第35話 夜明けの鳥
俺はその一人と一匹を前にして、近づくことも退くこともできず呆然と立っていた。
暗闇に眠る彼女たちの姿が、どこか近寄りがたかったせいもある。時が止まったように静かで、安らかだった。触れたり声をかけたら、その瞬間に全てが壊れてしまいそうな。
でも、しばらくして気がついた。俺はそれを壊しに来たのだと。
そうしなければ、永遠にここから抜け出せない。
「……コララディ」
俺は小声で言った。ヴィバリーに聞かれるのが怖かったからだ。
コララディもでかい犬も、何の反応も示さなかった。恐る恐る近づくにつれて、少なくとも犬の方はどうやらもう生きてはいないらしいことに気づいた。この図体にもかかわらず、体温を感じないのだ。
そっとコララディのそばに立つと、小さな寝息が聞こえた。
「おい……」
もう一度、小声で声を掛ける。
だが、コララディは目を覚まさなかった。肩をゆすっても、軽く叩いてもダメだ。ただ眠っているというよりは仮死状態に近いのか、わずかな反応さえもない。ただ満ち足りた微笑を浮かべて、死んだ犬の体を抱きしめるだけ。
抵抗を感じつつも、俺はゆっくり剣を抜いた。
それこそまるで運命みたいに、こんなことばかりしている自分にうんざりしながら。幸せそうに眠る子供の背中に、切っ先をあてて、深く息を吐いた。
<誰をどれだけ殺しても、やっぱり私は自分が生きててよかったと思う……そんなもんだよね>
ふと、カナリヤの言葉が頭に浮かぶ。そうだ、そんなもんだよ。
人殺しは、人殺しとして生きていくしかない。今さら、自分以外のものになんてなりようがないから。
「……ちくしょう」
それでも俺は、切っ先に力を込められなかった。
――これ以上、俺にやれることなんかないはずだ。俺は全力を尽くしてきた。今夜、ようやくヴィバリーも、ユージーンも、アンナも、三人とも五体満足のまま一緒にいる。今これを終わらせなければ、二度とこんな幸運な夜はないかもしれない。今やるしかないんだ。
そう理解していてもなお……俺はもっとましな終わり方を望んでしまっていた。
本当はそんな子供じみた都合のいい望みこそ、殺してしまうべきだったんだろう。でも、結局俺はそこまで割り切れるほど大人にはなれなくて、中途半端なまま、もがいて生きる方に転げ落ちてしまう。
唯一成長したところがあるとしたら、今回に限って、俺は望んで転げ落ちるということだ。
「トーゴ、奥はどうだった?」
戻ってきた俺に、ヴィバリーが訊いた。
「何も。野犬が死んでた。それだけだよ」
「……そう」
俺の嘘に気づいたのかどうか、ヴィバリーはそれきり何も言わなかった。
俺は小刻みに震えながら、三人に背を向けてぎゅっと目を閉じた。
――もう一度だけ。もう一度だけやってみよう。コララディの居場所はわかった。
やれること、やるべきことを考えて。今まで見てきた夜から、確かなことを選び取る。
少しでもましな夜明けのために。
コララディとの最後の面会は、静かなものだった。
お互い、これから何が起きるかはわかっていたせいだろう。俺は初めてこいつの前で、得体の知れなさや不吉さを感じずに、対等でいられた気がした。
「……コララディ。お前が生きたまま、魔術を解くことはできないのか?」
「わざわざそんなこと聞きにきたの?」
「俺の質問に答えろ」
「……うん。無理だね。そっちの私、もうほとんど生きてないんだよ。アウラの力であそこに留められているだけ。どっちにしても、あなたの都合で私が術を解くつもりはないし」
やっぱり、そうなるか。わかってはいたけれど、気持ちは重かった。
「なるべく痛くないようにする」
「なんでもいいよ。たぶん感じないから」
目を細めて笑うコララディ。いつの夜だったか、こいつはもうすでに覚悟を決めたようなことを言っていた。そりゃそうだ、一度見つけられたら自分を守る術も何もないのだから。何千何万も夜を重ねれば、いつか彼女は敗北する。俺に記憶の引き継ぎを許した時点で、最初から終わりにするつもりだったのだ。
