第38話 たった一人の魔女

「ハァ、ハァ……ッ、くそっ、くそ……」

 二段飛ばしで、転げるように塔を降りていく。

 冬子からは俺の姿が見えなくなったはずなのに、妙な焦りが心に生まれていた。なんらかの魔術であいつがまだ俺を見ているんじゃないか。さっきだって、きっと狸寝入りだったにせよ、あいつはずっと目を閉じていた。なのに、俺たちは――

「あッ」

 苔に足を取られて、危うく転びそうになる。崩れた壁の穴に手をかけてどうにか体を支えたが、このまま勢い任せに駆け下りれば、今度こそコケて頭をぶち砕いてしまうかもしれない。

 逸る心をおさえて、慎重に足を下ろそうとした俺は――手をかけていた石壁の裂け目から、滅びた城下町をちらりと見た。

 その風景には、どこか違和感があった。登ってきた時の静けさとは何かが違う。うっすらと……白い。

「霧……?」

 確かめるように呟いて、もう一度目を凝らす。不吉なざわめきが、胸に広がる。

 深い霧がはっきりと廃墟を覆っていた。徐々に濃く、徐々に近く。まるで生き物のように。

「やめろよ、畜生……」

 霧――この世界に来て、霧を見たのはたった一度きりだ。

 まさか……いや、あり得ないはず。あいつは、俺たちで殺したはずだ。息の根までは止められなくても、二度と元には戻らないとウィーゼルも言った。

 だが、同時にどこか確信めいたものもあった。さっきからまるで悪夢の中みたいに、起きること全てが俺たちを悪い状況に追い込もうとしている。最悪のことが起きるのは、むしろ必然なんじゃないかと。

 そんな結論に至った俺は、ペースを落とそうなんて考えをかなぐり捨て今まで以上に足を早めた。早く皆と合流しないと。せめて、ユージーンとは合流したい。一人ではあいつと向き合うどころか、逃げ切ることさえ無理だ。


 必死で駆け下り、最後には十段近い数をすっ飛ばして、俺はどさりと地面に倒れ込んだ。

「トーゴ! 遅い。こっちよ」

 そこに待っていたのはユージーンではなく、ヴィバリーだった。

「なんで……」

「話している暇はないわ。早く!」

 ヴィバリーは素早くこちらに駆け寄ると、差し伸べた片手でぐいと俺を引き起こした。

 階段から飛び降りた衝撃で転げ落ちた弓を慌てて拾い上げ、手を引かれるままに走り出す。すると、すぐに視界がさあっと白く染まり始めた。覚えのある恐怖が、足元から心臓まで昇ってくるのを感じる。そして総毛立つのと同時に、頭に血が回り出す。戦いの予感に、体が準備を始めている感覚だ。こっちに来たばかりの時は怯えるだけしかできなかったことを思うと、大した変化だ。

「この霧、やっぱり……?」

「わからない。わからないことだらけよ、今は」

 悔しげに言いながら、ヴィバリーは走り続ける。その余裕のない姿は、コララディの夜の中で見せた焦燥を思い出させる。しかし、少なくとも今のところ冷静さを失ってはいないようだ。

「あなたは? フユコの魔術はわかったの?」

 足を止めぬまま、ちらりとこちらを見て言う。

「わ……からない」

 俺は口ごもる。一言でうまく説明できる気がしなかった。俺とユージーンの身に起きたこと、今起きていることが、一体どんな魔術の結果なのか。

「でも、何かは見たのね」

 ヴィバリーは俺の煮え切らない反応を見て、鋭く核心を突く。

「……ああ」

「後で聞かせて。今はアンナのところまで戻るわ。火を焚いてるから」

「ユージーンは?」

「もう向こうにいる。うずくまって震えてるわ。あんな姿、初めて見る……」

 ヴィバリーの言い方は心配というよりは冷静に観察するような、どこか突き放した声だった。ユージーンやアンナのことはこいつなりに家族や仲間として見ているのだと思っていたが、俺が思っているよりはドライな感情なのかもしれない……何年も一緒にいる彼女たちの関係を、新参の俺がそうすぐに理解できるわけでもないのだろうが。

