番外編 血と腐肉の間で

「……まあ、お目覚めですか」

 女は横たわった兵士に声をかけた。兵士は包帯の間からのぞく目をぎょろりと動かして、周囲を見回そうとした。だが首は固定されて動かず、彼に見えるのは空と、覗き込む女の顔だけだった。

「こ……こは……」

「動かないで。ずいぶん血を失っておられます。大丈夫、ここは安全です。戦はずっと遠く。あなたはもう大丈夫」

 それは、気休めでさえなかった。ただの嘘だ。北方の蛮族たちはもうすぐそこまで近づいてきている。だが、彼女はそれを兵士には告げなかった。彼はもう助からないから。せめて希望を持って死ぬ方がましだと思ったからだ。

「手が……動かない……」

 彼の手は、戦場で二本とも切り落とされていた。蛮族は敗者たちをただ殺しはしない。あらゆる方法で彼らを貶め、辱め、そして生かしておく。戦場での死は勝者にこそふさわしく、死ぬためにこそ彼らは戦うのだと、蛮族の捕虜が話すのを聞いたことがあった。

 女は内心のやるせなさと静かな怒りを押し殺し、そっと兵士の頰に触れた。

「……今は、お眠りになってください。すぐ、よくなりますから。すぐ……」

「……り……とう」

 嘘に嘘を重ねて。それでも、微かな声で礼を言うのを聞くと、少し嬉しい。

 だが心の奥底で、得体の知れないわだかまりはずっと渦を巻いていた。――こんなことは、自分の望みではないと。


 女は看護師だった。この世界で、それが職業と呼べるならだが。彼女の住む土地では長年、ウーバリー領から溢れ出てくる野蛮な北方民族たちと、周辺の都市同盟との戦争が続いていた。

 魔導師たちは、人間同士の争いを楽しみこそすれ止めることはない。東方や南方の異民族たちのように、庇護してくれる王がいるわけでもない。傍観者イクシビエドの大領地では、自分たちの世話は自分でするしかないのだ。

 女は町医者だった親から医学の知識を学び、ゆくゆくは後を継ぐはずだった。だが、正義感の強い彼女は目の前で起きている悲劇に目を瞑ることができずに、少しでも役に立とうと勉強もそこそこに家を飛び出して戦場に向かった。

 それから数年、無数の死と流される血を目の当たりにしながら、彼女は一年の大半を野営地で過ごし、戦場の傷痍兵たちを癒し続けた。

 それは、途方もない徒労だった。彼女がどれだけ手を尽くしても、傷ついた兵士のほとんどは死ぬ。彼女が未熟だったせいではない。もとより、軽い傷の者などいないのだ。お互いが殺すためにその場に立ち、殺すために剣や斧を振るのだから。

 だが、どれだけの死を前にしても、彼女が折れることはなかった。血まみれになりながらも、彼女は全ての兵士たちに最大限の治療を施し、死を看取り、一人一人のために泣いた。

 死にゆく兵士たちは、彼女を聖女と呼んで慕った。彼女の周りの人々は、狂女と呼んで遠ざけた。それだけ、死にゆく者たちに尽くす彼女は一心不乱だった。まるで、死に取り憑かれているかのように。


「XXX君。我々は、この野営地を引き払う。君にも同道してもらいたい。朝までに荷物をまとめておきなさい」

 ある夜、部隊長が彼女を呼びつけてそう告げた。彼女はぽかんと口を開けて、聞き返した。

「重傷者の方々は、どうやって搬送するのですか」

 部隊長は、彼女の察しの悪さに苛つきながら、ため息をついた。

「……置いていく。どのみち彼らは助からない。生きた兵を撤退させることが優先だ」

 彼女は口を開けたまま、少しの間ぼんやりと空を見つめた。

「ああ……そうなのですか」

 ため息さえ出なかった。予想しなかったことではない。同じようなことは、今までも数度あった。その度に悔しい思いと、怒りと、胸の底で燻るものを感じながら、「自分も生き延びなければいけないのだから」と理性で言い聞かせてきた。確かに、無事な兵士たちまで死なせるよりは、合理的な判断には間違いないのだから。

 だが彼女は、もう自分の理性に愛想がつきていた。

「XXX君?」

「私は……残ります。彼らの治療を続けます」

 彼女はきっぱりと言って、立ち上がった。部隊長は半ば呆れたような声で、彼女を呼び止めた。

「待て! 死ぬ気なのか? やめなさい。君は有能だ。生きていれば、もっと多くの兵士を救える。君がしようとしているのはただの愚行でしかない」

 それは正論だった。彼女は頭で反論を考えようとして、何も浮かばないので考えるのをやめた。

「死んでいく兵たちも、自分のために君が死ぬことは望まないはずだ」

 部隊長のその言葉を聞いて、彼女は背を向けたまま、思わずふっと苦笑した。

 彼女は知っていたからだ。死んでいく者が望むものは、そんな綺麗事ではない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。ただ、それだけ。明日、また同じように目を覚まして、同じように食事をしたい。ほんの少しでも長く。

