第11話 月光騎士団
――夜も更けて。
俺は、なかなか寝付けずに、寝袋の上でごそごそと左右に寝返りを打っていた。初の野宿で、落ち着かなかったせいもあるが、晩飯に食った味のしないスープと味のしない干し肉の感触を思い出して、気分が悪かった。これからも毎食、あれを口にすると思うと、ちょっとした拷問だ。味覚がない、つまりあらゆる飯がマズイというのは、地味だが、確実に生きる気を削ぐ。他の三人が美味そうに食ってるぶんだけ、余計に虚しい。
加えて、寝心地もいいとは言えなかった。ヴィバリーとアンナが馬車で寝て、俺は外に放り出された(ユージーンはもともと地面の方が寝やすいらしい)。男女差別だと抗議したが、痛みがないなら地面で寝るのも不快ではないだろうと理詰めで押し切られ、反論できなかったのだ。実際寝てみたら、確かに背中が草でちくちくすることはないが、地面の起伏があるせいで寝心地の悪さに変わりはなかった。くそったれ。
とにかく、一向に眠気が訪れないので、俺は諦めて寝袋からのそのそ這い出した。どうせなら、今のうちに剣の練習でもしてみるのもいいだろう。ヴィバリーを見返してやりたい気もする。
剣を拾い上げ、馬車から少し離れると、風がひやりと冷たかった。今、季節はいつなのだろう。この世界に、季節があるなら、だが。体感的には、秋ぐらいに感じる。
深呼吸して、空を見上げる。月――見た目は、向こうの世界とさほど変わらない。模様は、ウサギ型じゃないみたいだが。
ふと、寂しさを感じた。なんだか、懐かしい感覚だった。そう……思えば、こっちの世界に来てから、本当に一人きりになる機会がほとんどなかったのだ。今、ここにあるのは、見知らぬ世界と、俺の体だけ。
不思議と、気持ちが落ち着いた。この数日、色んな奴の思惑とかに振り回されてばかりだった。おかげで、自分がどういう人間だったか、忘れかけていた。……陰気な、オタク野郎。冬子ほどじゃないが、俺も、一人でいるのが一番楽で、落ち着くタイプの人間だってことを。
肩の力が抜けたところで、あらためて剣を抜いた。一瞬、二つの死体の映像がフラッシュバックする。慣れることのできない不快感。でも、これから消えることもない。だから……受け入れなきゃいけない。自分が、人殺しだってことを。
(落ち着け。しっかり、握ってろ)
自分に言い聞かせて、ぐっと力を込める。
「……はっ!」
何度か振り下ろしながら、アンナに教わったことを思い浮かべた。剣の柄は上を握って。刀身のどこを相手に当てるのかを意識して。弾かれないように、力を入れる。
最初はかなりぎこちなかったが。何度かやっているうちに、剣がひゅっと風を切る音が聞こえるようになった。
……振れる。意外と、俺は剣を振れた。いや、まあ、はたから見れば、素人丸出しだったんだろうが。自分でイメージしていたよりは、思い通りに剣を振れたので、俺としては嬉しかったのだ。
だんだん調子に乗って、地面からちょろちょろ生えた短い草を狙って横に切ってみたりして遊んだ。いや、遊びじゃない。これも立派な訓練だ……たぶん。
「ハァ……ハァ……」
案の定、というかなんというか。わりとすぐに、俺は息切れを起こしていた。モンスターどころか、草相手にスタミナ切れとは。ふがいなさすぎるが……まあ実際、運動不足の素人がいきなり剣を振り回せばこんなもんだろう。
剣を鞘に収めて、振り向くと――そこに、ユージーンがいた。いつものきょとんとした顔で、俺を見ていた。
月の明かりの下で見るその姿は、どこか幻想的だった。銀色の髪を風になびかせ、月と同じ色の瞳で、こちらを見る。お互い何も言わず、ぼんやりと見つめあった後で、俺はハッとして目をそらした。気まずかったせいもあるが……それより、何より。いつも着ているボロい服が月光に透けて、うっすらとその体つきが見えていたのだ。
――こいつは、女だ。ずっとはっきりしなかったが、初めて確信できた。胸は出てないが、腰のくびれ方といい……少なくとも、男の体つきじゃない。
