第20話 獣のように

「危ないっ!」

 ようやく俺の口から声が出た時には、すでにガキンッと金属の打ち合う音が響いていた。

 瞬間、天幕の入り口にいたカナリヤは、一気に吹っ飛ばされて俺のすぐ隣まで後退していた。地面にずざっと踏ん張って、エルフの馬鹿力をどうにか転ばずに相殺するカナリヤ。得物の大曲剣は、両手で柄と刃の裏を持ってどうにか支えている。おそらくこいつで一撃を受け止めたのだろう。

 対するローエングリンは、全身に鎧をまとった姿で天幕の入り口にすっくと立っていた。こうして間近で真正面から相対するのは、現実世界では初めてだ。彼女は一瞬だけ俺に目線を向けたようだったが、すぐにカナリヤへ向き直った。この場で唯一、まともに戦う力があるのは彼女だけだ。

「読み違えちゃったか……」

 絶望的な状況にもかからわず、軽い口調でつぶやくカナリヤ。悪鬼の頭のようにゴツゴツといかめしい兜をゆらし、ローエングリンがこちらへゆっくりと歩いてくる。

 全身から汗を吹き出して震える俺の耳に、ヒュボッと風を切る鋭い音が響いた。ユージーンの矢だ! だが、思わぬ援軍に喜ぶ暇さえローエングリンは俺たちに与えてはくれなかった。俺が「ユージーンの矢だ!」と気づいた時にはすでに、矢はしっかりと彼女の手で受け止められていたからだ。

 ローエングリンは一瞬くいっと体をひねり、素手で矢を投げ返した。飛んできた時と同じヒュボッと鋭い音を立てて飛んでいく矢。天幕にさえぎられて、その行く手は見えなかった。ユージーンのことだから、無事だとは思いたいが。今は何より、自分の身が危うい。

「……小鳥カナリヤ。歌ってごらん」

 芝居がかった言葉とともに。ローエングリンの姿がさっとかき消えた。そして、たった今立っていた場所で、からんと落ちる鎧。霧だ。熱源である篝火を通り過ぎた以上、もはやわざわざ生身でいる必要はない。

 反射的に、俺は右に体をよじらせていた。ジェミノクイスとガートルードを守ろうとした、と格好良く言うこともできるが、実際のところは右に避けるか左に避けるかで、利き腕の方に動いただけかもしれない。とにかく、俺は剣を前に構えたまま無意識に右に動いて、飛び込んでくる「死」に備えて目をぎゅっと閉じた。


 だが――数秒後も、俺は死んでいなかった。恐る恐る、目を開く。

 天幕の中には、誰もいなかった。もちろん俺はいるし、あとは背後の息遣いでジェミノクイスとガートルードもそこにいるとわかった(ガートルードは死んでるが)。だがローエングリンとカナリヤの姿が、綺麗さっぱり消えていたのだ。

 何が起きているのかわからず、息が荒くなる。敵ってのは、どうやら見えてる時の方が見えないよりましだってことに初めて気づく。

「カナリヤ……?」

 無意識に口からもれるつぶやき。俺は自分で思ってるよりこの謎めいた少女が気になってるらしい。いや、今そんなこと考えてる場合じゃないってことはわかってるが。

 気が動転した俺の耳に、部屋のどこかで誰かがぼそっとつぶやく声が聞こえた。


「うだうのは、あんただよ」


 肝が冷えるような、深く低く、くぐもった声。俺の知ってる誰の声でもない。

「あ……?」

 戸惑う俺をよそに、天幕の中を薄く満たしていた霧がすっと収束した。目の前で、地面に低く身を伏せる裸のローエングリン。まるでつぶれたみたいに身を低くしているので、一瞬倒れているのかと思った。だが、違う――彼女は跳び上がるために「ばね」を溜めていたのだ。

 次の瞬間、頭上でガキンッ! と金属を打ち合う音がした。霧の中から聞こえたのと同じ音だ。そして、二つの影が天幕の上からどさりと地上に落ちた。一つは、銀色の剣に血をつけたローエングリン。もう一つは……あれは、何だ?

