第37話 いつか途切れた夢の跡

 俺とユージーンはアンナたちと別れて、二人で森の中を進んだ。

 ユージーンは俺の頭上で、木々の枝を飛び移りながらするすると先へ行っては、太い枝の上など見つけやすい場所で立ち止まって俺が追いつくのを待った。予想していたことではあるが、彼女は道中ほとんど一言も喋らなかった。

「城の跡ってのは……ハァ、もう見えるのか?」

 小走りに進みながら、俺は木の上で遠くを見るユージーンに問いかける。ユージーンはこちらを見もせずに、小さく首を横に振ったかと思うと、さっさと次の木に飛び移っていった。それなりに親しくなった今でも、こいつのそっけないコミュニケーションには少し面食らう。悪気がないってことは、今ならわかってはいるが。

 それにしても普段以上に口数少なく見えるのは、ユージーンなりに緊張しているのだろうか。

 冬子は俺にとっては妹だが、彼女たちにとっては単に「未知の魔術師」だ。魔術師との戦いは、まだ相手の姿も見えないうちから始まっている。偵察だからといって、向こうが手加減してくれるわけじゃない……冬子にも、そのつもりはないはずだ。


 やがて、俺の目にも森の風景に混じる石造りの廃墟が見え始めた。草の間に、土の下に。城下町にしてはまばらなので、宿場みたいなものがあったのだろうか。

 先へ進むほどそれらの姿は目立つようになった。大樹と見まごう、大きな柱。民家か何かがあったのであろう、建物の土台。砂塵騎士団が来るまで立ち入る者がいなかったせいか、思ったよりも原型をとどめている。

 まるでポンペイの廃墟みたいだ、と思った。違うのは、死体が一つも見当たらないこと。一国一城が滅んだのであれば、住民の骨なり服なり残っていてもいいはずだが、それらしい痕跡は何もない。

 ヴィバリーが語ったところだと、魔導師ウィザードアウラは国ごと「夢の中」に消えたという話だった。きっと本当に、街を残して人間だけが夢の中に消えてしまったってことなんだろう。そいつらは、今もあの夢の中の幻影城に住んでいるのかもしれない。

 そんなことを考えていると、木の上でずっとぴょんぴょん進んでいたユージーンの姿が、じっと動かなくなった。また追いつくのを待っているのかと思ったが、すぐ近くまで来ても動かない。

「どうした? 何か見つけたか?」

 声をかけると、その途端にひょいと俺のところまで降りてきた。

「……歩く」

「……なんで」

 なんとなく、ユージーンに合わせてぽつりと尋ねる俺。このまま一緒に行動してると、そのうち二人とも単語で会話するようになりそうだ。

「この先……目立つ、から」

 たどたどしくそう答えて、ユージーンはスタスタと先へ歩き出した。

 後について歩くと、俺もすぐにその意味を理解した。二本の大きな木の間をくぐり抜けた瞬間、視界に大きな廃都市の姿が現れた。濃緑の中にぽっかりと空いた灰色の穴の中心には、ほとんど崩れながらもなおその半身を高く天へと伸ばす美しい城砦の姿。

 ここから先の地面を満たすのは大樹の群れではなく、人の手が作った建物の残骸だ。苔むして蔦に覆われてはいるが、木の上のように枝葉で身を隠すわけにはいかない。冬子があの城砦のてっぺんにいるとしたら、見つからずに進むには地を這って、物陰に隠れながら進むしかないということだ。

「なるほどな……」

 すでに視界から消えていたユージーンの姿を探しつつ、俺はぽつりと一人でつぶやいた。


 無人の城下町に踏み込むと、一瞬ぞくっと背筋が冷えた。別に何かの予兆を感じ取ったわけじゃない。周囲の静けさの質が明らかに変わったので、驚いただけだ。

 今までいた「眠りの森」の中も、コララディの魔術の影響だったのか、動物の声もせず妙に静かな空間ではあった。しかし、この街はそれと明らかに違う。葉擦れの音も、風に枝が軋む音もない。一つの巨大な都しに、自分以外の生命の気配すら感じない。