「あー……なんか用か? 俺、うるさかった?」
沈黙を破って、へらへらと言う俺。今まではその野性味もあってわりと雑に接していたが、女の子だと思うと、なんとなく接し方に困る。
「…………」
ユージーンは、何か問いたげな表情を浮かべながら、ぼうっと突っ立っていた。いつもおかしいが、今は特におかしい。
「俺が、何してたか気になるのか? その……剣の練習を、ちょっとな」
まさか、一人で草を切ってるとこまで見られたのか。恥ずかしい……。
一人で赤面していた俺だが、よくよく見るうちに、ユージーンが見ているのは俺ではないことに気がついた。試しにひょいと横にどいてみると、ユージーンはさっきまで俺がいた方向をじいっと見ていた。
「……どうしたんだ?」
「くさい……」
ぽつりと呟かれて、思わず自分の体を嗅ぐ俺。いや、言うほどではないはず。だとすれば、何か別の匂いを嗅いでいるのか……。
「こっちの方向に、何かあるってのか?」
そう言って、俺が遠くを指差した瞬間。
ぐいんっ、と視界が回転した。視界には、一面の夜空。これは、つまり……何が起きた? ぽかんとしているうちに、ギャリリリッと金属の回転する音が遠くから近づき、俺の視界を下から上に一瞬で通り過ぎていった。
「あ……っ!?」
混乱していると、目の前に逆さになったユージーンの顔がひょっこり出てきた。つまり、おそらく……俺は、後ろからユージーンに引っ張られて、地面に倒されたらしい。
「げふっ……お前、い、いきなり、何を……」
咳をしながら身を起こそうとすると、再びユージーンが俺の頭を地面に叩きつけた。そして、聞こえてくるのはさっきと同じ金属音。今度は、後ろから。
「ふっ」
ユージーンは短く息を吐くと、高速で近づく飛翔体をこともなげに両手ではさみ取った。それは……円い、金属の板だった。ユージーンの手に捕まえられてもなお、ギザギザの刃がキリキリ音を立てて回転している。
「なんだよ、それ……手裏剣……!?」
ぞくっと背筋が冷えた。手裏剣というか、これはもう回転ノコギリだ。さっきから地面に何度も叩きつけられたのは、俺がこいつに真っ二つにされるのを避けるためだったのか。
ユージーンが手を離すと、そのノコギリ手裏剣は糸で引っぱられたようにひゅるりと飛んで、視界の向こうに消えていった。そして――
「……魔術の匂いにつられて来てみれば。死体と、同族と、か……似合いだな」
いつの間にか。足音もなく、気配もなく。月の光のように忍び寄り、そいつは……いや、そいつらは、そこに立っていた。
「名乗れ、子供。我ら、千年王国の騎士は名誉なきまま同族を殺しはせん」
身の丈ほどもある巨大な曲剣を、肩の上で愉しげに揺らして。その長身の女は、静かに微笑んだ。ユージーンと同じ、長い銀色の髪をふわりとなびかせ、同じ琥珀色の瞳を鋭く輝かせながら。
「……ユージーン」
「男の名か……可憐な顔に、不似合いな。私はガートルード。月光騎士団団長、青白の騎士ガートルードである」
「さて……どうしたものかな」
ガートルードと名乗った女は、俺たちを悠然と見下しながら、冷たく微笑んだ。
こっちに来てから初めて見る……本物の、露出の高い鎧を。ビキニアーマーというほどではないが、上半身を覆うのは胸元を強調した、へそ全開の短い胸当てだけ。下半身はややガードが固いが、ひらりと垂らした腰布からは白い太ももが覗いている。
――殺されかかった後でそんなとこばっかり見てる俺も俺だが。生で見ると、やはりエロさよりも違和感の方が強い。防御力に関してはボロ服を着たユージーンも似たようなものだが、こっちはそもそも日常で着る服として明らかにおかしい。というか、寒くないのか。
「狩りの前の景気付けに、野良犬の血で刃を濡らしておく程度のつもりだったのだが。野良の騎士団一行と見えるとは……ふふ、幸運な出会いではないか。子供の臓物は好きか? カナリヤ」
