第23話 第一夜/砂塵騎士団
森の中に踏み込んでまもなく、夜が来た。
濃く茂る木々に遮られて夕日は見えなかったが、歩くうちにふっと周囲が暗くなった。時計のない世界ってのは時間の感覚が曖昧だ。まだせいぜい4時くらいだと思ってたんだが。
森は湿って淀んだ空気に満ちていた。ユージーンはやはり不快そうにキョロキョロしていたが、俺は不思議とその湿度の高い空気が嫌いではなかった。日本の空気を思い出させるからだろうか。すっかりこっちに慣れたつもりでも、体はやっぱり元の世界を覚えているのか。
「しっかし暗いなぁ……こっちの森って嫌いだよ。北部の森はもっと月明かりがあって、犬も吠えてて、快適だったのに」
グチグチとつぶやきながら、先頭を歩くアンナ。いつもなら夜目のきくユージーンが前を行くところだが、今はアンナのデカい背中に隠れてとぼとぼ歩いている。それにしても、犬が吠えてて快適って感覚はよくわからない……
「月明かりがないのは広葉樹が多いせいよ。オーランド辺りの木々とよく似ている。でも、葉も幹も大きい……荒野になる前の、大陸西部の植生が今も残っているのかしらね」
そんな風にぶつぶつ言いながらしんがりを務めるヴィバリーは、俺の後ろで興味深そうに周囲を見ている。
「あっつ……! くそっ、またコケそうになった。松明点けていい?」
前の方でドタバタしながら、アンナが言う。だがヴィバリーは冷たい声でそれを制した。
「やめて。先客に気づかれたくない」
「先客……?」
思わず聞き返す俺。俺たち以外にもこの森に誰かがいるのか。西は無人の荒野って話だったはずだが……月光騎士団といい、ウロウロしてる奴が多すぎやしないか。
「足元をよく見て。複数の足跡、折れた木の枝、布の切れ端まで落ちていた。それも、古いものじゃない……すぐ近くにいる」
ヴィバリーもその不自然さが気にくわないらしく、目を細めて木々の奥を睨む。
「でも、こんなとこに誰が来るっての?」
深く考えてなさそうな声でアンナが言う。フードゥーディの時はもうちょっと脳みそを使ってた気がするが、ヴィバリーが一緒だとすっかり彼女にそういう役目を任せているようだ。腕力担当の「青」としては、それでいいのかもしれないが。
「……フユコが、呼び寄せているのかもしれない。ローエングリンみたいに仲間に引き込んだ魔術師、あるいは人間たちに自分を守らせているか」
冬子の名前が出たので、俺は夢の中で見た妹の姿を思い出す。この先にいるのは、俺の知っていたあいつじゃない。じめっとした場所に引きこもってるのは同じだが、もっと頑なで……なんというか、アグレッシブだ。ヴィバリーの言う通り、自衛のためなら他人を使うことも厭わないだろう。
「どっちが狩られる側なんだかって感じだな。で、どう動く? 団長」
「今はユージーンが使えないから、私が先行して偵察する。奥の様子がわかったら、合図を送るわ。弓を貸して、ユージーン。矢は一本でいい」
ヴィバリーにそう言われて、ユージーンは背中にしょった弓をひょいと投げて渡した。面と向かって「使えない」と言われたことは特に気にしていないようだ。
彼女の強弓は、大人のヴィバリーが持ってもなお不釣り合いに大きく見えた。よくもまあ、こんなものをひょいひょい振り回せるもんだ。ヴィバリーは何度か弦をひいて、その固さを確かめる。
「さすがに引ききるのは無理か……まあ、用途には足るでしょう」
「矢文でも射るのか?」と、尋ねる俺。
「そんなようなものね。あなたたちはこのまま警戒しながら、なるべく静かに進んで。止まって欲しい時はそっちに矢を放つわ。相手の数だけ、矢じりに傷をつけておく。ユージーンに刺さらないようによく見てて、アンナ」
「はいはい」