 廃墟ってのは、どんな場所もこういう空虚さが漂うものではあろう。俺もガキの頃に、学校近くの廃ビルに肝試しで入ったことがある。ここは、その時感じた何とも言えない「空っぽ」を、何百倍にも広げたような場所だった。

 俺は崩れた小さな民家の中を通っていきながら、この全ての風景と、夢で見た幻影城との落差に一抹の寂しさを感じた。

 あの世界はめちゃくちゃではあったが、行き交う人々は妙なエネルギーに満ちていた。通りすがりのおっさんも、空を飛んだり別人になったりやりたい放題だった。コララディも確か言っていた……あの場所は、夢みるものの場所なのだと。

 では、ここに残された廃墟は何なのか? 夢が遠く飛び去った後に、取り残された現実。この街を夢の世界に移設したアウラはもしかすると、この世界に見切りをつけたのかもしれない。ここでは、彼女のみる夢は永遠に叶うことはないのだと。

「……トーゴ」

「うわっ!?」

 突然、耳元で名前をささやかれて、俺は思わず大声をあげて飛びすさった。

「…………」

 声の主のユージーンは、天井にぶらんとぶら下がってこちらをじっと見ていた。よく見ると、天井の石材に左手の指をめりこませて、力づくで重力に逆らっているようだ。怖い。

「こっち。塔がある」

 そう言うと、ユージーンはひょいと床に降りて、俺を先導して歩き出した。


 民家の崩れた壁から外に出ると、ユージーンは遠くに見える尖塔を指差した。

「あそこからなら、城を上から見られそうだな」

 俺の言葉に小さくうなづいて、ユージーンはまた歩き出す。今度は俺の視界から消えないように、ゆっくり進もうとしているのが見て取れる。……引率されてるみたいで情けないが、その通りなのだから仕方ない。

「……悪いな、さっき大声出しちまって。あれ、結構響いたよな? 冬子に見つかったと思うか?」

「大丈夫……多分」

 ユージーンは前を向いたまま答える。

「声、街に吸われて消えた」

 きっと建物が吸収してくれたとか、そういう意味なんだろうが……ユージーンの妙に詩的な言い回しのせいで、俺は自分の声がこの街の空虚に呑まれてしまったかのような、嫌な幻想を頭に浮かべてしまった。


 ――嫌な場所だ。こんなところで、冬子は本当に暮らしているのか。

 ユージーンの後ろをとぼとぼ歩きながら、あいつの夢のことを考えた。子供の頃、あいつが話してた夢は「魔法使いになりたい」だった。中学に上がってからは、恥ずかしくなったのか言わなくなってしまったけれど。今、すでにその夢を叶えてしまった後に、あいつは何を夢みているのだろう。

 子供の頃とは違う新しい夢を、篭っていた小さな部屋で見つけていたのだろうか。だとしても、それは――俺が一度、あのナイフで断ち切ってしまったのだが。

「ユージーン」

 名前を呼ぶと、ユージーンは見慣れたきょとんとした顔でこちらを振り返った。

「お前は、夢を見たりするか?」

 俺の問いかけに、ユージーンは珍しく少し考え込んだ。それから、言いにくそうに視線を逸らしながら、少しずつ言葉をこぼしていった。

「……ときどき。暗い場所……一人でいる」

「そうか……」

 思ったより重い答えが返ってきて、俺は返す言葉を探した。

「そりゃ……やな夢だな」

 いや、もっといいこと言えるだろ。とは思いつつ、とりあえず無難なことを言う。

「うん……」

 ユージーンはうつむいて、地面をじっと見つめてから、もう一度俺を見て言った。

「一人は、いや」

 彼女が俺を見るその目に、覚えがあった。すがるような目。何かを期待されているのに、俺はそれが何なのかわからない。

 ――いや、本当はわかってるんだ。言葉だけ聞いたってわかるじゃないか。こいつが怖がるものを、遠ざけてやると言えばいい。そうはさせないって。それだけでいいのに……俺はその重さを、背負うことが怖いのだ。今も、昔も。