 彼らのその強烈な思いこそが、彼女を打ちのめし、彼女を魅了し、何度でも死地へと赴かせたのだった。それを自覚した瞬間から、彼女はもう何も後悔することはなかった。


 翌朝、部隊長は自力で歩ける兵だけを連れて、野営地を離れていった。

 餞別にと残されたわずかな医療器具と薬で、彼女は意識も絶え絶えな兵士たちの手当を続けた。口を開く者はなく、幾人かは数時間のうちに死んでいた。彼女は死体の間をせわしなく行き来しながら、死体になりつつある者たちに最後の治療を施した。

 夕方になる頃には、腐臭が鼻をつくようになった。今日死んだものだけではない。数日前に死んだ兵士たちの遺体が、埋葬されぬまま天幕のそばに放置されていた。彼女は死に囲まれて、じっと立ちすくんでいた。

「……どうして、こんなことになったのかしらね」

 彼女は独り言をつぶやいて、じっと自分の手を見た。水桶で何度洗っても、まだ血が、死が、指のしわの一つ一つに入り込んでいる。

 自問したのは、自分を責めるためではない。彼女は世界を責めていた。こんなことが起きる世界が、憎かった。絶え間なく死の降りかかる世界が。命の軽さが。

 この世界のどこかには、指のひと触れでどんな怪我も治してしまう魔術師がいるという。でも、ここにはいない。今までも、ここには来なかった。きっと、永遠にここには来ないのだろう。そうして、永遠に人は死に続ける。

(何もかもが、間違ってるのに……私は結局、何もできない)

 やがて、森から大勢の足音が聞こえてきた。これから自分に降りかかるであろう運命も、彼女にとってはもうさほど恐ろしくはなかった。


 夜が来た。

 彼女は積み上げられた死体の隣に、裸で捨て置かれていた。死んだと思われていたのだろう。実際、手足の感覚はすでになく、心も氷のように冷たかった。遠くで、男たちが笑い合う声が聞こえた。

(何もかもが……)

 彼女は一面の星空を見上げた。それは巨大で美しい暗闇だった。ぽつぽつと灯る星の光は、まるで無数の命の火のようだった。彼女が人生をかけて、追い求めて来たもの。

 無意識に、手を伸ばそうとした。だが、彼女はもう手を動かせなかった。

 動かせないのに――不思議と、すぐにつかめそうな気がした。何かが、すぐそこにある。ずっと欲しかったもの。今、必要なもの。美しい、この世で唯一価値のあるもの。

(……命)

 心の手を伸ばして、それをぐっとつかんだ時。彼女の中で、何かがようやく噛み合った。言葉にならない真実が、心の中ではっきりと形をなした。それはひとつながりの機械であり、無限につらなる膨大な呪文の一節であり、小さな世界の破片だった。それは、一つの名前をもっていた。

(……サヴ…………ナ?)

 彼女はまだ不鮮明な「それ」を、糸車を回すように、ゆっくりと動かした。ただ、頭でそれが動くさまを思い浮かべるだけでよかった。すると、少しずつ……彼女は自分の体の感覚を取り戻していた。

「……私、生きてる……」

 確かめるようにつぶやきながら、体を起こす。同時に、周りでびくんと影が動いた。彼女は怯えなかった。それが自分の力だと知っていたからだ。

「……私たちは、生きている……」

 彼女の声には、確信が満ちていた。そして、深く息を吸い込むと、呼応するように周囲の死体たちがむくりと上体を起こした。傷つき、腐り、もはや血も流れぬ者たちが。その姿を見て、彼女は涙を流さんばかりだった。

「そう……そうだったのね。命はずっと、ここにあった……何も、失われてなんかいなかったんだわ……私は、思い違いを……ああ、でもこれで、本当の意味で、私は……」

 ぶつぶつと呟く声に、ようやく周囲の男たちが気づいた。彼らは口々に叫び、ある者は斧を取り、ある者は走り出した。死をも恐れぬ蛮族たちが、死よりもおぞましいものを目の当たりにして、恐怖に怯えていた。

「大丈夫よ……あなたたちも、大切な命……失わせはしない。ただ、少し、眠るだけ……」


 その夜以来、北方民族は周辺を「死者の森」と呼び、二度と近づくことはなかった。都市同盟もまた、この地域を禁域とした。結果として両者の紛争は途絶えたが、周囲に広がった腐敗と死臭は百年経った現在も消えず、動物たちもそこを避けると言われている。


(おわり)

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