「シッ……やっぱり、わらひが貧乏クじゃん」

 その大きな緑色のかたまりは、ドスの効いた舌ったらずな声でぶつぶつ言いながら、地面からぬっと首をもたげて身を起こした。長身なローエングリンのさらに1.5倍はある巨体。緑色の肌をびっしりと覆うトゲのようなもの(ウロコか?)。そしてぎりりと食いしばる鋭い牙。

 つまりそれは、「竜」だった。トカゲと言うにはあまりに大きく、手足も長い。リザードマンとかありがちな名前で言うには、前傾姿勢で爬虫類じみていた。恐竜で言えば、ヴェロキラプトルに似ているだろうか。

 ぼんやりとそんなことを考えながら、俺はこの理解不能な状況をどうにか理解しようとつとめた。いや……最初に目に入った瞬間から、俺はなんとなくこの怪物の正体に気がついていたのかもしれない。ただ、それがあまりに受け入れがたかっただけで。そもそも、この場には他に該当する人間はいないのだ。

「か……カナリ……ヤ? なのか?」

 震える声でつぶやくと、その竜人はローエングリンと向き合ったまま、片目だけぎろりと別の生き物みたいに動かして、俺を一瞥した。その瞳の模様と色はカナリヤと同じ、不思議にひびわれたオレンジ色だった。

「わがっでると思うけど。こっちないでよ」

 そう言い捨てると、彼女は首をぐいとひねった。首の動きに合わせて、鈍い銀のきらめきが空気を切る。さっきは位置的によく見えなかったが、その鋭い牙の間には、ガートルードの大曲剣の柄が噛み締められていた。カナリヤが細腕でどうやってあの大きな剣を振るのかと思っていたが、彼女は最初からこうやっていかついアゴを使う気だったのだ。

「エルフのにぐは、美味いっでさ……そいつガートルードが言ってたよ」

 表情のわかりづらい口をぐっと歪めて、カナリヤは不敵に笑った。


 この目で「竜」を見るのは、これで二度目だ。一度はフードゥーディのつくりものの竜。そして二度目は、人間の皮をかぶった竜の騎士――いや、どっちがカナリヤの本性なのかは知らないが。

「シュグルルル……」

 カナリヤの喉から、低い唸り声が響く。通りの悪い排水管に風を通したような、気色の悪い音だ。恐竜は鳥の祖先というが、カナリヤの鳴き声にはほど遠い。

 ローエングリンはこの得体の知れない敵を警戒してか、攻撃の手を止めて様子見をしているようだった。そりゃそうだ。どんな剣の達人でも、デカい剣を口にくわえた恐竜からどんな攻撃が繰り出されるのか、とっさに想像がつく奴はいまい。手足の鋭い爪に太い尻尾、全身見るからに凶器だ。

 それにこの巨体では、ガートルードを相手にした時のように関節技で動きを封じるわけにもいかない。そもそも関節の構造も人間とはまるで違うのだ。

「……ふ」

 小さく息を吐いて、ローエングリンがくんっと体をねじりながら身を伏せた。その体は地面に溶けて、霧となって天幕の中に薄く広がっていく。自分の足下まで霧が満ちてくるのを見て、俺は思わずとっさに立ち上がってシッシと足で霧をはたく。

 だが、ローエングリンが俺やジェミノクイスを狙っていないのは明らかだった。無力に等しい俺たちなど、こいつが殺す気ならとっくに済ませている。狙いはあくまで戦力、つまりカナリヤだ。

 カナリヤは再びだんっと跳び上がって、天幕を支える鉄の骨組みを片足でつかんだ。その姿を追うように、霧から実体化したローエングリンの剣が走る。アゴをひねって刃を振るい、剣を打ち払うカナリヤ。エルフにも劣らぬ筋力と瞬発力だ。

 数度の打ち合いで、薄明かりの天幕の中に火花がぱっと散る。ローエングリンは空中で霧に溶け、剣を振ってはまた霧に溶けて、カナリヤを切りつけていく。カナリヤもその剣撃の全てを弾き返せているわけではないらしく、時として剣閃はカナリヤの鱗の継ぎ目を走り、赤いしぶきを散らせる。だが、竜の肉体はさすがに強靭で、切られても切られても一向に動じることなく反撃に転じていく。

「シギャァァァァッ!!」

 天幕から逆さにぶら下がったまま、アゴを大きく開いて咆哮するカナリヤ。歯の間から滑り落ちていく剣を、足の爪を器用に使って空中で拾い上げ、風車のように振り回す。霧から実体化しかけたローエングリンは、とっさにそれを剣で受け止め、吹き飛ばされながら再び霧に溶ける。