「……アンナたちがいるだろ」

 俺もいる、と言えなかったことをユージーンが気付いていたかは知らない。

 彼女はただ、言わなくてもわかってるとでも言いたげに微笑んで、ひたひたと軽い足音を立てながら無人の路地裏を元気に駆けていった。



 ユージーンに先導されながら城下町を先へ進むと、遠くに見えた城砦の大きさが徐々に肌で感じられるようになってきた。……デカい。相当デカい。測ったわけじゃないが、東京タワーよりデカい気がする。それとも、迫力に圧されてそう見えているだけなのか。

 部分部分の意匠は当然ながら西洋風なのだが、全体の構造はどことなく日本の城を思わせる。下半分は外敵を防ぐためか、のっぺりと隙間なく積まれた無骨な石壁に包まれ、遠く高みに見える上半分は凝った意匠の壮麗な作りになっているようだ。霧がかかったように霞んでいて、細かい造形までは見えないが。

 記憶の中にうっすらと残る幻影城の姿と、印象は似ている。だが、見るものによって変わるらしい夢の中の城と比べるのは無意味なことなのかもしれない。

 ――あの中に、冬子がいるのか。

 あんな寒そうな場所で何をしているのか、想像もつかない。俺の姿を見下ろしてくすくす笑っているのかもしれない。あるいはじっと毛布にくるまって、孤独に震えているのかもしれない。どちらも冬子らしい気がする。


 風のない街は、その空虚さがどこか懐かしくて、何も考えずにいられた子供の頃を思い出させた。

 仕事で留守がちな母親のいない間、小さなマンションの部屋はこんな風に、ある種の聖域だったのかもしれない。どこへも行けない閉塞感は、どこへも行かなくていい救いでもあって。俺と冬子はただ無邪気に夢をみていられた。その夢が正反対だったとしても、俺たちは敵同士にはならなかった。

 あの頃、俺は早く大人になりたくて、妹はずっと子供でありたかった。そのどちらも叶わないことが露わになった時に、俺たちは二人とも壊れてしまったのかもしれない。


「トーゴ」

 名前を呼ばれて、俺は物思いから覚めて顔を上げた。すると、視界いっぱいに高く伸びる尖塔の姿が、いつの間にかもう道ひとつ挟んだすぐ向かいにあった。足元ばかり見て歩いていると、こんなデカいものすら見落としてしまうというわけだ。

「上」

 短くそう言って、ユージーンはさっと塔の中に姿を消した。先行していくから追いついてこいってことか。塔の高さを眺めてため息をつきながら、俺は煤けた空間に踏み込んでいった。


 螺旋状に伸びる石造りの階段を、最初は真っ暗闇を手探りで登らなければならなかった。だが、上に行くにつれて徐々に外壁の崩れた場所から光が漏れてくるようになった。これだけ高さのある塔で、壁が崩れているってのはどことなく不安な要素ではあるが。とりあえず、俺たちが降りるまでの間は崩れ落ちないでいて欲しいものだ。

 階段は果てしなく思えるほどに長かった。あの大きな城を上から見下ろせるほどの塔なのだから、当たり前のことではあるが。

 中程まで登ったあたりで、両足が重くなってきたので座って休んだ。触ってみると、ふくらはぎがパンパンだった。もしも痛みがあったら、とっくにのたうちまわっていただろう。気づかないうちに足を傷めて、うっかり階段を踏み外しでもしたら、一体どれだけ転げ落ちることになるのか。

 痛みがないのも困ったものだ。多少の傷ならそのうち塞がるだろうが、頭打って脳みそでも吹っ飛んだらどうなるかわかったもんじゃない。


 時間をかけてようやく登り切ると、暗闇に慣れた目にきつく刺さる空の青が飛び込んできた。同時に、ひゅっと一陣の風が吹く。一瞬ぐらついた俺を、ユージーンが力強い手でつかんで引き寄せる。

