番外編 孤独なる者
少年の世界は暗く、狭く、小さかった。
「――だからね。もうお前はあんまり外に出るんじゃないよ。大丈夫、お父さんもお母さんも、お前を愛しているからね。それで十分だよ」
少年は無言でうなづいて、それからまたうつむいた。
「お前は幸せな子供だよ。……ここにいる限りはね」
そう言って、母親は疲れ切った背中を少年に向けながら、階段を上っていった。少年は無感情な顔でその姿を眺めた。母親の言葉を疑う気持ちはなかった。彼は両親を愛していたし、彼女に何度も言われた通り……外の世界は彼には合わなかったのだ。
彼はうまく話せなかった。彼はうまく笑えなかった。その二つができないだけで、他の子供たちは彼を嫌った。彼は相手の気持ちを読み取るのが苦手だが、嫌われていることはよくわかった。石を投げられた時の傷は、まだ生々しく二の腕に残っていた。
「ぼ、ぼく……大丈夫。ともだち……いるから」
虚空に向かって、少年は語りかけた。その言葉は、嘘ではなかった。少年は長い間、暗闇を友としてきた。布団の中の闇も。部屋の隅の闇も。全ての闇が彼の友達だった。
「そう……ち、ち、ちゃ……んと話す……話せる」
地下に作られた彼の新しい部屋は、友達でいっぱいだった。外の粗暴な少年たちさえ泣き出してしまうような環境で、彼はにっこりと笑った。その笑顔は、知り得るを識る者を除いて誰にも見られることはなかった。
それから数年の間、少年はほとんどその地下室から出ることはなかった。少年は陽の光や外の喧騒をさらに恐れるようになり、そんな少年を両親もうまく扱いあぐねて、腫れ物のようにせざるを得なかった。
日に日に不安をつのらせる両親とは対照的に、少年はその牢獄のような環境に適応しはじめていた。用を足す以外は、食事も睡眠も地下の部屋で済ませた。彼は何も恐れず、何も望まなかった。彼は満たされていた。
少年には趣味もあった。その地下室には、物置として使われていた頃に父親が放り込んでいた廃材や壊れた道具などがたくさんあった。手先が器用な彼は、それをばらしてつなぎ合わせ、不恰好な人形を作った。彼がいつも暗闇に見ている想像上の友達を、形あるものにするために。人や竜、いろいろな形を作って、彼はそれらに話しかけた。
ある日、彼はその友達を母親に見せた。
「お母さん、ぼ、ぼく……ともだち、作ったよ。これ……ぼくの、ともだち」
暗闇にずらりと並んだ不恰好な人形たちを見て、母親は悲鳴をあげた。
彼女はそれから、地下室に降りるのを恐れるようになった。少年はそのことを悲しんで、母親が怖がらないようにと人形たちを土に埋めた。地下室の壁は漆喰で塗り固められていたが、床はところどころに地盤の土が露出していた。彼は爪を黒くしながらそこを丁寧に掘り返して、大事な「ともだち」たちをそこで眠りにつかせた。
本当の孤独は、その頃から始まった。それまで、彼は自分が両親に愛されていると信じていた。暗闇の中の友人たちは、彼の一部分だった。彼らの存在が両親によって否定された時、彼は自分への愛をも疑い始めた。
それは的外れではなかったかもしれない。母親が人形たちに過剰な恐れを示したのは、内心で常に抱いていた、自分にさえ理解できない心を持つ息子への、無意識の恐怖心のせいだったかもしれない。その虚ろな瞳に対して。無表情な顔に対して。
少年はそれから、今まで以上に心を閉ざした。両親とさえ、ほとんど言葉を交わさなくなった。ただ空想の中で、たくさんの「ともだち」に囲まれて、彼は年月を過ごした。
こわばり硬くなっていく心の中で、彼はただ一つのことを願っていた。言葉にならない祈り。言葉にならない願い。どうか、どうか――。誰か、誰か――。
十年経った。少年はもう少年ではなかった。両親が老境に差し掛かってもなお、彼は同じ地下室にいた。彼の心は小さく硬い、ひからびた種子のようになっていた。
しかし日差しにあたらないせいか、彼の容姿は少年の頃から大きく変わってはいなかった。食事や排泄の量も徐々に減り、何かが変わり始めていた。いや、変わるのをやめたと言うべきか――