「もうすぐよ」

 ヴィバリーの声に前を見ると、霧の向こうに赤いものが見えた。火だ。

 そして、火に照らされて動く大柄な影が一つ。きっとアンナだろう。

「アンナ! ユージーンッ!」

 俺は声を張って二人を呼んだ。迷子の子供が親を見つけたような必死な感じが混じってしまったが、霧の中ではそれだけ心細くもなるものだ。アンナはぶんぶんと力強く手を振って合図し、その足下でユージーンらしき影もむくりと身を起こすのが見えた。

 だが、その時急に目の前がわっと白く染まった。頭の中で強烈な危険信号が鳴る。

(来る!)

 がなりたてる本能の声に押されて、俺は駆け出そうとする足を止め、腰の剣に手を伸ばす。

 だが剣を抜ききる前に、俺は背後から肩を掴まれ、ぐいっと地面に引っぱられていた。

「どけ!」

 ヴィバリーの声だ。乱暴な言い草だったが、抵抗せず引かれるまま倒れこむ。この状況で彼女がそう言うのなら、どいた方が生き残れるってことだ。

 俺の予感は正しかった。頭が地面にへばりつくや否や、頭上にごうっと突風が吹き抜けた。アンナの大鎚だ。

 白い壁のように厚くなっていた霧は、その風圧で綺麗に二つに分かれた。その瞬間を見逃さず、ヴィバリーは俺の腕をひっつかんで立ち上がった。彼女の足を引っ張らないように、俺も身を起こして必死で地面を蹴る。

 あと少し。駆けるヴィバリーの背中が遠のく。あと、ほんの数歩。

 俺の腕から手が離れ、ヴィバリーが先に霧を抜けて焚き火のそばへ滑り込むのが見える。


 俺も、あと一歩だけ大きく跳べば――そう思った瞬間に。

 ふっ……と眼前から霧が消えた。はっきりと見えた三人の顔は、俺の背後に向けて目を見開いていた。同時に、がくんと俺の足が止まる。つまづいたわけじゃない。何かが、俺の足首をがっしりと掴んだのだ。

 振り向くと、そこに手があった。空気にミルクでも溶かしたような真白い霧から、ぬっと生え出た同じ色の手。土に汚れた指先が、幹となるべき体もないのに、へし折れそうなほどの力で俺の足を掴んで引き止めている。

「……うあああぁッ!」

 思わず叫び声をあげ、振り払おうと体をよじるが、霧から生えた手は万力のように固定され微動だにしない。逆に俺の方がバランスを崩して、顔面から地面に倒れこむ羽目になった。土の味が口に入ってくるのを感じながら、必死に顔を上げ、前へ進もうともがく。

「トーゴッ!」

 体勢を整えたヴィバリーが、俺の名を呼びながら、こちらに突進するのが見えた。次いで、冷たい感触が足の中を通る。この女、俺の足ごとローエングリンの手を貫こうとしたのだ。

 しかし、鋼の感触が通り抜ける頃には、足首を握る手の感触はかき消えていた。ローエングリンは俺の手を離し、次の動きに移ろうとしている。となれば、狙われるのは俺じゃない。

「危な――」

 とっさにヴィバリーへ注意喚起しようと声を上げる俺。だが、言葉の途中で突然に喉がぐっと詰まって、声が出なくなった。


(ヴィバリーッ!!)