「危ない」

「すまん」

 ……やっぱり俺もこいつに影響されて、どんどん語彙が減ってきてるな。

 塔のてっぺんは、屋根が半分以上崩れて吹きっさらしになっていた。ユージーンは集中力を高めているのか、崩れた外壁に背中を預けてじっと虚空を見つめていた。俺はなんとなく近寄りがたくて、少し離れた場所に座り込む。

 転落しかけた瞬間はかなりビビったが、落ち着いて腰を下ろしてみると、風は実際そこまで強いわけでもなかった。

 深呼吸して、気持ちを落ち着ける。覚悟を決める――いや、やっぱりそんなの俺には無理だ。

 漫画やゲームなら、こういう場面で主人公はビシッと心を決めるんだろう。仲間との絆でトラウマ乗り越えたりしてさ。でも、俺はどうしたってそんなものにはなれない。家族殺しのトラウマは抱えたまま、心も頭もぐちゃぐちゃのまま、ただ誰かに言われるままに、目の前のことをこなすだけだ。どうにか、上手く収まることを祈りながら……。

「ユージーン」

「ん」

「お前は、もう見たのか?」

 俺が塔を登ってくる間、余裕で30分は過ぎたはずだ。目のいいユージーンなら、とっくに冬子の姿を見つけていないはずはない。

「ん」

 ユージーンは短く答えて、首を縦に振った。

「そうか……」

 俺が迷っているのに気づいてか、それともとっくに気づいていて、俺を気遣ってくれたのか。ユージーンは不意に立ち上がると、トコトコ歩いて俺の隣に腰掛けた。

「石、割れてる。三つ。てっぺん、左、右」

 急に変なことを言い出すユージーン。数秒かかって、こいつなりに見たものを説明しようとしてるんだと気づく。要するに、城の石壁が崩れてる場所が三つあったってことだ。

「……ああ」

「てっぺんが一番大きい。その下」

 ユージーンはぼーっとした表情のまま首を右に傾けて、どこか不思議そうな目で俺を見た。

「子供。黒い髪。眠ってる」

 どくん、と血が頭をめぐる。子供……あいつが、いるんだ。すぐそこに。

 一度はっきり顔を合わせた後でも、心のどこかでまだ現実だと思えていなかった。同じ空間に、同じ世界にあいつがいるってことを。でもユージーンの口からその存在を聞くと、途端に生々しく存在を感じざるを得なかった。

「眠ってる? 姿勢は?」

 ざわめく自分の心を落ち着かせるためにも、俺は冷静を装って淡々と尋ねた。ヴィバリーがどうしていつもあんなに冷めた顔ができるのか、最近少しわかってきたような気がする。騎士たるものの心得とは、すなわち嘘とごまかしだ。

「椅子の上……うずくまってる」

「……そうか」

 ごまかしは他人に対してだけじゃない。動じない人間になるには、自分にも嘘をつく必要がある。

 痛みのないこの体と同じだ。どれだけ傷だらけだって、気付かなければ平気なフリをして動いていられる。どれだけ頭の中がめちゃくちゃだって、全部フタをして心から消し去れば、冷静なフリをして話すことだってできる。

「距離はどれだけある? ヴィバリーに言われた通り、俺も目で確認したい」

 ユージーンは少し目を泳がせて考え込んでから、こくんとうなづいた。

「遠い。けど……見える。たぶん」

 自信なさげなのは、自分と他人の視力の違いがよくわかっていないせいだろう。俺はうなづき返して、なるべく不安を押し殺しながら立ち上がった。

 ――そう。これは仕事だ。やるべきこと。逃げられないこと。


 塔の崩れた壁からほんの少し身を乗り出して、俺は眼下の城壁を見た。

 ユージーンの言った通り、城まではかなり距離があった。城壁には確かに三つの穴があり、天井が崩れたらしい大きな穴は、城の中心かつ頂点……西洋の城でどう呼ぶかは知らないが、天守閣みたいな場所にあった。