 ――何だよコイツ、めちゃくちゃ強いぞ。無敵に見えたローエングリンがほとんど完封されている。

 というか、この頭上をとった状況自体がカナリヤに有利なのかもしれない。ローエングリンは霧になってどこへでも移動できるが、攻撃の瞬間は生身になって剣を振る必要がある。つまり足で踏ん張れない空中では、いつものように鋭く重い攻撃ができないのだ。

 斬りむすぶうちに、ローエングリンもそれを悟ったのだろう。彼女は攻める手を休め、霧に溶けたまま姿を消した。

 逃げる気ではないはずだ。かといって、このままカナリヤが疲れて落ちてくるのを待つとも思えない。天幕の外では3人の騎士たちが、こっちに向かっている。外の霧の中ならともかく、篝火のど真ん中にいるこの状況で4対1になればローエングリンに勝ち目はない(と思いたい)。彼女は何としてでも、今ここでカナリヤを始末したいはず。

 俺はすがるように、頭上のカナリヤをちらりと見上げた。正直に言うと、その変わり果てた姿を俺はまだ直視できなかった。この世界に来て色々と変なものは見てきたが、ユージーンの体みたいに「最初からそこにあった」わけじゃなく、まるで別種のものに変わってしまうってのは――何というか、生理的に受け入れがたい。

 そんな、俺の内心の恐怖を見透かしたわけじゃなかろうが。カナリヤの縦に割れた瞳が、不意にぎゅんっと動いて俺を見た。

「逃げで」

 カナリヤの発したくぐもった声の意味が、俺はとっさに理解できなかった。この有利な状況で発する言葉には思えなかったからだ。だが、続いて周囲から響いてきた音で、俺も状況の変化に気づいた。

 カカコン、カカコン、とキツツキが木をえぐるような音。四方から時計回りに、徐々に大きくなりながら耳に響いてくる。見回すと、天幕を支える4本の鉄の支柱が、見えない何かに叩かれてどんどん折れ曲がりつつあった。

 ローエングリンはカナリヤの優位を消すために、天幕そのものをなぎ倒すつもりなのだ。カナリヤは彼女の姿を追って頭上から剣を振るが、その瞬間すでにローエングリンは次の支柱に剣を打ち込んでいる。やはり、地上ではローエングリンの方が早い。

 バキン! と音がして、支柱が一本へし折れた。細いとはいえ、金属製の支柱がだ。天幕の布が大きく揺らぎ、入り口の穴がふにゃりとたわんで潰れる。最初はちょっと優位に立つためにこんな手間をかけるのかと思ったが、あとほんの数秒で天幕は崩れるだろう。

 とっさに、判断する暇もなかった。自分でするべきことを探すなどできるはずもなく。

 俺は、与えられた選択肢を受け取って、実行した――すなわち、逃げた。



 俺はすでに天幕の端近くまで下がっていた。だから外に出るには、後ろを向いて天幕をめくり上げて、転がり出るだけでよかった。

 ――屈み込む一瞬、視界の端にジェミノクイスの横顔が見えた。すぐ背後で繰り広げられる人外同士の争いには一切目もくれず、じっと思い人の死体に手を掲げて、ぶつぶつ何かをつぶやいている。きっと「我が愛しの君」とかなんとか言っているんだろう。

 彼女たちを守らなきゃいけないなんて意識は飛んでいた。ここに残っていたら、俺は死ぬ。死にたくない。薄汚く、泥臭い生存本能に突き動かされていた。そして何よりもカナリヤの言葉が、俺の背中を押していた。もう「逃げて」いいのだと。俺の役目は果たしたんだと。実際には何も果たしていないとしても……


 天幕の外は、嘘のように静かだった。布一枚隔てただけで、激しく打ち合う二人の剣戟の音ははるか遠くに思えた。

 俺は荒い息をしながら、仲間の姿を探した。ヴィバリーとユージーン。二人を見て、安心したかった。だが、篝火のそば以外はまだ深い霧に覆われていた。ユージーンにはこっちが見えてるかもしれないが、俺からは無理だ。

 ゴキンゴキンと背後で連続して重い音がした。もう二つ、支柱が折れたのだ。カナリヤがヤバい。いや、この瞬間にももう死んでるかもしれない。俺には判断しようもない。何しろ、完全に一人きりになってしまった。指示をする奴も、意見を聞ける奴もいない。夜の中、霧の中に俺一人だ。

 天幕から離れたかったが、霧に逃げ込むのは怖かった。ローエングリンがカナリヤを殺して外に出てきたら、霧の中は一番危険な場所だ。俺は天幕の外側に、つまり篝火のそばに立ちすくんだ。火の暖かさだけが、今は頼り甲斐があった。


(どうする……)

 久しぶりに、自分自身に話しかける俺。答えなんか出てくるわけがない。このままじっとして、他の奴らがローエングリンに勝つのを待つしかないんだ。

(もし、誰も勝てなかったら?)