ガートルードは背後に向かって声をかけた。すると、背後に隠れていた二つの人影のうち一つが、ゆらりと動いた。フードを被った女――いや、少女だろうか。顔はよく見えないが、右手でさっき俺を殺しかけた鉄の円盤を弄んでいる。彼女は濃い緑色の髪を左右に振って、無言で否定の意を示した。
「そうか? 我らの肉は美味と聞くぞ。想像してみるがいい、あの
くっくっと笑い、ガートルードは戯れに己の武器を肩の上でくるりと回し、一瞬で右から左へと持ち替えた。その長大な曲剣は、どう見ても俺の剣の数十倍の重さがある。「同族」という言葉の真意はわからないが、ユージーンと同じく隠れた怪力の持ち主なのは間違いない。一見、腕も足も踊り子のようにしなやかで、最低限以上の筋肉があるようには見えないのに……
「…………」
ユージーンは無言で、ガートルードを睨んでいた。その凶悪な目つきは、攻撃を仕掛けられたから、というだけではなさそうだ。彼女が、これほど誰かに敵意を向けるのを初めて見た。
「そんなに熱い目をするな……子供のくせに、私をたぎらせるなよ」
素人の俺でもわかる、殺気の応酬。冗談めかして笑いながらも、ガートルードは今にもユージーンを真っ二つにしそうな雰囲気だ。だが、ユージーンは完全に丸腰。名誉がどうとか言ってたが、丸腰の子供にデカい剣持って喧嘩売るなんて、名誉も何もありゃしない。そもそも、どうして俺たちはこいつらに襲われてる?
「……どこかへ、行け」
ユージーンは短く、しかし強い語調で言った。俺はどうにか身を起こし、隠れるようにユージーンのそばに立った。一応、剣だけは握りつつ。
「私は騎士団の青にして白。長たる私に命令できるものはいない。退かせたければ、力づくで試すがいい」
ガートルードは担いだ曲剣の柄を片手でがっしりと掴んで構え、ついに剣先を俺たちの方へ向けた。自然に、喉がごくりと鳴る。ユージーンのそばに立ったのは失敗だった。こいつは何が来ても避けられそうだが、俺は絶対に一瞬で真っ二つだ。
恐怖を感じた俺は、思わず場の空気を読まずに声をあげた。
「まっ……待ってくれ。何で俺たちを襲ってきたのか知らないが、とにかく、こっちに敵意はないんだ。剣を引いてくれ。た、頼む……!」
我ながら、土壇場でよくすらすらと喋る度胸があったものだ。だが、俺の勇気ある命乞いも、ガートルードには蚊ほども通じなかった。
「死人は黙っていろ。子供……ユージーン。お前の望みはどうだ? 私と出会って、何を感じる? 逃げたいか? それとも……」
言い終えるのを待たず、ユージーンが動いた。地面を蹴って、空へと跳ぶ――一瞬、本当に飛んでいるのかと思うほど高く。自分の体より大きな剣を持った相手に、空手で挑もうと考えるのは、人並み外れた自信なのか、よほど馬鹿なのか。
「……やはり、お前もそそられるか」
愉しそうに言いながらも、直立して動かないガートルード。ユージーンはその頭上に落下して、脳天に向けてかかと落としを見舞った。
鈍い音。その神速の蹴りは、確かに狙い通り、ガートルードの頭に直撃していた。だが――
「美事。だが軽いな」
ガートルードは微動だにせぬまま、ユージーンの足を額で受け止めて、平然と言った。
「……!」
ユージーンは空中でもう一発ガートルードの頭を蹴ると、その勢いで後ろに飛び退いた。俺のそばまで転がってくる彼女の姿は、まるで怯えた獣のようだった。
「その身のこなし、瞬発力。筋肉の質。『混じり』ではないな。興味深い……なぜ、王国の外にお前のような純血種がいるのか」
ガートルードは……右目から血を流していた。いや、血でよく見えないが、眼球のあるべき場所に、それがない……今の一瞬、ユージーンは鋭い蹴りで相手の目を文字通りぶっ潰していたのだ。
無傷のユージーンに、目を潰されたガートルード。状況だけ見れば、こちらの圧勝だ。だが、ガートルードはなおも不気味に微笑んでいた。まるで、わざと傷を負わせたように。
「……野良犬よ」