軽く返事をして、手を振るアンナ。ていうか、俺には刺さってもいいのかよ……
「それじゃ、行ってくる」
短く言って、ヴィバリーは頭の後ろに手を回し長く垂れた黒髪をしゅるりと持ち上げたかと思うと、ものの数秒で髪をまとめて簡単に結い上げ、小さいピンのようなもので留めてお団子ヘアにしてしまった。隠密行動の邪魔になるってことだろう。
手早い身支度が終わると、ヴィバリーは近くの木の幹に手をかけて、ひょいひょいと上に登っていった。手を伸ばし、枝から枝へ音もなく飛び移っていくその姿は、まるでユージーンのようだ。彼女の姿は、すぐに夜の木々の陰にまぎれて見えなくなった。
「すげぇ……なんでもできるんだな、あいつ」
思わずぽつりとこぼす俺。アンナは身を屈めて歩き出しつつ、そのつぶやきに答える。
「歳のわりに経験豊富だからねぇ。昔はどっかの騎士団で『赤』をやってたってさ。ユージーンに戦い方を教えたのもあの子だし。まぁ別に、木登りぐらいならあたしもできるけど……やんないだけで」
なぜか張り合う風に言って、むっと口を尖らせるアンナ。自分の足元をちらちら見ているところからすると、体格の違いを気にしているようだ。確かに大柄な彼女が木の上に登ったら、目立つことこの上ないだろう。というか枝が折れそうだ。彼女の場合、木を引っこ抜いて振り回す方が似合っている。
どこぞの吸血鬼漫画よろしく丸太を振り回すアンナの姿を想像して内心笑っていると、暗闇でもはっきりわかるほどの鋭い目つきでアンナがこちらを睨んでいた。どうやら顔に出ていたらしい。
「……あんた、今何考えてた?」
「別に……」
夜の闇に顔を逸らして、ごまかす俺。
「とにかく、静かに進もうぜ。敵がいるかもしれないんだろ」
そう言うと、アンナは渋々黙り込んだ。
歩く順番はいつの間にか、俺が先頭になっていた。我ながら、ずいぶん度胸がついたものだ。ローエングリンの戦いを間近で見たおかげかもしれない。どんな敵が待ち受けているかわからないが、さすがにあいつより強いってことはないだろう。
――それから10分ほど歩いた頃だろうか。不意に、足下でころころしていたユージーンが声をあげた。
「……矢」
その一言で十分に状況を理解した俺は、とっさに身を屈めて両腕で頭をかばう。遅れて、上からヒンッと風を切る音が聞こえた。ユージーンが放つ矢と違って、音が聞こえた瞬間すでに刺さっているような速度ではなさそうだが……おそらく俺の脳天ぐらいは簡単に貫くだろう。
次の瞬間、無事にアンナが矢を手づかみにする音が聞こえた。ほっと息を吐いて、腕を下ろす俺。
「敵、何人いるって?」
「……妙だな。矢じりに傷がない」
アンナは握りしめた矢をじっと見て、低い声で言った。
「それって、つまり、どういうことだ……?」
想定外の事態に弱い俺は、思わず震える声で尋ねる。ヴィバリーがやられたとか、数え切れないほど敵がいるとか、悪い想像ばかり頭に浮かぶ。
「さぁね。とりあえずここで待つ。二人とも、木の陰に隠れて」
言われるままに、その場を離れて手近な大木に背中をくっつける俺。アンナとユージーンも瞬時にどこかに隠れたらしく、俺の目には草と木しか見えなくなっていた。さすがプロは違う。
やがて、景色に小さな変化が起きた。黒一色の世界に、ちらちらとかすかなオレンジが混じる。明かりだ。ヴィバリーが向かっていった森の奥から、こちらに近づいてくる光。懐中電灯――じゃなくて、松明を持った誰かが歩いてくる。
手のひらに汗がにじむ。敵か否か……見えないどこかで、アンナも武器を構えているに違いない。敵なら、隙をついて攻撃する必要がある。いや、俺は攻撃する必要ないか。
「2人とも、武器を下ろして。私よ」