 穴の底は薄暗かったが、俺は目を凝らして覗き込んだ。正直あいつの姿を見るのはまだ怖かったが、ここまで来たらもう見えないままの方が落ち着かない。見えない亡霊に怯えるよりも、早く正体を見てしまいたいような気持ち。

 そして――見つけた。

 不似合いに大きな玉座の上、黒い何かがうずくまっている。ぼさぼさの髪の色が制服の紺色と混じって、ころころした毛玉みたいだ。遠く米粒みたいな姿でも、はっきりとわかる。あれは妹の、冬子だ。


 俺はなんだか、吹き出してしまいそうだった。あまりにも見慣れた姿だったから。

 居眠りする時、床の上でもソファの上でも、子宮の中の赤ん坊みたいにうずくまる。それは小さい頃も、引きこもるようになってからも、たぶん唯一変わらなかったあいつの習性だ。無理な姿勢みたいなのになぜか妙に快適そうで、いつも真似しようとして俺は椅子から転げ落ちたものだ。


 そんな風に遠い記憶に引き戻されながら、あいつの姿を見るうちに……ようやく、じわじわと恐怖が湧いて出た。あいつがあまりにも、同じだったから。

 この異質な世界の中に、ぽつんと一人、あいつだけが「向こう」の世界のままだった。

 俺は服も変わり、剣を腰に差し、生き方も考え方もすっかりこっちに慣らされてきたというのに。

 あいつは何も変わっていない。セーラー服を着て、命の危険なんてどこにもないみたいに、無防備に眠っている。


 体を引いて後ろを見ると、ユージーンが弓に矢をつがえようとしていた。

「お前……っ!」

 思わず、口から声が出る。

 それからきょとんとするユージーンの顔を見て、冷静になる。こいつが冬子をいきなり殺しにかかるはずがない。そうする理由がない……俺たちの任務は冬子の魔術を調べることだ。

「…………」

 ユージーンは飼い主にいきなり理由もなく叱られた犬みたいに、困惑と自責を顔に浮かべて呆然としていた。何か間違ったことをした、と思っているんだろう。でも、何を間違ったのかはわからない。

 それも当たり前だ。こいつにとっては、魔術師は戦う相手……標的が俺の妹だってことも、そもそも兄妹って概念さえ理解してるかどうかわからない。

「……すまん、早とちりした。気にしなくていい。矢であいつの動きを牽制するってことか?」

 俺が早口でまくしたてると、ユージーンも気を取り直したのかコクンとうなづく。

「魔術師は……鈍い。獣と違う」

 ニブい、か。確かに冬子は運動音痴だが(俺もだが)、そういう意味じゃなさそうだ。

 たぶん危機察知能力が低いとか、そんなことだろう。超越した力を得たことで、よっぽどの危険じゃないと感じなくなってるとか……そういえばサヴラダルナやフードゥーディも、どこか常に浮世の外みたいな、周りを見えていない印象はあった。ローエングリンみたいなのは例外中の例外ってことか。

「どこを狙うんだ?」

「頭の横」

 あまりに平然と言うので、首のあたりがぞわっとする。

 ユージーンは信頼できる射手だ。それはわかってる。わかってるけど……嫌な気分だ。一度殺した人間が何を言うのかと自分でも思う。でも、そう思うとこまで含めて、どうにも嫌な気分なんだ。

「……そうか」

 絶対に当てるなよ、なんて念押しするのもユージーンに悪い気がして、言えなかった。妹の頭の横に矢を射るぞと言われて、そんな遠慮をしてしまう時点で兄失格なんだろうな。

 一人でそんなことを考えているうちに、ユージーンはその力強い細腕でぐんっと弦を引いた。剛弓がきしっと音を立ててたわみ、張り詰めたミスリルの糸が綺麗な直角を描く。

 無駄のないその姿勢に美しささえ感じながら、俺はその矢の先端と冬子の居場所を交互に見る。

 心臓の鼓動が早くなる。


 ――ほんの一瞬、よぎる思考。

(もし、今、あの矢で冬子が死んだら)

