第18話 幻影城主

 俺はコララディと名乗る幼女に手を引かれるまま、カツカツと足音を立てて階段を上っていた。階段と言っても、ただの階段じゃない。手すりもなくむき出しの、しかも終わりがないと思えるほど長い、ついでに高い階段だ。東京タワーの階段だってビビってたのに、夢の中だからってこんなもの登りたくはない。

「あの城に行けば……俺は、この夢から出られるんだよな?」

 風に揺られながら、震える声で尋ねる俺。コララディはきょとんとした顔で首をかしげる。

「さあー、どうかなあ。それは私もわかんない」

「はっ!? それじゃ、なんでわざわざここまで……!」

 と、うっかり足元を見てしまった俺はぶるっと震える。ダメだ。どっちにしろこのまま行くところまで行かないと、階段の途中で置き去りにされたらたぶん気絶する。

「お城に行けば、この夢の管理者……つまり、幻影城の城主がいるの。わんちゃんは今、許可なしで不法入国してきた状態だから、その女王様に頼めば外に出してもらえるんじゃないかなー。まあ、どっちみち、他にどうしようもないでしょ」

 不法入国って……そもそも自分で入ってきたわけでもないのに。めんどくさい話だ。まあ、頭を下げるのは苦手じゃない。頼み込んで終わりにできるならそれもいいか。

「こっから飛び降りたら、パッと目が覚めたりしないのか?」

 最もお手軽そうな覚醒方法を口にしてみる俺。だが、コララディの反応は芳しくなかった。

「んー、試してみてもいいけど。たぶん、無理だよ」

「この夢で死んだら、現実でも死ぬ……とか?」

 よくある話だが、それも間違いらしかった。コララディはフームと口を尖らせて、難しげな顔をした。

「死なないよ。むしろ、死ねないかな。わんちゃんはこの夢じゃ何もできないから。つぶれてぐちゃぐちゃになっても、ずーっと生きてる。身動きもできない肉片のまま、この夢の終わりまでずーっと地面に貼り付いてるの」

 無間地獄か。俺はため息をつきつつ、さっきまでより慎重に階段を登る。

「ふっふふ。それはそれで、マスコットみたいでちょっとかわいいかもね?」

「勘弁しろよ……」

 趣味の悪い子供だ。結局のところ、この夢から出るためには城まで行かなきゃいけないってことは確定か。俺は頭上を見上げて、コララディ自慢の「幻影城」とやらを眺める。その名前には聞き覚えがある……そう、ヴィバリーが話していた。どっかの魔導師ウィザードが自分の国を夢の中に隠したって。きっと、俺はその隠された国に入り込んじまったんだ。

 それにしても、変な城だ。ゲームか何かで天から生える逆さ城ってのは見たことがあるが、上と下でつながってる(?)ってのはあまり見ない気がする。待てよ、つながってるってことは――

「おい、コララディ……もしかして、あの城壁から中通って上までいけたんじゃないのか?」

「あ、うん。いけるよ」

「え!? じゃあ、そっちから歩いていけばよかっただろ!」

 思わず声が荒くなる。無間地獄に落ちるリスクを冒してまで、こんなあぶなっかしい道を通る意味はなんだったのか。俺の苛立ちが伝わったのか、コララディもぶすっと頰をふくらませて不機嫌そうにする。

「もーっ、わがままなわんちゃんだなあ。こっちの方が近道なのー。城の中通ると、迷っちゃうしぃ。せっかくの絶景なんだから、楽しめばいいのにー」

 文句を言う俺に文句を言うコララディ。楽しめと言われても、この状況じゃどう考えても落ちる怖さの方が先に立つ。

「そりゃ、すごい景色だと思うけどさ……しょせん夢は夢だろ。俺は、現実でやることがあるんだよ。さっさと起きて戻りたいんだ」

 起きて戻って、ローエングリン相手に何ができるってわけでもないかもしれないが。それでも、寝てる間に殺されるのはごめんだ。

「……あっそ。やっぱ、騎士様は騎士様だなー。現実、現実って、つまんなーい。わんって言ってよ、わんちゃん」

「……わん」

 俺が要望通りにしても、コララディはまだ不機嫌な顔をしていた。やっぱり女子ってのは面倒くさい。まあ、俺がまともに会話したことのある女子は妹と騎士団の三人ぐらいだが。