 声のない声を心で叫びながら、包み込むような霧の中に、俺は女の姿を見た。空中から溶けでるように、ぬるりと具象化されていくローエングリンの半身を。彼女の体はウィーゼルが両断した瞬間のまま、胴の半ばで断ち切られ、白い霧に赤い雫を散らしていた。

 その動きはまるで――いや、文字通りのスローモーションで、ゆっくりと落ちていく。時間の流れが遅いのは、俺がそれだけ集中しているからなのか。白い世界に散らされた無数の血の雫は、遅い時間の中で焚き火の光を反射して、万華鏡のようにきらきらと輝いていた。それは、無残でありながら美しい光景だった。


 それから、徐々に……何かがおかしいと気づいた。

 時間が止まっていく。頭の中が、少しずつ淀んでいく。息ができない。

 息をする方法がわからない。体が動かない。いや、違う……。


 意識が遠くなって、一瞬、戻る。その瞬間に、何が起きているかを理解した。

 俺は、間違っていた。ローエングリンはすでに、行動を終えている。

 ウィーゼルが言った通り、すでに肉体を殺された彼女は、霧から体を戻した瞬間にその死を受け入れざるを得なくなる。彼女は死と引き換えに、重力に任せるまま、剣を振った。その切っ先が触れたのは、ヴィバリーではなかったのだ。


 ゆっくりと進む時間。暗くなっていく視界。その奥に、かすんでいく二つの影が見えた。

 呆然とするヴィバリーの姿。そして、首のない自分の体。


 ここが、終着点なのか――

 そう悟った瞬間、俺はどこか安堵していた。



 ……それから長い、静寂のあとに。


「ああ……ときどきこうして浮世に顔を出してみれば」


 暗闇のなかで。


「血、また血……終わらない、終わらない」


 少女の声が聞こえた。


「生かしましょうや」


 一瞬、光が見えて、


「死なしましょうや」


 そしてまたふっと暗闇に戻る。


「いずれが君らの望みなのか……命なるもの。美しい、醜い、卑しくて、尊い……」


 遠くからまた、唄うような声。

 キスティニーのように不可思議で、得体が知れず……しかし、もっと哀しい。


「私は君らが好きだよ。君らのひとりびとりのうちに燃えるちっぽけな蝋燭のゆらぎが。だから、せめて私の目の届くところでは死なないでおくれ」


 突然に、俺は目を見開いた。死なずに、まだ生きていた。

 呼吸は相変わらずできない。できることは、見ることだけ。

 そしてぼやけた視界がはっきりとしてくると、俺はすぐそばに声の主が、目尻に朱の差した少女がいるのを知った。彼女は、俺を――俺の首を両手に載せて、細い唇で微笑んでいた。


「……私がそうしろと言うまではね」



 ――まるで世界が終わったようだった。

 俺とこの少女以外の全てが死に絶えたかと思うほどに、音がしない。


 それから、彼女の肩越しに向こうを見て……俺はその感覚がただの事実であることに気づいた。

 灯っていた火は消えて、そこにいた俺の仲間たちは地に倒れていた。土には鳥が落ち、草木は揺れるのをやめ、空気すら死んだようだった。土の下では虫も、微生物すら死んでいただろう。


「君はサヴラダルナが施術したんだね。あれもあれなりに、逝く前に少しは真髄を触れたのだろうか……死にきらない、生ききらないものとは」

 こちらを見つめる少女の底知れない瞳を、俺はじっと見返した。細く切れ長の狐目に、人形のような長い睫毛が妖しく閉じ開きする。

「私の知らない命のかたち……偶然の産物? あるいはこれも、あの娘……知りたがりが気にかけるわけよ」

 ――いや。これは少女じゃない。コララディとは違う。子供ではないと、迷いなく、言い切れる。人であるかどうかさえわからない。俺の知らない心、永遠に理解のできない思考の束が、その冷たい眼球の奥で渦を巻いている。

 魔導師ウィザード、という単語が頭に浮かぶ。俺が見てきたものの中で唯一この存在に近いと思えるのは、イクシビエドだけだ。こうも簡単に全てを殺し、首だけの俺を生かす力。サヴラダルナの魔術とさえ違う。歪みなく、俺たちの命はこの手に握られているのだという感覚。