 ごくり、と唾を飲む。そんなこと、俺に聞くんじゃねえ。

(もし、みんな殺されたら?)

 答えはよく知ってるはずだ。一緒に死ぬしかない。死ぬしか、ないんだ。


 そう自分に向かって答えた瞬間。すぐ横で、ヒュウッと風が吹いた。天幕の布がひらめき、続いてパカッと何かが弾けるような音。視線をそちらに向けると――篝火が、横に倒れていた。地面に散らばった薪木はまだくすぶっていたが、炎はすでに微かなちらつき程度になっていた。

「あ……?」

 予想外の出来事に、硬直したまま間抜けな声をあげる俺。

 篝火が一つ、消えた。半分崩れた天幕の中で、素早く動く影が二つ。カナリヤはまだ生きているらしいが、天幕がほぼ崩れた今、彼女はもうローエングリンを抑えられていない。でなければ、篝火が消えるはずはない。

 そのうち、二つ目の篝火が音を立てて吹き飛んだ。厳然たる最悪の事実が、俺にもはっきり理解できた。ローエングリンが、俺たちの最後の強みである篝火を消そうとしている。カナリヤと戦う合間をぬって、中から篝火を蹴り倒しているのだ。火が全て消えれば、もう勝ち目はない。俺だけじゃなく、この場にいる全員の100%の死が確実になる。

 そう考えた途端、アンナを殺されかけた瞬間の嫌な気分がよみがえった。もし、これから血を流して倒れるのがユージーンなら? ヴィバリーなら? 今ここに、都合のいいワープ屋の魔術師はいない。

 ことここに至って、俺はようやく本気で自分の脳がフル回転するのを感じた。この化け物を殺すために、俺にできることはないのか。あるはずがないとわかっていても、それでも答えを求めて頭に血を送る。

(死にたくない、死にたくない……! ちくしょう、死ぬな……!)

 力がなくても、逃げられないならあがくしかないのだ。動物みたいに、血をすすり泥を這ってでも。


 ――動物、という言葉を思い浮かべた時。ふと、前に聞いたヴィバリーの言葉が脳裏をよぎった。

『……人を超えたものに食らいつくには、こちらも人を超えなければならない。個人としての心と魂を捨て、騎士団という一つの獣の血肉に――』

 篝火が立て続けに二つ消し飛ぶ音。全部でいくつの篝火があったか、覚えてなんかいない。深呼吸する。追い詰められた獣のように。言葉でなく、感覚で考える。理性も倫理も捨てて、仲間を生かし、獲物を殺す方法を。

(あいつを殺すんだ。殺せ。殺せ!)

 自分に暗示をかけるように言い聞かせながら、俺は頭にひらめいた答えを反射的に実行した。

「……くたばりやがれ、化け物め」

 自分が何をしているか、考えている暇もなく――俺は拠り所にしていた目の前の篝火に向かって、体重を乗せた蹴りを放った。篝火は勢いよく、天幕に向かって倒れこんだ。火が天幕に燃え移る瞬間、すれ違うように一つ隣の篝火が消えた。俺は、ギリギリで間に合ったのだ。

 炎は見る間に燃え広がった。もしかすると、月光騎士団は最初からこういう結果も勘定に入れて、燃えやすい布を使ったのかもしれない。

 そうやって他人事みたいに思いながら。俺は少しずつ、自分のしでかしたことの恐ろしさを考えた。ジェミノクイス。カナリヤ。ガートルードも。俺がたった今、火をかけて見殺しにしようとしている人間のことを。

 違う。「見殺しに」じゃない――俺は、敵を殺して自分が生き延びるために、彼女たちを焼き殺そうとしているのだ。誰に言われたわけでもなく、俺自身の判断で。

「最悪だ、ちくしょう……」

 燃え上がる天幕の中で、なおも剣を切り結ぶカナリヤとローエングリンの影を見ながら、俺は呟いた。何よりも最悪なのは、自分がそれでも最善の判断をしたのだと思えてしまっていることだった。