「急いだからって、大して変わんないよ。ここは夢の中だもん。時間の流れなんてあってないようなもんなの。一晩経ってるかもしれないし、ちょっとしたうたたねかもしれない。起きてみるまでわかんないし、気にしても無駄だよ」

 そう言われてみれば、夢ってそういうものかもしれない。胡蝶の夢みたいに、一生ぶん生きたと思っても、起きてみれば一瞬だったり。いや、あれは蝶々の一生だから微妙に違うか……

「まあ幻影城はみんなでみてる夢だから、あっちの時間に影響される部分もあるけどね。今この夢にいる人は、現実でもやっぱり今、眠ってるはず。時間の感じ方は違っても、同じ流れの中にいるの」

 ますますネトゲっぽい話だ。となると、廃人みたいに朝から晩まで眠りこけて、ここに入り浸ってるやつもいるんだろうか。……廃人というか、かえって健康的な感じもする。

「そういえば、ここの城主……女王様ってのは、どんな奴なんだ?」

 徐々に城の姿が近づきはじめ、心に余裕が出てきた俺はコララディに尋ねた。城主に頼まなければここを出れない、ということは、城主のご機嫌取りをしなきゃならないってことだ。人となりを知っておくに越したことはない。特に、相手が魔導師ウィザードとなれば……話が通じる相手かどうか、かなり怪しい。うっかり地雷を踏んで、一生この不自由な夢に囚われるのはごめんだ。

 俺の質問に、コララディはうーんと唸って首をかしげる。

「実はねえ、ホントの女王様は今、いないのよ。どっかから連れてきた女の子を玉座に座らせて、自分はふらっと消えちゃった。だから、その子が今は代理の女王様ってわけ」

「無責任な城主だな……」

 まあ、夢の世界に国ごと現実逃避した魔術師という出自を考えると、それぐらい逃避癖があっても不思議ではないようにも思えるが。

「ふっふふ。アウラは気まぐれだからね。まー、魔術師なんてみんな気まぐれなもんだけど。あの子は特別……なんたって、『意識』を司る魔導師ウィザードだから。どこにでもいて、どこにもいない。あの子自身、夢みたいなものなのかも?」

 ぶつぶつ話しながら、階段を上がっていくコララディ。手を握ったままの俺も、引っ張られて段を上がる。

 そういえば……こいつも、やたら詳しいところを見ると魔術師なのだろうか。見た目のわりに大人びてるのも、そう考えると納得はいく。魔術師になった人間は歳をとらないと、キスティニーが言っていた気がする。

「今、城主をしてる子のことは、実は私もよく知らないんだよね。ちょっと会ったけど、話合わなそうだったし。アウラとは友達みたいだったけど……ほらー、友達の友達って、なんか話しにくいじゃない? 話題続かなかったりしてさー」

 夢の中で聞くにしては、妙にリアルな理由だ。

「まあ、その気持ちはなんとなくわかるけど……つまり俺は、まったく予備知識なしで初対面の女と会って、話を通さなきゃならないわけだな」

 ため息が出る。初対面の女子と会って交渉ごとなんて、俺にとっちゃ最悪の苦手分野の掛け合わせだ。不安げな俺を元気づけるように、コララディはぱしぱしと俺の背中を軽く叩いた。

「大丈夫大丈夫! いくらわんちゃんでも、おとなしくしてればいきなり首切られたりしないってば。彼女、けっこういい子ぽかったし。あ、ほらほら、城門が見えてきたよ! 幻影城の門を生で見たなんて、向こうで友達に自慢できるよー。絵描きさんとか詩人さんとか、来た人みんなが題材にしたがる名所なんだから」

 楽しげにスキップしながら階段を上がっていく(どうやっているのかはよくわからない)コララディに引っ張られ、俺もトタトタと駆け足で上がっていく。

 見えてきた城門は、確かに絵にしたくなる美しさだった。というか、城下町の景色と同様、いくつもの「城門」の姿がホログラムみたいに重なり合っていて、その不可思議さだけで目を奪われてしまう。