「ひとまず、このまま、しておこうか。あまりいじって、壊しちゃうといけないね」

 魔女の顔が、ゆっくりと俺の視界に近づく。

 そして額に、何かが触れた。冷たくも熱くもなく、乾いても湿ってもいないもの。

 喜びよりも畏怖をもたらすそのおぞましいくちづけと同時に、俺の視界が暗く途切れた。


「……お前もおゆき、霧の子。我らが裁定を下すまで、この地における『死』は私が禁ずる」


 暗闇に聞こえたその言葉の意味はわからない。

 目が覚めると何事もなかったように霧は晴れ、俺の首もつながって、アンナたちは地面の上で呻き声をあげていた。

「く……何が、起きた……?」

 俺は何も答えられず、へたり込んだまま首を横に振った。

 確かなのは一つ。俺たちが想定していた以上のことが、ここで起きつつあるということ。

「全員、生きている?」

 周囲を警戒しながら、ヴィバリーが問う。俺を含めた三人は一様にうなづき、武器を構える。だが、すでに脅威は去った後なのだと感覚的に察していた。

「アンナ、火を焚いて。ユージーンはあの柱の上で周囲を見張る。トーゴ、あなたは……」

 ヴィバリーは少しためらってから、俺の目を見てため息をついた。

「あなたは話を聞かせて。何が起きているのか理解したい。知りたくない気もするけど……イクシビエドへの報告のために、聞かないわけにもいかないから」


 俺は短い間に起きたことについて、自分が見た全てを話した。

 冬子を見下ろした塔でのこと。ユージーンの不可解な失敗。それから逃亡……戻ってきた霧のことと、生死を操る見知らぬ魔導師ウィザードのこと。

「アドバンチェリ……」

「アド……何?」

 ヴィバリーの呟いた言葉に、思わず聞き返す俺。

生と死の秤ウィッチ・オブ・ライフアドバンチェリ。命の魔導師ウィザードよ」

 説明しながら、彼女は鋭い目で東を睨んでいた。俺たちが来た方向。つまり、イクシビエドのいる方だ。

「……彼女は遠い東方の大陸に住んでいるはず。自分の大領地を離れることはごく稀よ。イクシビエドはこれも想定済みだった? そう、知らないはずはない……最初からアウラまでが関わっていたのに」

 自分自身と対話するように、ぶつぶつと呟くヴィバリー。その様子を見て、アンナは不愉快そうな顔で訊く。

魔導師ウィザードたちの勢力争いに巻き込まれたってことか?」

「彼らはそんな人間じみたことはしないわ。でも、彼女の価値は私たちが想像していたよりも大きいのかもしれない。魔術師たちの欲しがるものを、彼女は持っている……」

 ヴィバリーの不穏な表情は、そのまま俺の気持ちと重なっていた。冬子の魔術の正体。無人だったこの廃墟へ急に集まり始めた魔術師たち。不可解で異質なことが続いている。

「ご明察」

 その不安を証明するかのように、聞き覚えのある声が響く。

「キスティニー……!」

 いつのまにか、当たり前のように俺たちの間に混じって座っていたキスティニーは、ひらひらと手を振って笑った。思わず身構える俺に、キスティニーはわざとらしくつんと唇を尖らせる。

「なあに、今更わたしなんかに怯えなくてもいいでしょー? もっと怖いのに会ったばっかなのに」

 俺がこいつにビクつくのはこいつ自身が怖いからじゃなく、俺の秘密を暴露されるのが怖いからなのだが。それを気づいてかどうか、キスティニーは目を細めてまるで秘め事を楽しむように、俺にウインクなどしてくる。不気味だ。

「どうして、お前がいる? ここへの転移術は使えないと言っていたはずだ」

 突然の闖入にも油断なく、刺剣を突きつけキスティニーを睨むヴィバリー。最初から折り合いが悪かった二人だが、ヴィバリーの態度は会うたびに悪化している気がする。彼女がキスティニーの力を借りるために、なんらかの秘密を打ち明けたのと関係があるのだろうか。

