第26話 第一夜/手負いの獣
「なんだよっ! この竜、知り合いか!?」
カナリヤが竜だってことを知らない(そもそもカナリヤって名前も知らなかったか?)アンナが叫ぶ。馬車に乗ってる間になんで話しておかなかったんだ、俺は。カナリヤが知られたくなさそうだったから? いや、今はそれを考えてる場合じゃない。
目玉から血を吹きながら、手負いのカナリヤはかえって死に物狂いで攻撃を仕掛けてきた。
「シュゥッ!」
竜の牙がアンナのすぐそばを通り過ぎる。すっと避けて大鎚で威嚇するものの、アンナは攻撃を仕掛けない。俺が余計なことを言ったから……でも、どうすればいい。カナリヤを殺させるわけにはいかない。
「ヴィバリー、どうする!?」
「どうするも何もッ。仕掛けてきた獣を生かす理由はない!」
ヴィバリーは俺の言葉など聞く耳持たず、風のように素早く踏み込んでカナリヤの太い足を何度も突く。だが、肉で剣を止められることを恐れてかまだ深くは貫けてはいないようだ。
まだ困惑しつつも、アンナも「白」の判断に従ってカナリヤの足止めにかかる。
「らぁっ……!」
ヴィバリーとは別方向から回り込み、足元を薙ぎ払う。避けようとするカナリヤだが、爪の先を大鎚で打たれて空中でバランスを崩し、ぐるんと地面に叩きつけられる。とりあえず動きは止まったが、巨大なトカゲの鼻からシュ、シュと断続的に荒い息を吐き、まるで半狂乱だ。
「おいっ、カナリヤ! 聞こえてるなら人間に戻れよ! 殺されるぞ!」
無駄のような気はしつつも呼びかけてみる俺。カナリヤは一瞬首を上に向けたが、反応はそれだけだった。彼女は必死に体をばたつかせて、まだ起き上がれずにもがいている。目をやられたせいでバランスが取れないのかもしれない。
「人間……こいつが?」
戸惑うアンナに、ヴィバリーが冷徹に指示を出す。
「ためらうな。頭を砕け」
「おい! 本当に殺す気なのか……?」
思わずぞくっとする俺。いきなり襲われた以上、そうする権利があるってのはわかる。でも、顔見知りの相手を……こんな風に何の恨みもないまま殺しちまうのか。カナリヤがどんな子なのか、何をしたかったのかもわからないまま。
「迷っていたら死ぬ。殺気でわかるわ。あれはただの獣。『カナリヤ』じゃない」
早口に言うヴィバリー。それは「カナリヤとは別人」ってことなのか、それとも「もう正気が残ってない」ってことなのか。わざとぼかして言ってると思うのは、俺が穿ちすぎなのか。
「二人なら、殺さずにあいつを止められるだろ!?」
馬車での会話を思い出して、俺はすがるように言う。自分でも、みっともないぐらい必死に。理由は自分でもわかってる。カナリヤは俺が一度殺しかけた相手だ。せっかく生きていたのに、結局死なせてしまうのが嫌なんだ。これ以上、俺が殺した人間が増えるのが怖い。直接手を下したのでなくても。
「グァァァッ!! ゥゥルルゥ……」
唸り声をあげて、カナリヤは土の上でのたうった。尾っぽで周囲の木々を叩きながら、まだ開いている片目でぎょろりと俺たちを見た。殺気があるかないか、俺にわかるはずもない。だが、すぐにでも起き上がれるだけの力はまだ秘めている。
「ふざけるな。私の団員の命を、ろくに知らない女のために危険にできるかッ!」
ヴィバリーの叫ぶような怒りの声に、打算はなかった。
その声を聞いて、俺にもやっと現実が見えた。俺の腕の下にはぐったりしたユージーンがいる。アンナかヴィバリーか、どちらかが倒れでもしたらあとは俺たちがやられる。カナリヤ一人を生かそうなんて甘いことを言ってたら、俺たち全員が死ぬかもしれない状況なんだと。誰も死なないでくれなんて思うのは、わがままでしかないと……魔術師でもない俺には。
力なくうろたえる俺に、アンナがちらりと振り向いた。
