第21話 焦げた背中

 ユージーンが天幕の布を引っ張って上下に何度も振ると、火は案外あっさりと消えた。そんな力もないほどに、最後のローエングリンは弱っていたのだろう。目の前で戦っている姿を見ていた時には、ホラー映画であっさり殺される端役の気分だったので、まるで気づかなかったが。

 ……結論から言うと、新たな死人は出なかった。カナリヤはローエングリンにかなり手酷く刺されまくっていたが、竜の姿のせいか致命傷はなく、火傷も予想より軽度だったらしい。ただ、いくらか跡が残るだろうとのことだった。……顔に。ジェミノクイスは――天幕が火に呑まれていく間ずっと、ガートルードの体に覆いかぶさってかばっていたのだという。彼女の状態については、「死んではいない」ということ以上は怖くて聞けなかった。


 俺は二人と顔を合わせられなかった。どれだけの火傷だったか、確かめることもできなかった。後始末をする他の連中を残して、一人で冬寂騎士団の馬車に戻り、うずくまって眠ろうとした。でも、無理だった。

(俺が、代わりに火の中にいるべきだったんじゃないのか)

 どうせすぐ治るし、痛みも感じないのに。俺は無傷で、彼女たちは後に残る怪我を負った。

 あの時、あの瞬間に、俺が代わりになれたわけでもなかったし。篝火を倒さなければ、ローエングリンは俺たちを殺していたかもしれないのだから、実際、必要なことではあったのだが。

(……やるべきことをやったんだ。あの時とは違う。冬子の時とは……)

 生きていると知った後でさえ。ふとした拍子に、何度でもまぶたの裏に蘇る。転がった血まみれの布団。反射的に、体がこわばって震えはじめる。

(俺はためらわなかった。フードゥーディの時もそうだ。俺は人殺しになったんだ。痛みもない、心もない人殺しに。戻れないんだ。この世界からも出られない。ずっと、このまま、誰かを殺して、何度でも、何度でも……)

「もし」

 背後で声がした。馬車の外からだった。

「トーゴ殿……起きておられますか」

 ジェミノクイスの声だった。歩き回れるほど元気だったのか。

 俺は息をひそめて、寝たふりをしようとした。だが彼女はお構いなしに、馬車の壁板越しに俺に向かって話しかけてきた。

「我が君に代わってお礼を申し上げに参りました。ウィーゼル殿よりあなたが天幕に火をかけたと聞きました。あなたは誓いの通り、私を守り、ガートルード様のお命を守ったのです。まさに誇り高き騎士の振る舞いでございましょう。あの方がお目覚めの際には、きっとあなたの武勇もお伝えします。さすれば、いつか故国を訪れた際には、人に冷たいエルフたちも必ずやあなたを国賓として歓待いたしましょう」

 その芝居掛かった独りよがりな話し方は、いつも通りのジェミノクイスに思えた。少し、ほっとした。俺は、誰かの命を助けたのかもしれない。こいつが言うほどの武勇ではなくとも。泥臭い、卑怯なやり方だったとしても。

「……きっと、おいでくださいませ。そして、ガートルード様のお美しい姿を、再びその目に映してくださいませ。私はそのためにこそ生き、生かされているのですから」

 そう言うと、ジェミノクイスは言葉を切った。かさ、かさと軽い足音が遠ざかっていった。


 俺はせめて何か一言、「悪かった」とでもべきだろうかと考えた。……余計なことを考えたものだ。ジェミノクイスの声が元気そうだったから、油断しちまってたんだろう。

 俺は起き出して、そっと馬車の外に出た。すると思ったより近くに、歩き去るジェミノクイスの背中が見えた。

 その背中は、一面焼けただれていた。彼女はほとんど裸に近かった。服は丸焦げて、かさかさの腰巻きみたいなものがまとわりついているだけだった。艶かしく垂れていた髪の毛は見る影もなく、頭は半分ほど禿げあがって、地肌が見えていた。その地肌もまた、黒く焦げていた。

「あ…………」

 俺は何も言えず、薄く白み始めた空の下で、呆然と立ちつくした。

 暖炉に放り込まれた人形のようなぼろぼろのその姿は、映画で見た焼死体そのものだった。彼女がこちらを振り向いたら、何が見えたかわからない。振り向かないでくれと願った。彼女は振り向かず、自分の主人の――ガートルードの死体のところに帰っていった。



 すっかり夜が明けた頃、ふらつきながら馬車の外に出ると、ヴィバリーがちょうど歩いてくるところだった。彼女は相変わらず颯爽として、昨夜の死闘の影など微塵も見えなかった。

「ようやく霧が晴れてスッキリしたわね……どう、眠れた?」

 口を尖らせて、軽い口調で問うヴィバリー。そのわざとらしい軽さに、思わず苦笑いをする俺。凹んだ俺に気を使ってくれたつもりなんだろう。後ろ暗い嘘やごまかしは上手いが、こういう明るい演技は下手くそな団長だ。