ぽつりと話し出すガートルード。その背後に、もう一人の女がいることに俺は初めて気づいた。まるで影のように、あるいは衣服のようにガートルードに寄り添い、手を伸ばしてガートルードの傷に触れた。――魔術師だ。次の瞬間には、ガートルードの顔は元どおり無傷に戻っていた。道理で、避けようともしないわけだ。
ガートルードはその女に一瞥もくれず、再生した両目でユージーンを見下ろした。
「今まで自分より強い獣に会ったことがなかったのだろう。ねずみの群れに一人紛れこんで、己は強いと思っていた。死に物狂いになったこともない。並の魔術師でさえ、お前には敵とはならぬ」
一歩ずつ、彼女はこちらに歩み寄る。ゆっくりとした歩み。だが、一瞬の隙もない。俺も、ユージーンでさえも、動くことができない。
「だが、私はお前より強いぞ。どうする? 死ぬのを承知で抗ってみるか? 無様に命乞いをするか? それとも……私に蹂躙されてみるか?」
ガートルードは舌なめずりをして、さらに一歩踏み込む。その時、隣に立つユージーンの様子がはっきりと変わった。獣のように唸り声をあげ、毛を逆立てて。ガートルードの言う通り、ユージーンも本能的に、相手が自分より上だと悟ったのだ。
だが、ユージーンは相変わらず素手……いや、待て。武器ならあるじゃないか。
「……おい。こいつ使うか?」
俺は自分の剣を逆さに持って、柄をユージーンに差し出した。今、俺にできることはマジでもうこれしかない。ユージーンは無言で柄を握り、小さくうなづいた。仕事を終えた俺は今が好機と、そそくさ後ろに退く。よし。
「それで対等、か? 対等である必要もないのだが。じゃあ今度は、私が素手でしてみるか……色々やってみよう。変化がなくてはな……」
そう言って、ガートルードは自分の剣を地面に投げ捨てた。もはや何がしたいのかわからない……いや、理解はできないが、わかることはわかる。要するに、楽しみたいのだ。俺たちは、こいつの玩具にされている。
「……団長。お遊びは程々に」
後ろに立っていたもう一人の騎士、一番目立たなかったひょろ長い男がぼそりと言うのが聞こえた。なんとなく、親近感のわく男だ。こいつも俺と同じ、騎士団で男一人だし。
「遊ばずして何の生であるか。私を
ガートルードは掌を開き、つかみかかるように襲い掛かった。俺の目でも追えるほど、ゆったりした動き。誘っている……ユージーンは警戒しつつ剣を振る。その切っ先の直前で、ガートルードはふいと身を引く。踊るような所作。
「そうだな……髪の一本くらい切れたら、お前一人は生かして帰そう」
そう言って、わざとらしく髪を振り乱す。
「二本切れたら、そこの死体も傷つけまい。四本でお前の騎士団を全員生かす」
こいつ――アンナやヴィバリーの存在にも気づいている。思わずごくり、と喉が鳴る。つまり、一本も髪を切れなければ、全員殺すと言っている。
魔術師達と相対した時とは違う、むき出しの殺意。同じ人間が……人間だからこそ、なのか。大した理由もなく。ただ愉しみのために。こうも簡単に、命を奪うなんて口にする。
「おいで。踊ろう」
その一言を合図に、ユージーンが動いた。
「シィッ」
息を吐く音。剣が嵐のように吹き荒れる。俺が持った時とは、まるで別の武器のように。それどころか、もはや別世界の場面のように。切っ先が何重にも軌跡を描き、余裕ぶったガートルードの周囲を駆け巡った。
そして――その全てが、ガートルードの体にも、髪一本にさえ交叉することはなかった。早すぎてもう何が起きてるか俺には見えないが、どうやらほとんどを紙一重でかわし、時には剣の腹を指で弾いていなしているようだ。
「いいよ、いい……やはり同族が一番だ。こうでなくては……栄えある千年王国も堕ちたものだよ。昨今はこれほど楽しませる使い手も減った……」
余裕ぶるどころか、老害臭い世間話まで始めやがった。
「……もったいないが」
そして、ふっと剣の音が止まった。
「これで終演」