 考えてはいけないことだと思いながらも、そう感じてしまうことは自分でもどうにもできなかった。

(俺を責めるやつはもう誰もいなくなるのにな)

 あいつを殺せば俺の苦しみは終わる。最初に冬子を殺した時も、俺はそんなことを思っていたような気がする。今も同じ俺はこの頭の中にいて、どれだけそれを否定しようとしても、こうしてふっと心ない発想が浮かぶたびに思い知らされる。

 たとえ時間が経って、たとえ誰かに受け入れられて、たとえ誰かを助けて、たとえいつか聖人のように振舞えたとしても。俺という人間の根っこが、自分の身勝手のために妹を殺せる生き物であることは、一生拭い去れない事実なのだと。


 そして、矢が放たれる――そう思った瞬間。

 ばつん! と間近で花火のはじけるような音がした。

「つっ……」

 痛みがくるような予感がして、一瞬思わず声が出る。しかし、当然何も感じない。

 反射的に閉じたまぶたをゆっくり開くと、ユージーンがさっきとほとんど変わらぬ姿勢で弓を構えていた。ただし、そこには欠けているものがあった。

 弦だ。弓の弦がない。強く引きすぎて切れちまったのか?

「…………」

 ユージーンはどこか呆然とした顔で、手にした弓の上下を見た。丈夫なはずのミスリル銀糸は、上から三分の一くらいでぷつりと切れて弓の端にぶら下がっていた。……ちょっと間抜けな光景だ。

「大丈夫か?」

 怪我がありそうにも見えなかったが、社交辞令として一応聞いておく俺。ユージーンは足元の石床に落ちた矢を拾い上げて、無言でうなづいた。思わぬ失敗が自分でも気に入らないのか、不服そうに口を尖らせながら替えの弦糸を懐からするすると伸ばす。

 ユージーンが弓を張り直す間、俺は今の音で冬子が起きなかったかどうかをちらりと確かめる。見たところ、動きはない。また夢の中で幻影城にでもいるのだろうか。俺にはもう二度と確かめられないが。

「……もう一度」

 独り言のようにぽつりと言って、ユージーンはまた矢をつがえてきりりと引いた。見ている俺は二度目となるとさっきのような緊張感はなくなっていたが、ユージーンはさっきと全く同じように筋肉に緊張をめぐらせて、石像のように微動だにせず狙いをつける。

(これで……冬子の魔術がわかるのか?)

 あいつが使いそうな魔術を思い浮かべてみる。絶対無敵の引きこもりバリアとか? 昔、魔法使いになりたいとか言っていた頃、あいつはどんな魔法を思い浮かべていたんだっけか……炎とか氷とか、時間を止めるとか、欲しがりそうな魔法はいくらでも思いつくが、キスティニーの話じゃそのどれでもないということだった。この世界のバランスを壊すかもしれないとか……話がファンタジーすぎて、まるで実感がなかったが。冬子がそんな力を持っているのかどうかなんて、矢一本でわかるものだろうか。


 そんなことを考えていると――また、同じ音がした。


 ばつん!


 切れた弦がゆらりと揺れる。

 俺は起きたことの意味がわからず、その様子を見ながらぽかんとしていた。何かがおかしいと……得体の知れない胸騒ぎだけを感じながら。

「またかよ」

 ごまかすようにヘラヘラと笑って言う俺。

「……もう一度」

 ユージーンは固く強張った顔をしていた。こいつも同じ違和感を抱いている。でも、俺たちの誰もその答えを持っていない。ただ無言でもう一度、素早く弦を張り直し、矢をつがえる。

 結果は――


 ばつん!