 刺々しい異形の門。白く塗られた、荘厳で壮大な門。色とりどりで華美な派手派手の門。あるいはどっしりと質実剛健な辛気臭い門。それらが渾然一体となって、同時に重なり合っている。言葉にするとめちゃくちゃな光景なのだが、不思議と俺の目には、それらが混ざり合った闇鍋状態ではなく、それぞれに独立した姿として、ひとつひとつのパターンの美しさを見ることができるのだ。コララディの手助けがなければ、俺にはその一つさえ見ることもできなかったのだろう。

「……すげえな、確かに」

 ボキャブラリのなさが悲しいが、俺なりに感動したのは伝わったのか、コララディは自慢げに笑った。

「でしょでしょー。中はもっとすごいよ。私が案内しよっか? まあ、案内なしでしばらく迷ってみるのも幻影城の醍醐味だけどね。無限回廊で百年歩き回った時は楽しかったなー……」

 嬉しそうなコララディを見て、俺はふっと口が緩むのを感じた。子供の頃の冬子は、そういえばこんな感じだったかもしれない。ここまでアクティブではなかった気はするが。二人でお使いに行かされたりすると、あいつは色んな風景だの本だの人だのを何でも面白がって、俺に見せようとして、あちこち引っ張られたっけか。

 引きこもってからのあいつは、何を面白がっていたんだろう。こんな風に夢の中では、自分だけの綺麗な世界を見ていたんだろうか。

「……わんちゃん?」

 不思議そうにこちらを覗き込むコララディ。俺はふうっと息を吐いて、歩調を早めた。

「いや。いいよ、観光は。俺はさっさと起きなきゃ……会わなきゃいけない奴がいるんだ」

 俺がそう言うと、コララディは急に、握った俺の手をぐっと引っ張って止めた。

「おいっ!? 何を……」

 怒ってるのかと思ったが、そうではなかった。コララディは、鼻と鼻がくっつきそうなほど顔を近づけて、俺の目をじっと見た。中に星でも入っていそうな、大きな瞳がどアップになる。

「ふうん……わんちゃん、ちょっとこの夢になじんだね。今、何を考えてたの?」

「え? えっと……妹のことを」

 コララディは顔を離して、意味ありげな微笑を浮かべた。

「きっと、素敵な妹さんなんだね。ふぅん……ああ、そっか……なーんか、あると思った」

「何だよ、ぼかさないで話せよ」

 魔術師連中の無駄に思わせぶりな話し方にうんざりしていた俺は、(見た目上)年下という気安さもあってか、ストレートに情報提供を要求した。コララディは少し眉根を寄せて、心なしか寂しそうな顔で笑った。

「手を離していいよ、わんちゃん」

「……え?」

 俺がそうする前に、コララディはするっと自分から手を離した。その瞬間、幻影城の姿は跡形もなく見えなくなるかと思ったが――どうやら、そうはならなかった。いや、ある意味、そうなったのか?

 俺はこじんまりとした、ありがちな見た目の、よくある普通の「お城」の前に立っていた。宙に浮いてるとこだけは同じだが、壮麗な幻影城は一気につまらない風貌になってしまった。

「わんちゃんが夢を受け入れたからかな。とりあえず、存在だけは見えるようになったみたい。もう、案内いらないね」

 そう言うと、コララディは城門前に俺を置いて、トコトコと階段を降り始めた。

「一緒に来ないのか?」

 正直、城主とやらに一人で会うのが怖かった俺は、情けなくも幼女を呼び止める。

「私ねぇ、幻影城の門番みたいなお仕事なんだ。だから、一人で大丈夫な人の面倒まで見てる暇ないの。ほらほら、怖くないから一人で行っといで! わーんちゃん!」

 パシッと俺の背中を叩いたっきり、コララディは振り返りもせず階段をスキップで降りて行った。中身の年齢はわからないままだが、この切り替えの早さは、やっぱり子供らしい。

「……わん」

 小声で返事をしてから、俺は再び城門に向き合った。

 開きっぱなしの城門は、見たところ特に入るものを拒む力はなさそうだ。とぼとぼと歩いて門をくぐり抜け、俺は地味でつまらない姿に変わった幻影城の中へと入っていった。


 灰色の石。灰色の絨毯。幻影の城は、どこもかしこもくすんだ色をしていた。

 まるで、遠い昔に捨て去られた廃墟のように。捨て去られた、忘れられた夢。俺の目がこんな風に見せているのだとしたら、俺の内面はこんなに荒廃しているんだろうか。コララディも、俺には「何もない」なんて言ってたが。