緊張する俺たちの耳に聞こえてきたのは、ヴィバリーの声だった。ほっとして力が抜ける。
「事情が変わった。3人とも、ついてきて」
「どーいうことだよ、それ。警戒しろって言うから警戒してたのに。結局、誰もいなかったってこと?」
ガサゴソと音を立てて、少し離れた位置から姿を表すアンナ。暗くて顔は見えないが、不満げなのは声でわかる。
「先客はいた。でも、どうやら敵じゃない……今のところは。まあ、来ればわかるわ」
曖昧な説明をして、さっさと歩き出すヴィバリー。おずおずと近づくと、松明の灯りでヴィバリーの横顔が見えた。森に入る前のように、緊張した冷たい面持ちだった。敵じゃないとは言うが、それにしては様子がおかしい……一体、何と出くわしたというのか。
少し歩くと、森の奥に同じ炎の灯りが見えてきた。ヴィバリーが掲げた心もとない光より、もっと明るく大きな光だ。それに、ぼそぼそと話し合う声。数人の、男の声だ。
背中をぐっと引っ張られるのを感じた。ちらっと後ろに目をやると、ユージーンが俺の上着をつかんで隠れるようにしていた。どれだけ弱ったって俺より100倍は強いくせに、知らない大人は怖いのか。
「おぉイ、さっきのねーちゃんの連れかィ? んやーぁ、急に華やいだねェ」
訛りの強い男の声が聞こえた。大きな声に、俺まで一瞬ビクッとする。ヴィバリーは何も答えず、火を囲む男たちの中にずかずかと踏み込んでいった。
そこには、4人の男がいた。リーダー格らしいのはさっきの声のでかい、もじゃもじゃ髭のおっさん。仲間らしき男たちは、山賊かと思うほどぼろっちい装備を着ているが、顔つきは朴訥としてガラは悪くなさそうだ。
「何なんだ? このおっさんら……」
言いたかったことを、アンナが代わりに言ってくれた。
「んぁ? ああ……俺たちァ、護法騎士団の端くれさ。銘は『砂塵騎士団』。ゆうて、名前ほど大した騎士もいねェんだが。戦い向きの人員じゃねェんでな」
もじゃ髭のおっさんが、人のいい笑みを浮かべて言う。護法騎士団……チェーン展開してる安上がりな騎士団だったか。最近、どっかでその名前を聞いたような……
「こんなとこまで、何しに来たん……ですか?」
年上の相手だからか、思わず敬語で尋ねる俺。おそらく、ヴィバリーがとっくに交わした会話なのだろうが、砂塵騎士団のおっさんは面倒がるそぶりもなく答えてくれた。
「あァ、そりゃちょいと調査によ。
「調査団……?」
何か、大きな違和感があった。まだ、はっきりと頭の中で情報がつながりはしなかったのだが。何かが、はっきりとおかしい。
「夕暮れに鳥を飛ばしたんで、明日の朝には返事があるだろうよ。こんなじめっぽい森、さっさと出ちまいたいんだがねェ。まぁ、学者さんは遺跡だなんだ見れて楽しいみてェだけどよォ」
男たちは顔を見合わせて、けらけら笑う。
その親しげなやりとりを聞きながら、俺はじわじわと事態に気がつきはじめた。この会話……鳥を飛ばしたとか。遺跡の調査だとか……あまりに符合している。そもそもこんな僻地で、見知らぬ騎士団同士が同じ時間、同じ場所で出くわすことがおかしかったのだ。
「こ、これって……」
ヴィバリーの方を見て、俺は口をぱくぱく動かす。彼女は小さくうなづいた。
「そういうこと」
「……どういうこと?」
全然わからん、と言いたげに横できょとんとするアンナをよそに、俺は頭がくらっとするのを感じていた。
こいつらは、ヴィバリーが森に入る前に話していた連中だ。護法騎士団が、100年前に送り出した調査団……100年前のおっさんたちが、今、俺たちの目の前にいるのだ。
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