「それがどうしてか、また使えるようになったんだよねぇ。でなけりゃ、アドバンチェリだって急にここへは来れないでしょ」

「お前が連れてきたのか?」

 冷たい声で尋ねるヴィバリーに、キスティニーは肩を竦める。

「さあ~? 相手は魔導師ウィザードさまだもん。きっといくらでもお助け魔術師がいるんだよ」

 本当なのかはぐらかしているのか、相変わらず表情からはわからない。

 二人の探り合いにしびれを切らしたアンナが、うんざりした声をあげながら割って入る。

「魔術師連中が何を考えてるとか、ややこしいことまであたしたちが考えてもしょうがないさ。とにかく、頼まれたことを終わらせちまおう。フユコの魔術の正体さえわかれば、それをイクシビエドに伝えてひとまず仕事は終わり……だろ」

 アンナは言葉を切ってちらりと俺を見る。

 俺が冬子を助けるつもりなら、その時は手伝うとアンナは言っていた。俺がその気ならば、だが。魔導師ウィザード連中までが暗躍しつつある中で、俺がどうするつもりなのかアンナも確かめたいのかもしれない。まだ何が起きているかもわからない俺は、アンナにわかるように小さく首を左右に振る。

「それじゃ、魔術の正体、わかったの?」

 俺たちを試すように、キスティニーは目を細めてくすりと笑う。

 俺と一緒に冬子の魔術を垣間見たユージーンはまだ落ち着かない様子で、意見を求めるように俺を見る。そんな目をされたって、俺にもわかるわけがない。いや……漠然と感じていることはある。でも、確信を持って話すのが怖かった。

 うつむいて黙り込む俺の代わりに、ヴィバリーが魔術師の問いに答える。

「トーゴから聞いた報告だけを考えると……周りの物質を、何らかの形で操作しているように思える。空間術と取れなくもない……転移を防いだこともそうだし……」

 ヴィバリーの言葉はどこか歯切れが悪かった。俺も、彼女の言葉は間違いだと感覚的にわかっていた。彼女自身も知っていたのだろう。

「わたしが答えを言ってあげよっか?」

 キスティニーはぎらんと目を見開いて言った。その目にあるのは邪悪な企みというより、新しいおもちゃの箱を開ける子供のように、わくわくした光。

「それとも、あなたが言う? トーゴくん」

 名前を呼ばれて、俺は数学の授業で教師に当てられた時のようにきゅっと首をすぼませた。答えたくない。答えるのが怖い。答えてしまえば、俺の想像が真実になってしまうような。

 だが、それを最初に口にするのは俺が相応しいのだろうとも思った。元をたどれば、全ては俺から始まってしまったことなのだから。

「俺は、その……なんとなく、ずっと違和感はあったんだ」

 ぽつぽつ話し出すと、その場にいる全員が俺を見た。こういうのはいつでも嫌だ。俺の答えが正解でも、間違っていても。

「冬子が魔術師だって聞いた時から。子供の頃の、あいつの夢だったし……それから、俺たちが進む度に、妨害があって……」

 たどたどしい喋りになってしまったが、誰も俺の話を遮ろうとはしなかった。もしかすると、全員がうっすらと感じていたことだったのかもしれない。

「……思ったんだ。あいつにとって、都合が良すぎるんじゃないかって。何もかもが、まるで……」

「何もかもが、彼女に従う」

 俺が言葉に詰まるのを見越したように、キスティニーが言葉を継ぐ。おかげで自分の考えが正解らしいと確信を得られた俺は、気を取り直して先を続ける。

「そう。あの塔で起きたことも、そんな感じだった。あいつが意識もしてないうちに、全部があいつの都合に合わせて動いてるみたいだった。何て言えばいいかわからないけど……そういう魔術なんじゃないか。そういう魔術って、どう呼べばいい?」

 ヴィバリーの答えを期待したが、彼女は無言で唇を噛んでいた。そして再び、キスティニーが答える。

「名前はない。そんな魔術に名前はないのだよ、トーゴくん。誰もそんなもの、知らなかったのだから」

「……七門の外。イクシビエドの読み通りか」

 絞り出すように言って、舌打ちするヴィバリー。キスティニーはその表情を楽しむように、意地悪くにやっと微笑む。

「『外』ならばまだ良かったんだ。壺中に未知の新しい魔術がもたらされたのなら、まだ良かったのよ。だけど、そうではなかった。そこが最高に面白くて、怖くて、わくわくするの。うふ……」