 城の中には人影もなかった。あるいは、俺には見えないだけなのかもしれない。柱の陰に、垂れ幕の後ろに、曲がり角の向こうに、なんとなく、ふっと人の気配を感じるのだが。近づいて行くと、何もない。俺は怖さよりも、寂しさを感じ始めていた。


 玉座に至るまでの道は、わかりやすい一本道だった。ゲームでよく見る城と同じ。城門の先は、大きな広間があって。あとはまっすぐ大きい扉を通っていけば、自然と玉座にたどり着く。

 最後の大きな扉の前には、二体の錆びた甲冑が、護衛のように置かれていた。近づけば動き出すかと思ったが、やはりただの飾りだった。手に握られた長い斧槍は、片方は折れて、片方はひしゃげていた。

 悲しい、暗い風景ばかりのこの城に、どんな城主が待ち構えているのか。覚悟をしつつ扉に近づくと、奥からひそひそと声がした。

「…………私は、ただ……御身の安全を、と」

 その声を聞いて、俺はひたりと足を止めた。聞き覚えのある声。いや、忘れるはずもない。その特徴的なハスキーボイス。

「……そう。ここはしょせん、夢……肉体が傷付くことはない」

 湖上の霧、ローエングリンだ。刺された傷の記憶のせいか、腹がむずむずする。

 どうして、あいつがここにいる? あいつも、夢を見てるってことか? 俺たちを霧で囲んでずっと見張ってるのかと思ったら、ちゃっかり睡眠取ってやがったのか。

「しかし、夢なればこそ……心は容易く傷つくもの」

 相変わらずの持って回った言い方で。ローエングリンは、誰かと話しているようだった。だが、相手の声はぼそぼそと小さくてよく聞こえない。

 俺は扉に手をかけて、音を立てないようにそっと押し開けた。ほんの数センチ。覗き込むには小さいが、声をはっきり聞くには十分な隙間。

「……ここでは、私は貴女を守れない。そばに立っていることしかできない。あなたが傷つくところを、見たくはないのです」

 その言葉を聞いた時点で。本当は予想して然るべきだったのだ。

 いや、もっとずっと前からか。夢を見るのも珍しい俺が、このタイミングで、こんな夢を見ていること自体が、最初から不自然だった。でも俺は、その声を聞く瞬間まで、全く思いもよらなかったのだ――今、この先にいる「幻影城の主」が、誰なのか。


「もう遅いよ、ローエングリン。兄貴、もうそこにいるから」


 全身の毛が逆立った。俺は反射的に背を向けて、扉を離れようとした。ここにいちゃいけない。はやく逃げろ。逃げるしかない。他に、俺にはどうしようもない。

「……また、逃げるの? やっぱり、どうしようもないね。兄貴は……」

 嘲笑。思わず、足が止まる。俺が、逃げた? いつ? ……いつも?

 次の瞬間、俺の体は見えない腕に体をつかまれて、ぐいっと部屋の中に放り込まれた。扉がバタンと大きな音を立てて閉じ、玉座の間に閉じ込められていた。そう、この夢では、俺以外の人間は物事を思い通りに動かせる。逃げることなど、できはしないのだ。

「お、おれ……おれが……おれは……」

 しどろもどろに、言葉を探しながら、俺はじっと石床を見た。顔を上げるのが怖かった。顔を上げずにいたかった。だが、カツカツと鉄の足音が近づき、ローエングリンの無遠慮な手が俺のアゴを引っ張り起こした。

 冬子は、玉座に座っていた。

「……久しぶり、兄貴」

 変わらぬ声で。変わらぬ、セーラー服を着て。ぼさぼさの黒い髪。眠そうな目。昔と同じ姿――いや。

 嘘だ。こんな堂々とした冬子なんか、俺は見たことはない。怯えて、閉じこもっていた頃とも違う。子どもの頃の無邪気な目とも違う。まっすぐで、攻撃的な瞳。何を考えているのかわからないのは、同じかもしれない。でも、それは閉じているからじゃない。イクシビエドと同じ、深遠で、理解不能な瞳だ。

 こいつは、何だ? こいつは、誰だ?