「それじゃ、本当のお別れだね。私は幻影城に帰るから。もう、会えないね」
そう言うわりに、別段寂しそうではなかった。彼女は本当に、俺にも元の世界にも、もう大した興味はないのだろう。俺には理解も想像もできないが、きっと彼女自身の夢をみつけに行く、そのための旅立ちでしかないのだ。
「……お前、俺が夢をみないって言っただろう」
「そうだよ。そうでしょ?」
無表情に首をかしげるコララディ。俺はうつむきながら、首を横に振った。
「俺は……俺だって、夢をみたいんだ。ちょっとでも、ましな人間になる夢を。叶わないのはわかってる。俺は人殺しのクズだよ。だけど……」
ほんの少しだけ。
「ひとつだけでも、ましなことをしたいんだ。正しいと思えることを」
「ふぅん……よくわかんないけど。あなたのしたいようになるといいね」
コララディはふっと笑いながら言った。興味はなさそうだったが、本心ではあるのだろう。
「私の友達がね。星を追いかけるのが好きだったんだ。届くはずもないのに、とっても楽しそうだった。私は楽しそうなあの子を見るのが好きだった」
「…………」
急に始まった思い出話に、どう答えていいかわからずに黙り込む俺。コララディは幻影城で見せたような、子供らしい屈託のない笑顔を浮かべていた。
「だから、あなたも望むように駆けておいで。……じゃあね。わんちゃん」
コララディはぱたぱたと手を振って、暗闇にふっと溶けて消えた。
「……トーゴ? 話を聞いてる?」
意識が戻って、耳に飛び込んでくるヴィバリーの声。
夜の始まりに帰ってきたことを認識した途端、俺は深く息を吸って三人に呼びかけた。
「三人とも、ちょっと止まってくれ。頼みがあるんだ。夜が明けるまで、ここで何もせずにじっとしてて欲しい」
「はぁ?」
聞き覚えのないような声をあげて、怪訝な顔をするヴィバリー。まあ、当然の反応だ。
「時間魔術師がいて……詳しい説明してる時間ないんだ。俺が何とかするから、とにかく、絶対にここから動かないでくれ。頼む」
無茶なお願いだとわかってはいたが、ここからは時間との勝負だ。少しでも無駄にはできない。
ヴィバリーはこれまでのループ時以上に困惑していたが、それでも俺の言うことを理解しようとしてくれた。
「……よくわからないけど、あなたが正常じゃないことはわかったわ。その原因が魔術師だっていうなら、不用意に危険に踏み込むつもりはない。……でも、本当にあなた一人でどうにかなるの?」
「ああ。俺がやるしかないんだ」
でないと、誰かが死ぬことになる。そう口にはしなかったが、深刻さは伝わったようで、アンナもヴィバリーもそれ以上追求しなかった。
俺は一人、夜の森を走った。
目的はひとつ。その算段もつけている。あとは上手くいくかどうか。
頭の中で地図を描く。砂塵騎士団の位置はここから真っ直ぐ西。とはいえ、コンパスがあるわけじゃない。自分が今どこにいるか、周りの景色だけが頼りだ。見覚えのある木の幹。やがて見えてくる、かすかな遠い焚き火の明かり。近づき過ぎれば気づかれる。なるべく迂回して、なおかつ足は緩めずに。少しでも遅れれば、間に合わない。
身を屈めて草むらをぐるりと歩くうちに、聞き覚えのある声が聞こえた。
「おィ、ボリス! どこ行くんだァ? 酒の準備がまだだぜ」
砂塵騎士団だ。俺は息を殺して、その場に伏せる。
「……小便」
短く答えたのは、聞き知らぬ野太い声。「ふとっちょボリス」だ。生きた状態で会うのはこれが初めて。
「近くでするんじゃねえぞ。手前の小便嗅ぎながら麦酒なんか飲めやしねェ」
団長の要望にボリスは無言で舌打ちして、がさがさ足音を立てて歩いて行った。俺は今まで以上に気配に気をつけて、ボリスのあとを追って一歩一歩慎重に足を進めた。他の連中はともかく、こいつに気づかれたら終わりだ。
やがて、ジョボジョボと汚い水音が聞こえた。顔をしかめつつ、俺はゆっくりとその音に向かって動く。カナリヤも認めたプロ相手に、そう長く隠れられるとは思ってない。