「思わせぶりな話をやめろ。我々はイクシビエドの命令で動いている。これ以上、はぐらかすなら妨害行為とみなす」

 ヴィバリーの脅しにも動じず、キスティニーはくつくつと笑い続ける。

「本質を理解するには、単純な言葉では足りないんだもん。でも、まあ、よいわね。あなたたち騎士には本質なんていらない。ただ、うわべの言葉がほしいんでしょ。だったら、それをあげましょう」

 ちょっと前には、正反対のことを言ってたような気がするが。本質は単純なものだとか……。

 キスティニーは俺たちの前から消えて、霧の晴れた夕暮れの空にふわりと浮かんだ。

「魔術が七つに分けて語られるのはね。それが表層から深層へと至るプロセスだからなんだよ。凡俗が世界を理解する術は限られている。手に触れて、熱を感じ。言葉を交わし、心を感じる。所詮はそんな程度のもの。しかし、その底にあるものは何か? あらゆる事物の底の底。ほんとうのほんとうは? 存在とは、そもそもが何であるか? 全ての魔術師たちは、本質的にはその『底』を目指している。だけど、どれだけ魔術師を気取っても、その答えを真に識った者など、いはしなかったのよ」

 彼女の言いぶりはなおも謎めいていたが、今度はヴィバリーも口を挟もうとはしなかった。彼女が何か、真実に近いことを語ろうとしているのがわかったのだろう。

「誰も? 魔導師ウィザードでもか?」

 眉根をあげて、キョトンとした顔のアンナが訊く。

「あっはは! 魔導師ウィザードなんてねぇ、本当は一人もいないんだよ。あの子たちだって、わたしたち『えせ魔術師』の中で多少マシな連中ってだけでしかない。伝え聞く最初の魔術師たちになぞらえて、そう呼ばれてるだけ。あさましい、あさましい」

 俺たちの知るこの世界の常識をあっさりとひっくり返しながら、キスティニーは空中でくるりと逆さになって、超然とした冷たい笑みを浮かべた。

「では、お前の言う真の魔術師とは?」

 まだ疑いの色を込めつつ、ヴィバリーが問う。

「……あらゆるものごとの生まれる前には。天も地もなく、ただ一つの魔術だけがあった。自分の未来と引き換えに時の始まりを覗き込んだ、時間術師アルーバルーはそう語る」

 ふわりと宙に浮いたキスティニーは、十二時を指す時計のように脚をまっすぐ上へと向ける。

「無から有を生み出し、世界の在りようを決めた一つの意思。根源たる魔術。秩序なき渾沌に、法をもたらした――『因果』なるもの」

「イン……ガ」

 さっきから毛布にくるまっていたユージーンが、のそりと首を出してつぶやいた。因果。原因と結果。キスティニーが言わんとしているのは、運命、みたいな意味だろうか。

「地に土があり、天に星がある。高きは低きに落ち、生は死へと進む。それら法則の全てを定義づける、たった一つのはじまりの魔術。誰かが、何かがそれを実行した。それからずっと、わたしたち、後追いのえせ魔術師はその真髄には触れられないまま、端っこを曲げたりこねたりして遊んでたわけ……赤ん坊みたいに」

 時間を進めるようにくるりと時計回りに脚を回転させ、上から俺たちを見下ろすキスティニー。

「だけど、今、それが変わった。たった一人の少女によって」

「冬子……?」

 俺のつぶやきに、キスティニーはうなづく。

「そーいうこと。彼女はこの具象世界に存在する、唯一の因果の魔術師――すなわち、たった一人の、ほんとうの魔女ウィザード。全てが彼女に従い、全てが彼女によって書き換えられる。あらゆる物質、あらゆる意識、過去や未来でさえも」

 その言葉の突拍子もなさにぽかんとする俺たちに向かって、キスティニーは歯の間から息を出して笑う。

「シシ、シ……そんなものと、あなたたちはどう向き合うのかな?」

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