 パニックになりながらも、気絶することもできない俺に、冬子は笑いかけた。

「幽霊に会うのは怖いよね。でも、大丈夫……幽霊じゃないよ。私は私。昭島、冬子。兄貴に殺されちゃった女の子」

 俺はローエングリンに顔をがっちり固定され、目を逸らすこともできないまま、冬子の言葉に向き合った。

 心の奥底で、もしかして死んだ時に記憶が消えているかもなんて、甘いことを想像して――いや、願っていたが。やはり、そんな都合のいいことはなかった。冬子は、あの時の、俺が背中を刺した冬子だった。

「痛かったなー。あれ、肺まで届いてたのかな? いきなり、息できなくなっちゃって。どろどろしたのが出てきてさ。嫌な感じだったな、あれは。うん……」

 玉座に腰掛けたまま、座面の上であぐらをかいて。ぼんやりした声で、生々しいことを話す。その浮世離れした態度は、確かに俺が妹として見てきた冬子の面影があった。だがやはり、同じではない。

「兄貴はさ、誰かに刺されたことある? あ、ローエングリンが刺してくれたんだっけ。ありがと、グリン。ふふっ」

 そんな風に、親しげに誰かを呼んで。笑いかけさえする。実の母親相手にも、ろくに笑わなくなっていたのに。今、表情は生き生きして、目も輝いている。

「あ、ローエングリンのこと、紹介した方がいい? 私の騎士様なんだ。カッコいいでしょ。あとすっごい強いの。まだ、生で会ったことないんだけどね……」

 にこにこと笑って、無邪気に話す冬子。だが、ローエングリンがそれを遮る。

「フユコ様。この男に、余計な情報をお与えになりませんよう」

「別に、大丈夫だよ。この世界で、兄貴にできることなんて何もないんだから」

 その言葉の通り、俺はただ呆然と、何も言えず、何もできずに冬子と向き合っていた。


 話すべきことがあるはずなのに。伝えるべきことがあるはずなのに。聞かなきゃいけないことが、あったはずなのに。俺は何も言えなかった。

 俺と冬子の間にある、大きすぎる断絶が恐ろしかった。地球からこっちの世界に来て、俺が思い出すのは子供の頃の冬子ばかりだった。ただの夢見がちな、可愛い妹だった頃のあいつ。そんな記憶に上書きされて、顔を合わせればまともに話せるんじゃないかなんて、甘い考えを持っていた。

 でも、違うんだ。俺と冬子は、もう子供じゃない。この数年、同じ家の中で過ごしてきた、冷たい時間が今もそのまま続いているのだ。俺があいつを邪魔に思う気持ちも。あいつが俺を見下す気持ちも。お互い、本当は嫌になるほど伝わっていた。

 俺が背中を刺した瞬間から、俺と冬子の関係は、何も変わっていないんだ。


 変わったのは一つだけ。今は、あいつが俺を殺す側に回ったこと。

「お前は……俺に、復讐、したいのか……?」

 俺が絞り出すように訊くと、冬子は興味なさげに鼻で笑った。

「それはもう、一回やったからいいよ」

「やった……って……?」

 困惑する俺に、冬子はきょとんとする。

「覚えてないの? ……こっちに来てすぐの時。私、一回兄貴を殺したの。刺されたばっかりで、ついつい感情的になっちゃってさ。ごめんねー」

 そう聞いて、フラッシュバックのように記憶が蘇る。うっすらと覚えている光景。夢うつつの状態で、冬子に「死ね」と言われた記憶。ただの夢だと思っていた。罪悪感が見せた悪夢だと。現実に起きたことだったのか――

「でもまあ、誰かが生き返らせちゃったみたいだから、ノーカンだよね。お互い、しぶとい兄妹だな……ほんと」

 感慨深いような、無関心のような、ぼんやりとした目で遠くを見る冬子。その目からは本当に、憎しみも恨みも感じられなかった。

「でも……なら、なんで俺たちを……」

「白々しいな。冬寂騎士団は私を狙って来たんでしょ。兄貴でも誰でも同じだよ。降りかかる火の粉は払わなきゃ。あはは……これ、一度言ってみたかったんだ。降りかかる火の粉は払ってみせる!」