――でも、やるしかない。カナリヤを確実に生かすには、こいつが生きてちゃいけないんだ。
「……あん?」
案の定、ボリスはすぐに俺の気配に感づいたらしく、不審げに首をかしげた。だが、小便は止まっていない。警戒されてはいるが、まだ背を向けている今がチャンスだ。
俺はボリスの顔がこちらを向く寸前に、腹の横で構えた剣を握りしめて、無言で駆け出した。
「……!」
一歩踏み出した瞬間から、ボリスの動きが変わるのを感じた。完全に気付かれた。
だが、もう遅い。体ごとぶつかった俺の剣は、身を翻そうとしたボリスの横っ腹に刺さっていた。俺たちは組み合ったまま、小便溜まりの上にびしゃっと倒れ込んだ。
「なぁ……ッんだ、手前ぇッ!」
傷が浅かったのか、ボリスは腹に剣を刺したまま、すでに握っていたナイフを俺の首に何度も突き立てた。的確に急所をやられたんだろう、ひと突きごとに視界がちかちかする。だが、当然ながら痛みはない。これなら、まだ動ける。
俺はさらに体重をかけて、すでに刺さった剣をさらに腹の奥へと押し込んだ。吹き出す血と、肉の抵抗感。知っている感覚だった。フードゥーディの時と同じだ。「届いた」時の、おぞましい手応え。
「ぐっ……ぷ……」
ボリスは呻きながら、俺の体を突き飛ばそうとして、腕に力を込めた。俺の細い体は簡単に押しのけられ、地面に転げ落ちる。だが、もう目的を果たしたことはわかっていた。
数十秒、臭い空気を吸い込んで待つうちに、俺の体はすぐ元どおりになった。立ち上がって、ボリスの姿を見る。まだ息はあるようだったが、もう長くはないだろう。
剣を抜こうとしたが抜けないので、俺はボリスが握っていたナイフを奪ってさっさとその場を後にした。
血まみれ、小便まみれの姿で、俺は必死に森を走った。砂塵騎士団が仲間の死に気づいて、俺を追ってくるかもしれない。あるいはカナリヤがボリス以外の砂塵騎士団と接触して、戦いになっているかもしれない。
だが、少なくともこれでカナリヤがボリスの毒を受けることはなくなった。彼女は生き延びるだろう。そう信じるしかない。俺にできることはこれが精一杯だ。
しばらく走って、再び横穴にたどり着いた。全身ぐったりして疲れ切っていたが、まだ止まるわけにはいかない。俺が賭けに勝ったかどうか、まだ決まったわけではないのだ。
急いで奥へ潜り込み、コララディたちのいる空間へと出る。何度見ても、踏み込むのに気が咎める。でも、もう立ち止まりはしない。俺はゼェゼェ荒い息をしながら、無遠慮に踏み込んでいった。
お互い納得済みであっても、子供に向かってナイフを突きつけるのは最低の気分だった。
「ごめんな」
何も言うつもりはなかったのに、そんな言葉が自然と漏れた。
「ごめん……」
自分の顔がくしゃっと歪むのを感じながら、俺は一息にナイフを差し込んだ。
その瞬間、手の中でコララディの体が砂のように崩れていった。目の前の獣の体も。風もない洞窟の底で、さらりと暗闇に溶けて消えていった。残ったのは、わずかな獣の骨のかけらが少しだけ。まるでコララディという少女などどこにもいなかったかのように。
俺はぽつんと取り残されたような気分になりながら、段差を上がって穴の外へと這い出した。
頭が上に出た途端に、小さな光が目に飛び込んできた。入り口から漏れてきたかすかな光なのに、それは目を灼くほど眩しく感じられた。
転げるように外へ出て、そのまま仰向けに地面に寝そべった。なかなか目が慣れなくて、長いこと涙がにじんだ。長い夜から逃れ出て、久しぶりに見る夜明けの空は、どこか青くくすんでいて、懐かしさよりも「こんなものか」と思った。
そのまま寝転がっているうちに、頭上を数羽の鳥たちが横切るのが見えた。暗闇から光へと、逃れるように東へ。俺もいつかあんな風に、明るい方へまっすぐ向かえるようになるのだろうか。そんなことを考えながら、俺は土の上にずっと寝そべっていた。
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