 そして、二つの影が動きを止めた。

「ハァ……ハァ……」

 荒い息が口から漏れる。キャンプファイアみたいに燃え上がる天幕の中で、カナリヤの巨体が揺らぐ。ついで、布に吹きかかる血。わかりきった、ローエングリンの勝利。逃げ出したいが、逃げられない。足はすくんでいるし、それに俺は見届けなくちゃならない。自分が手を出したことの結末を。自分が放った炎のゆくえを。

 やがて、炎の中から銀色のきらめきが現れた。天幕の布を切り裂いて、空へと伸びる剣の切っ先。それを握る、血濡れた手。裸身が布の切れ目をくぐり、炎の熱気から冷たい夜へと逃れ出ようと蠢く。その鈍い動きを、エルフの鋭い目が見逃すはずはなかった。

 キュンッと音がして、ユージーンの矢が飛翔する。熱のせいで霧に溶けて避けることはできない。同じ瞬間、ローエングリンの手は剣の柄ごと射抜かれていた。矢の勢いに引っ張られるように体勢を崩すローエングリン。それが、形勢逆転の鏑矢だった。

 最強のエルフは地面を蹴って、火の中から空へと飛び出る。火を逃れて、冷たい地面に降りるつもりだったんだろう。火の熱から離れさえすれば、彼女は再び無敵になれる。

 だが、その落下に狙いをつけて、暗闇から突風のように影が襲う。ヴィバリーの刺剣だ。ローエングリンはそれを剣で受け流すが、さらにその隙を縫って再びユージーンの矢が飛び、ずんと深くローエングリンの胴を貫く。

 一連の瞬間的な戦いを、俺も全て肉眼で追えたわけじゃない。半分ぐらいは俺の想像だ。ただ、確かにわかってることが一つ。それは、ローエングリンが地面にたどりつくことはなかったということ。

「……借りは返したぞ」

 背後から、ウィーゼルの刀が彼女の体を両断していた。冷たい地面に転がった彼女の下半身は、その瞬間から徐々に崩壊を始めて、やがて霧となって夜に溶けた。

 残された半身は一瞬だけ刀身の上に残り、それから静かに地面へと滑り落ちた。

「……あ……」

 横たわるローエングリンの姿が、俺の位置からもかすかに見えた。彼女は口をぱくぱくと動かして、何かを言おうとしているようだった。ウィーゼルにはその言葉が聞こえていたのかもしれない。

 立ち尽くすウィーゼルと見つめ合う彼女の壊れた姿から、俺は目を離せなかった。切断面が霧と化しているせいかグロテスクさはなく、その半身は歪な美しささえ感じさせた。

 ゆっくりとまばたきをしながら、ローエングリンはふーっと深く息を吐いた。その息遣いに何を感じ取ったのか、ウィーゼルは彼女のそばに跪き、抱きかかえるように手を伸ばした。

「騎士たる汝の位はこの死をもって王の元に戻る。もう自由だ……どこへなりと行っちまえよ」

 伸ばしたウィーゼルの手にすれ違うように、ローエングリンは届かぬ空へと手を伸ばした。その指先がか細く震えて、それからふっと霧に溶けて消えた。

 後には何も残らなかった。ただ血に湿った地面と、燃え上がる天幕があるだけ。

「……死んだの?」

 ウィーゼルの背後に立って、ヴィバリーが冷たく問う。伴侶を手にかけた異国の騎士は、いつものように皮肉っぽい笑みを浮かべて首を横に振った。

「いいや。だが、二度と霧から人には戻れない。だから、もう……どこへも行き着かないのさ」

 ――湖上をさまよう霧のように、か。

「さあ、早く火を消そうぜ。誰が……何が燃え残ったか見なくちゃな」

 余韻に浸るでもなく、ウィーゼルはさっさと立ち上がって言った。その言葉に、俺も現実に引き戻される。自分のやったことの結果を確かめなければならない。

 覚悟などできるはずもない。炎から目をそらして、救いを求めるように自分の団長、白の騎士ヴィバリーを見る。彼女もまた、俺を見ていた。

「お疲れ様、トーゴ」

 そう小声でつぶやいてから、ヴィバリーは無音で唇を動かした。その唇は、こう言っていた。

(よくやったわ)

 そして、彼女は薄く微笑んだ。

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