 笑いながらすっくと立ち上がり、芝居掛かった口調で言って、それから気が抜けたようにまた玉座に沈み込む冬子。俺ははっきり否定しようと口を開いたが、口から出たのは曖昧な言葉だけだった。

「それは、イクシビエドが……! まだ……お前を殺すって、決まったわけじゃ……」

 自分でも、責任転嫁だとわかっていた。俺はヴィバリーに、イクシビエドに意思決定を丸投げしてる。本当はアンナが言ったように、兄貴としてこいつを守ってやるべきなんだろうに。今でもまだ、俺は――イクシビエドが「殺せ」と命じたら、抵抗できない気がしている。俺はイクシビエドを恐れ、冬子を恐れている。

 そんな俺を見る冬子の目は、冷たかった。

「兄貴。私はね……もう、誰にも殺されたくないの。二度と、誰にも。私が私でいられる場所を、自分の領地を、土足で踏みにじられて、背中を刺されたりしたくない」

 冬子は玉座から再び立ち上がり、右手をすっと挙げた。顔をつかんでいたローエングリンの手がほどけ、俺はがくんと床にへたり込む。冷たい、硬い石の床の感触は、俺の今の気分によく合っていた。

 対照的に、まっすぐ立ってこちらを見下ろす冬子の姿は堂々としていた。まるで、その玉座に相応しい女王であるかのように。

「だから、刃物持って私のところに来る人たちが、私を殺すかどうか考えるのを待ってあげるつもりはないんだよ。そもそも、おかしいじゃん。魔導師ウィザードだか何だか知らないけど、私が生きてていいかどうか、他の誰かが勝手に決めるなんてさ。私が生きていくことに、誰の許しもいらない」

 冬子の言葉は、力強かった。

 今にして思えば。こいつは昔から頑固だった。引きこもるようになった朝、こいつがした目を覚えてる。頑なで、石のように重く、硬かった。あの時のあいつは――自分を守るために引きこもるというより、外を、現実を、自分の世界から切り捨てていたのかもしれない。

「お前は……イクシビエドと、戦う気なのか?」

 そして今また、冬子は同じように立って、頑なな目で俺を見ている。

「私は兄貴とは違うから。現実に合わせて、器用に自分を変えたりできないから。私が私であるために、世界の方を変える必要があるんなら、それが誰かを怒らせるとしても、生きることをやめるつもりはないよ。……今の私には、それができるから」

 遠回しな言葉だったが、質問に対する答えがイエスであることは、俺にもわかった。

「……怖く、ないのか……?」

 俺は、思ったことをそのまま尋ねていた。

「私は何者も恐れない。私は何者にも屈しない。私の領地は、私が守る。でないと、誰も守ってなんかくれないんだ」

 宣戦布告のように、そう言って。冬子はくるりと俺に背を向けた。

 冬子のセーラー服は、背中に小さな穴がいくつも空いていた。穴は五つあった。俺はその穴を知っていた。この目で見たことはなかったが、それを空けた手を知っていた。それは、俺の手だ。

「あ……」

 その姿を見ていたたまれなくなった俺は、両手で目を隠そうとした。だが、横に立ったローエングリンが鋭く剣を抜き、目をそらすな、とばかりに俺の手を上から剣の腹で押さえた。

「……やっぱり、最後にもう一度会っといてよかったよ、兄貴」

 肩越しにこちらを振り返って、冬子は笑った。

「もしかして、何か変わったかもって思ってたけど。やっぱり、兄貴は兄貴のままだった。向こうにいた時と同じ、人殺しの臆病者バックスタバーだった。おかげでよくわかったよ。人間なんて、何があっても変わらない。期待なんかしちゃいけないって……これで、後悔しなくて済む」

「冬子……俺は……っ!」

 俺は、なんだ? 何を言おうとしてるんだ。何を言いたいんだ。言わなきゃいけないことがあるのに。言葉にならない。視界が急に、徐々に白く薄くなっていく。足元が揺らぎ、壁が崩れる。俺はこの夢から、追い出されつつあるのだ。

「さよなら」

 最後に聞こえた冬子の言葉には、一片の迷いもなかった。

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