 同じだった。

 ユージーンの顔が青ざめ、俺は口の中が乾いてくるのを感じた。

「おい……」

 俺の呼びかけに、ユージーンは体をすぼめて、ただ首を横に振った。

 ――怯えている。コララディの時とも違う。あの時でさえ、こいつは魔術の気配を感じ取っていた。今は何も感じていない。ただ、目の前で起きた事実だけがある。

「糸がボロくなってたのか?」

 再び、首を横に振るユージーン。

 冬子が、魔術で……弓の弦を切った? 眠ったままで?

 俺はだんだん恐ろしくなりながら、城の中の冬子の姿を確かめる。同じだ。うずくまって寝ている。狸寝入りなのか。いずれにしても、あいつはこっちを見ていない。

「……もう一度」

 そう呟くユージーンは、すでに弓を手放して注意深く身を低くかがめていた。冷静な狙撃者から、追い詰められた獣のような体勢に切り替えたようだ。

「何を……」

 質問を全部言い終える前に、ユージーンの手に握られた石が目に入った。弓がダメなら、人力でということか。アンナといい、この世界の騎士は投石が当たり前なんだろうか。

「……当てないでくれよ」

 ユージーンの好戦的な目つきを見て、今度は我慢できずに言った。ユージーンは当たり前のようにコクンとうなづき、かがめた姿勢から少しずつ体を前後に伸ばし、砲丸投げの選手のような体勢になる。

 きゅっと空気が圧縮されるような音とともに、石が放たれた。

 放たれた――はずだ。俺には目で追えなかったが。

 しかし、石は眼下の冬子のもとには届かなかった。代わりに、空中で血と羽がばっと飛び散るのが見えた。鳥か何かが運悪く横切ったらしい。

 ……「運悪く」? こんな的確なタイミングで? それを、ユージーンが気付かなかった?

 違う。それはない。ありえない。ありえないことが、さっきから立て続けに起きている。

「……!」

 ユージーンは喉に詰まったようなうめき声を出しながら、その異常さを確かめるように、素早くもう一度石を拾いあげる。だが、投げようとした瞬間、彼女の足元で石がわずかに崩れ、石は見当違いの方向へと飛んでいった。

「待て、やめろ。やめろ!」

 俺は声を張り上げた。このまま続けたら、何が起きる? どんな失敗が起きる? それで俺たちのどちらかが死なないと言い切れるのか。

「あ……ウ……」

 ユージーンは震える足で後ずさると、飛ぶようにして塔を駆け下りていった。もはや完全に、恐怖にとらわれた獣だ。無理もない。何が起きているのか……いや、何が起きているのかはわかる。わかるが、理解ができないのだ。

 相方が取り乱したおかげで少し冷静さを取り戻した俺は、ひとまず彼女が置いて行った弓を拾い上げた。俺も、戻らなくちゃいけない。説明できるかどうかはともかく、見るべきものは見た。

 崩れかけた階段を降りようとする直前、何気なく振り向いて――俺は冬子が、目を覚ましていることに気づいた。

 はるか遠い眼下、玉座にうずくまっていた黒い影はすでになく。冬子はたった一人、ぽつんと広間に立っていた。遠く、小さい姿のはずなのに、俺にはあいつの顔や表情までがありありと見えた。

 じっと両目を見開いて。眠りを邪魔されたことに怒るでもなく。ただ、無感情にこちらを見上げている。

 そこにあるのは、小さな失望だ。夢の中でもそうだった。俺に何か期待していたようなことを言って。何を期待していたかなんて言いもせずに。ただ、がっかりした顔で俺を見る。詰られて、責められる方がどれだけマシだったか。

(……俺に、どうして欲しい?)

 そんな言葉も、頭の中で問うだけだ。答えはわかっている。もう、あいつは俺に何も望んではいない。

 償いも、何もできやしない。全ては過去なんだ。失望ってのはそういうことだ。

 俺はその目から逃げるように、階段を駆け下りた。ユージーンとは違う理由で、俺は冬子が怖かった。

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