 「あ、オリヴァーさん。今日は用事があって……」

 「そうなんだ! 奇遇だね。僕もロイに用事があって来たんだ」

 えへへと笑うオリヴァーに、イアンも釣られて笑顔を返す。

 オリヴァーについてイアンが知っているのは、ベータでありながら優秀な研究者で、ロイの「敬語を使うな」と言う言葉を有言実行できる神経の図太い人間だ、ということぐらい。

 彼は魔花まかのことにしか興味が無く、イアンのチョーカーを見ても「それどこの製品?」「抑制剤の配合割合は?」と終始一徹、憐れむような態度はしなかった。そういうところが、イアンは好きだった。

 「オリヴァー、話は後に」

 「ああー! いいのかなそんなこと言って! 緑柱茎ベリリウムヨウ生体実験結果が出たのに!」 

 「なにっ!? 本当か!」 

 イアンには何の実験か全くわからないが、ロイはオリヴァーから受け取った紙束を食い入るように読む。

 「イアン、さっきの話は明日する。今日は先に離宮に帰れ」

 「えっ! ちょ、ちょっと!!」

 「今日は大学に泊まる。だから護衛は必要ない」

 王立ミネルヴァ大学は重要機密事項が多く、許可を得た者しか入れないように、特別な結界が敷かれている。ロイが護衛なしで自由に過ごせる場所でもあり、イアンもロイが学内にいる間は仕事がなかった。

 「で、でも、話は途中だし!」 

 「だから明日話すって言っただろう。あ、あとそこに新しい抑制剤置いておいたから、それを持って今日はさきに帰れ」

 ロイは山のような書類の上に置いてある紙袋をさして言う。

 お互いフェロモンの発生を抑える薬を飲み始めて二年だ。

 オメガは三ヶ月に一度『発情期ヒート』と呼ばれるフェロモンが活性化する時期がある。そのため、この国では魔花加工品まかかこうひんの抑制剤を飲むのが常識だ。しかし、アルファのロイは違う。普通のアルファは抑制剤なんて飲まずに済むのに、フェロモンの強いロイは、イアンとの接触事故を防ぐために毎日三回飲んでいる。

 昔は『まずいから絶対に飲まない!』って言い張ってたのに、今はイアンのせいで無理して飲んでいる。そのことを知っている分、イアンは抑制剤に関して、わずかに罪悪感があった。

 「う、うう……絶対明日退職の話するからね!」 

 話したくないという意思表示に加え、強く出れない話題を振られたら、深く追求する気持ちも削がれてしまった。

 イアンは明日の約束を取り付けると、大人しく紙袋を持って部屋から出て行った。

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