そんなある日、彼の元を一人の男が訪れた。男は扉をノックしたわけでもなく、ただいつのまにか地下室の中に立っていた。男の顔は若者のようでもあり、老人のようでもあり、つかみどころのない奇妙な顔つきだった。その奇妙さは、他人から見れば二人の共通点と映っただろうが、この場には彼ら二人しかいなかった。
「やあ」
気さくな挨拶をする突然の訪問者を、彼は無感動な顔で見た。彼自身が無意識に生み出した、空想の人物かと思ったのだ。彼の認識において、現実と空想は境目がなく、ほとんど同じものだった。だが、どうやらこれが新しい「友達」ではなく、まったくの他人だと気づいたのは、その男が彼に想像し得ない言葉を、早口に話し始めたからだ。
「私はイクシビエドという。君の名前は言わなくていい。もう知っているからね、フードゥーディ……この名前を自覚しているかね? 君はすでにそれを見出した。君は魔術師になったのだよ」
男が異質な存在であることに気づいて、「彼」、フードゥーディは恐慌状態に陥った。暗闇に顔をうずめ、耳をふさぎ、がたがたと震えだした。だが、イクシビエドは意に介さない様子で言葉を続けた。
「君にも聞こえていたはずだ。土の下から、己を呼ぶ声が。それは君の空想ではない。君は自らが求めるものを、無意識のうちにつかみとったのだ。魔術師が生まれる瞬間はいつでも興味深い見世物だが、君の例は特に珍しかった。気長で、静かで……」
男の言葉は、耳を塞いでも頭に入ってきた。まるで、意識に直接語りかけるように。そして、フードゥーディは徐々に落ち着きを取り戻した。この男が、自分と近いものであることを、うっすらと感じ取ったのだ。
「私は君を気に入っているのだよ。もし君が望むなら、君をここから別の、もっと住みやすい場所に移してあげたい。君が魔術師としてより成長できる場所に。私は未知なるものを求めている……そして私にとって未知なるものは、魔術の中からしか生まれることはない。だから、君を長く生かし、さらなる魔術を見出すことを期待している。わかるね?」
フードゥーディは、黙って首を横に振った。急な申し出であることを差し引いても、家族以外の人間をほとんど知らずに生きてきた彼にとっては、この地下室を出ることなど想像するだけで恐ろしかった。
拒絶されて、男は残念そうな表情を浮かべた。それは深みのない、ただ記号のように意思を伝えるだけの薄っぺらな表情だった。
「……そうか。いや、君がそう答えることは想像がついた。私は待つよ。決心がついたら、私の名前を呼ぶといい。私はいつでも聞いている……」
フードゥーディは男を追い出そうと、ヒステリックに叫んだ。男は能面のような顔を貼り付けたまま、その叫びを受け止めた。
「君も気づいているはずだ。君はもう、ここにはいられないのだと」
男はその言葉を最後に、ふっと消え去った。
男が消えてしまってから、フードゥーディは堰を切ったように、声をあげて泣いた。フードゥーディは壊れたところを抱えてはいるが、決して愚かではない。男が語ったことが何を意味するか、自分が何に変わってしまったか、彼は理解していた。ただ、それを受け入れたくなかっただけなのだ。彼が、自分以外のすべての世界を受け入れなかったのと同じように。
やがて、騒ぎを聞きつけた母親が、心配して地下に降りてきた。母親は両手を開いて、一瞬、抱きつくようなそぶりを見せながら、そのまま立ち止まり、遠巻きにフードゥーディを悲しげに眺めた。その一挙手一投足を、フードゥーディは空虚な目で見ていた。
数日後、フードゥーディは突如として地下室から姿を消した。両親は驚き、悲しみにくれたが、彼を捜索したりはしなかった。二人は少年だった頃の彼を思いながら、小さな葬儀をあげた。
それから、フードゥーディの行方を知るものは誰もいない。彼は誰にも知られることなく生き、誰にも知られることなく、この世界を去ったのだろう。ただ一人、知りうるを識る者を除いては。
(おわり)
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