番外編 夜は終わりなく、冒険に満ち満ちて
夜のとばりの降りる時、少女は目を覚ます。首までかぶった毛布をのけて。ベッドがきしまないようにそっと足を下ろし、ゆっくり重心を移していく。
(……よし)
しっかり床に足をついたあとで、両腕を広げてひらりと跳ぶ。着地の音は軽やかに、羽のように。そして声もなく、仕草だけでくすくす笑う。
「さあ、冒険のはじまり」
儀式のように、それだけは小さくも必ず声に出して言うのだった。
少女は夜を愛していた。父親よりも、母親よりも、小さな弟よりも。焼き菓子よりも、オルゴールよりも、何よりも、誰よりも。いつか大人になる日が来たら、指輪を作って夜の空に掲げて、月や星と結婚するのだと夢みていた。
そんな思いに突き動かされて、彼女は毎日昼間ぐっすり眠り、夜とともに起き出して家を抜け出し、誰もいない暗闇をぶらつく生活を始めたのだった。
どのみち、昼は起きていられない。酒癖の悪い父親の怒鳴り声、愚痴っぽい母親が漏らすこの世の全てに対する悪口、半ば人として生まれ損ねた弟の悲しい泣き声。すべてが彼女を苛むので、彼女は日の出とともに心を閉ざし、全てに対して死んだふりをする。それは自分の心を生かそうとする無意識の防衛機構だったかもしれない。いずれにせよ、両親も少女は病気なのだと決めつけて、彼女をそのまま寝かせておいた。何日も何も食べない日が続いたが、不思議と彼女は飢えもしなかった。
「ねえ、にゃーちゃん。この夜がずっと終わらなかったらいいのに……」
隣家の屋根の上、野良猫と一緒に寝そべって、彼女はそう呟いたものだった。
望みがとうに叶っていたことを彼女自身が知ったのは、それから実に数十年後のことだった。街の外でそれだけの年月が流れる間、彼女とその街は延々と同じ夜を繰り返していたのだ。
その街は長らく不可侵の禁域として隔離されていたが、最終的には時間術の大家である
だが、代償は大きなものだった。時間が元に戻った時、流れ去った三十年の年月が一度に街に降りかかったのだ。建物は瞬時に老朽化し、人々は急激に老い、または死んだ。変わらないのは術者である少女ただ一人だった。
少女はもはや街には住めなかった。彼女の行くところには、常に終わらない夜がつきまとった。彼女は一人、人里を避けてさすらうようになった。一箇所にとどまれば、まわりにの人も獣も、彼女の時間に囚われてしまうから。
けれど、悲しいことはなにもなかった。彼女は望みを叶え、愛するものとともに生きることができたのだから。
長い時間が過ぎた後、少女は夢の中で
少女はその約束された場所に向かって、長い長い旅をした。
歩き疲れた頃、彼女は一頭の大きな犬と出会った。その名もない獣は、おそらくどこかで魔術師の手によって姿を変えられた魔獣であったのだろう。荒々しい巨躯に似合わぬ静かな瞳で少女を見つめ、頭を垂れた。
「どこから来たの、わんちゃん?」
犬は何も答えず、彼女のそばに寄り添った。少女は獣の腹に触れて、豊かな毛並みに隠された、痩せこけた体に気づいた。
「わんちゃん、死んじゃうの?」
犬は一度だけ悲しく吠えて、それきり何も言わなかった。
少女はその犬を自分の道連れとした。一緒にいる限り、彼が死ぬ日は来ないから。夜が一巡するたびに犬は友の顔を忘れたが、すぐにまた彼女に懐き、無二の親友となるのだった。
長く深い夜の旅の果て、少女と犬は森に囲まれたかつてのアウラの居城にたどりついた。
そこはイクシビエドはじめ多くの
彼らはその場所で、誰にも邪魔されず長い時を過ごした。長い夜であり、ほんの一瞬でもある夜。響くのは少女の笑い声と、か細くも優しい犬の声だけ。
星の運行の管理者である空間術師たちも、時間の乱れを嫌う
しかし、この世に永遠というものはない。魔術師、魔導師、原初の偉大なるものたちでさえ。
ある夜、護法騎士団の一隊が森に入りこんだ。彼らは本来トポキッテのもとで管理された組織であるが、彼女も蟻のように散らばる騎士たちの全てを識るわけではない。人の身を越えてイクシビエドのごとく知識を得んとしてか、あるいはアウラの遺物に力を求めてか、彼らは恐れも知らず森に分け入った。
少女を守ろうと、偉大なる獣は彼らに立ちはだかった。しかしすでに寿命を迎え、繰り返される夜の中でかろうじて生きながらえていた彼には、名もなき騎士団ひとつさえ止める力はなかった。
その時、少女が黙って隠れてさえいれば。やがて夜は巡り、全てはもとに戻るはずだったかもしれない。しかし、彼女は傷ついた唯一の友を見過ごせず、騎士たちの前に身を投げ出していた。
「彼を殺さないで。どうすれば見逃してくれるの?」
少女の問いかけに、騎士たちは笑った。彼らはその場違いな子供が魔術師であることをすぐに見てとっていた。そして、何も言わず彼女の胸を刺したのだった。
少女が倒れると、終わらない夜の魔術はついに解かれたが、騎士たちはそれが何の魔術であったかも知らぬままだった。
「こんなことをしてよいのですか? 彼女はアウラの関係者に違いありません。彼女の報復が怖くはないのですか?」
調査のため彼らに同行した学者はそう言って、騎士たちを見回した。騎士たちの長は笑いながら、剣に付いた血をぬぐった。
「俺たちァ夢の中の女は怖くねェンだ。夢なんざ見ねェからな。さァ、仕事を済ませちまおうぜ」
そして騎士たちは照らし始めた朝日のもと、アウラの城跡へと踏み入ったのだった。
騎士たちが通り過ぎた後、忠実なる猛犬は少女の体を背に担ぎ、誰もいない安全な隠れ家へと連れていった。少女と犬は互いをかき抱きながら、暗闇の中でまもなく死を迎えようとしていた。
「……コララディ、私の友達。あなたには二つの道があるわ」
冷たいまどろみの中で、少女はアウラの声を聞いた。
「このまま死を迎えて、永遠に幻影城の住人となるか。それとも生死の境に留まって、ここで終わらない夜の中で眠りにつくか。あなたはどちらを望む?」
アウラの質問に、少女は心の中で問い返す。
「わんちゃんは、一緒にお城に来られる?」
「彼は来られないわ。獣は夢をみないから」
「……そっか。じゃあ、わたしはここにいるよ。この子と一緒にいる」
少女はそう答えて、力ない指で友の毛だらけの体を撫ぜた。
「あなたの心の欲するままに」
アウラがそう言うと、少女の体からふっと痛みが消えた。そして、途絶えた夜の魔術が再び森を満たしていくのを感じながら、彼女は長い眠りへと落ち込んでいった。
抱きかかえた獣のぬくもりは、もうほとんど消えかけていたけれど、それでもまだゆっくりと息をして、そのたゆたうような反復は、少女をずっと安らかに眠らせてくれたのだった。
そんな風にして、彼女の冒険は終わった。それから現在に至るまで、アウラの居城跡を囲む森から外に出てきた者はいない。
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