「トーゴ。やれるだけはやる。期待はすんなよ」
静かにそう言って、アンナは大鎚を構えてゆっくりとカナリヤに歩み寄る。
「馬鹿なこと……アンナ!」
舌打ちして、ヴィバリーが追う。その瞬間、ぐったりと地面をのたうっていたカナリヤの動きが変わった。ローエングリン戦で見せたような、目にも留まらぬ速さで木々の幹を駆け上がり、視界から消え失せていた。
罠だ。俺たちを油断させるために、実際以上に弱ったふりをしていたのだ。
「あぁっ!?」
面食らうアンナの声。彼女は素早く頭上に大鎚を振りながら、次の攻撃に備えて目を上下左右に走らせる。俺もアンナの動きを追いながら、カナリヤがどこに着地するかを見定めようとした。
だが――その時にはもう遅かったのだ。
「ぢぃ……っ」
くぐもったうめき声が聞こえた。一瞬、誰の声かわからなかった。
「ヴィバリー!!」
アンナが叫び、ごうっと激しい風が巻き起こった。アンナの大鎚が空気をねじ切るような猛烈な力で回転し、俺のすぐ横に振り下ろされる。
ごきん、と骨のへし折れる音がした。俺は反射的にそちらを振り向いて、ぼろきれのように地面に叩きつけられたカナリヤの無残な姿を一瞬見た。彼女は――その物体は、もう生き物の形をしていなかった。俺は自分の肺からふーっと空気が押し出されるのを感じながら、ゆっくりと視線を動かし、ヴィバリーを見た。
「ぐっ……うぅ……」
崩れるように膝をついた彼女の首元には、大きなカナリヤの頭がはっきりと食らいついていた。その爬虫類の不可思議な瞳は光を失い曇っていたが、鋭い歯は死してなお深々とヴィバリーの肉に入り込んでいた。
「あ……!」
呆然とした声を出しつつ、ユージーンが俺の腕をはねのけて駆け出す。止める間もなく、彼女は素早くヴィバリーに近寄って、カナリヤの顎を外そうと手をかけていた。
「待て! あたしが外す」
アンナが冷静に声で制して、ユージーンの手をそっと外した。その意図は俺にもわかる。カナリヤの牙は明らかに骨まで達しており、乱暴に外せばかえって傷を広げてしまうかもしれない。
ぐったりしたヴィバリーの背をそっと支えながら、アンナは傷口の様子をのぞきこむ。それから目を細め、彼女の耳元にささやく。
「外すぞ」
ヴィバリーが小さくうなづくのを見て、アンナはぐっと力を込めた。竜のよだれと人の血が混じったねばつく嫌な音とともに、少しずつカナリヤの大顎がヴィバリーの肩から外れていく。同時に、ヴィバリーの顔が激しくひきつる。そうする力があれば叫び出していただろうと思うほどの悲痛な表情。いつもほとんど動かない彼女の顔と、同じものは思えないような歪み。
「ヴィバリー……」
おろおろするユージーンを横目に、俺は焦燥とともに、覚えのある匂いを嗅いだ気がした。本当の匂いというより、なにか雰囲気のようなもの。血が流れているのに、どこか冷めた空気の味。あの部屋と同じ匂い。
――死の匂い。
「大丈夫、すぐ手当てする」
おそらく俺たち全員に向けてそう言って、獣の顎から解放されたヴィバリーを抱きかかえながら、アンナはゆっくり歩き出した。どこへ向かうのかもわからず、後をついていく俺とユージーン。ユージーンはいつのまにか、アンナが放り出していた大鎚のビリーを抱えていた。それが大事なものだと知っているからだろう。
そのうち、アンナがぽつりと言った。
「振り向くなよ、トーゴ」
言葉の意味はすぐに察した。殺されかけても、知り合いの死体は見たくないだろうと。
言われるまでもなく、俺は振り向かなかった。そこに何が転がっているかわからないから。カナリヤの死体が、いつまでも竜のままでいるかどうかわからなかったから。
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