「いや……全然。さすがに、今さっきで安眠は無理だろ」

 一方の俺は、ため息まじりに首を振る。まだ、気遣いに気遣いを返せるほど大人ではない。

「そう? 今日はしばらくアンナを待つから、まだ休んでいていいわよ」

「……アンナ? もう治ったのか!?」

 食いつく俺に、ヴィバリーはくすっと笑う。根暗同士なせいか、二人で話すと暗い空気になりがちだが――アンナの話になるとお互いに少し明るくなるような気がする。

「夜明けと一緒にオーランドから鳥が来たの。足に悪筆な手紙をくくりつけてね」

 伝書鳩みたいなものか。魔術のある世界にしては原始的だ。とはいえ、ピンポイントでヴィバリーの居場所に飛んできたのは魔術的な何かを感じなくもない。

「手紙によると、アンナは目が覚めた時には『生まれた直後のマダラガボイノシシみたいに』元気だったそうよ。意味はよくわからないけど、そう書いてあった。流言師が彼女をオーランドまで連れてきて、そこから馬ですぐ戻るって……それと、あなたに礼を言ってくれって」

「そうか……よかった」

 少なくとも一つ、俺にもマシなことができたわけだ。アンナを死なせずに済んだ。アンナと同じように、魔術でみんなの傷が綺麗さっぱり治ればいいのにな。……都合よすぎるか。

 じっと考えている俺の顔を見て、ヴィバリーは重い空気を払うようにフッと鼻で笑った。

「私は、お礼は言わないわよ。あなたは払った給金と預けた名前ぶんの仕事をしただけだもの」

 遠回しな賞賛に気づくまで、数秒かかった。

「それってつまり、俺が……黒の騎士として恥じない仕事をしたってことか?」

 恐る恐る確認すると、ヴィバリーは少しためらいつつも素直に認めた。

「……そうね。もし昨夜のことを恥じているのなら、その必要はないわ。あなたは咄嗟に、最善の手を打った。私もきっと同じことをした。たとえ天幕の下にいたのがアンナやユージーンでもね。剣を振るだけが力じゃない……あなたは立派な騎士よ」

 ヴィバリーの口から出た真っ直ぐな褒め言葉に、一瞬顔がほころぶ。だが、おだてられて無邪気に喜ぶにはさすがに気分が重すぎた。

 もし、本当に俺のやったことが騎士として最善だって言うのなら。こんなのが立派な騎士のすることなら。いつか掛け値なしに「立派な騎士」になった時、俺はもう冬子を殺したことさえ罪の意識を感じないのかもしれない。

「お前は、こんなことずっと続けてるのか? 自分が嫌にならないのか?」

 俺は顔を伏せて、地面を見ながら言った。面と向かって言うには情けないセリフだ。ヴィバリーは笑うでもなく、静かな声で答えた。

「私は物心ついてから、一度も自分が好きだったことはないわ。だからって、誰も自分以外のものにはなれないのよ。それこそ魔術師にでもならない限りね……これで答えになっているかしら」

 それなら俺は、ずっとこのままなんだろうか。冬子を殺した時から、いや、それよりもっと前から、俺は卑怯な殺人者で、これからもずっとそうして生きていくのか。

「難しく考えることはないわよ。目の前にある問題を、一つ一つ片付けていけばいいだけ。とりあえず、一つは片付いたわ。今は休みなさい……ユージーン、あなたも」

「え?」

 急に思わぬ名前が出てきたので、俺は周囲を見回す。すると、馬車の屋根からぎしっと音がした。

「……上にいたのか。いつから?」

 問いかけると、ユージーンがいつもの悟りきったような何も考えてないようなきょとんとした顔で、屋根からぬっと顔を出した。

「ずっと」

「ずっと……?」

 ずっとは長い。俺が一人で悶々としてる間も、真上で寝てたんだろうか。独り言なんかを聞かれてないといいんだが――などと怪訝な顔をしていると。ユージーンは馬車の屋根から静かな足つきでそろりと地面に降り、こちらに近づいて言った。

「見張ってた」

「……俺をか?」

 言葉の真意が読めずに、俺は一瞬嫌な顔をする。卑屈になりすぎてて、俺がこれ以上悪さをしないように見張ってるって意味かと思ったんだ。でも、ユージーンは眉ひとつ動かさずに、首を横に振った。

「さびしそうだったから」

 その一言で、疑り深い俺もようやくユージーンが屋根で何をしてたのか気づいた。俺が寝ている間、外を見張ってくれたんだ。誰も襲ってこないように。俺が怖がらずにいられるように。

「……サンキュー」

 俺がそう言うと、ユージーンは首をかしげた。日本語と違って、この世界じゃ英語は通じたり通じなかったりするようだ。日本語で言い直そうとすると、ヴィバリーが先回りして言葉を続けた。

「ありがとうって意味よ」

 伝わる相手には伝わるらしい。ユージーンは少しはにかみながら、満足げににっと笑った。一瞬だけだったが、子供らしい明るい笑顔だった。それから彼女は元のポケッとした顔に戻って、荒野のまばらな木に向かって突進し、そのまま幹を駆け上がっていった。

 二人が去った後、まぶしい日差しの下で俺は少しだけ眠った。夢はもう、見なかった。

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