人差し指と、親指。ユージーンの渾身の剣は、たった二本の指で止められていた。引こうとしても、押そうとしても、動かない。
ガートルードは剣の切っ先をつまみあげたまま、左手で彼女の肩を押さえつけた。ユージーンはなおも憎々しげに相手を睨みつけながらも、額からは玉のような汗が吹き出ていた。――動けないのだ。
その様子を満足げに見下ろしていたガートルードは、急にぐいと姿勢を低くして、ユージーンの眼前に顔を近づけた。口づけでもしそうなほど、近く。口を開き、笑いながら、喉を噛み切るように歯をむき出して……いや。こいつには、本当にそうするだけの力がある。
「ユージーン!」
俺が思わず、声をあげた瞬間。背後から、風を切る轟音が聞こえた。覚えのある音。危険で、致命的で、なんとなく安心する音。アンナの投げた、大鎚ビリーの音だ。
「……不粋な」
そう呟くと、ガートルードはユージーンから手を離し、ぐっと両腕を広げて身構えた。その中国拳法のような構えは、彼女が今度こそお遊びでなく本気で防御態勢を取っている証だった。
間もなく、風とともに飛来する大鎚。間近でその強烈な風圧を受けると、アンナを怒らせることはすまいという決意を新たにさせられる。
これなら、今度こそこのイかれた女騎士を吹き飛ばしてくれるかもしれない――と、期待したのもつかの間。身を低くして構えていたガートルードは、大砲のように飛んできた大鎚ビリーを難なく受け止めると、体ごとくるりと回転してその速度を殺し、自分の武器であるかのように大鎚を構えて、アンナの襲撃に備えた。
――だが。我らが冬寂騎士団に必要だったのは、その一瞬の隙だったのだ。
「戯れはそこまでにしていただこう、エルフの君。二度とその指でうちの騎士に触れるな」
ヴィバリーの声。どの瞬間からか――おそらくはこの場の誰も気づかないうちに。彼女はすでにガートルードの真下に入り込み、細剣の先端をガートルードの喉元に突きつけていた。
いくらヴィバリーといえどもこんなに一瞬でここまで潜り込むのは無理だ。キスティニーの空間魔術を使ったに違いない。どうやってあいつに協力させたのか気になるが……いや、今はそれよりも気になることがある。
「……エルフ!?」
思わず空気を読まず声を出す俺。隣では、その単語を耳にしたユージーンが、びくりと肩を震わせていた。
「ふ、く……ははははは!」
喉元に剣を突きつけられたまま、ガートルードは大声で豪快に笑い出した。その途端、ついさっきまで周囲に張り詰めていた殺気がふっと薄らいだような感じがした。
だがヴィバリーはあくまで戦闘態勢を解かず、突きつけた細剣にほんの少し力を込めた。ぷっ、とガートルードの皮膚が破れ、赤い血が刃に垂れる。
「槌を置け」
ヴィバリーの警告を聞いて、さらに笑うガートルード。
「うふふ……見るがいい、ジェミノクイス。この美しい女を。全力であがく、この姿を。あがくものの姿は美しい……私はいかにすべきか?」
その言葉に答えて、背後に付き従っていた女魔術師がくすくす笑う。
「愛しの月光の君。お心のままになさいませ。この世界はあなたのためにあるのですから……」
「もとより」
ガートルードがにやりと笑って、そう口にした瞬間。赤い血が、ばっとその場に弾けた。
彼女は――あろうことか、ヴィバリーの細剣に向かって自分の喉を押し当て、自分から刺さりにいったのだ。鮮血がほとばしり、ヴィバリーの顔を赤く濡らす。その表情に、一瞬戸惑いが見えた。そりゃそうだ、目の前で自分から首に剣を刺す奴がいたら誰だって戸惑う。
だが、そこはさすがに歴戦の騎士。ヴィバリーはすぐに冷静さを取り戻し、握った柄に力を込めた。すでに半ばまで喉に刺さった細剣を、さらに押し込むため。エルフとやらがどれだけ強靭だろうと、喉を完全に破られれば死ぬのは間違いない。何が狙いであれ、とにかく息の根を止めるのが先決。
だが、ここで問題が一つあった。それは――剣が少しも動かなかったことだ。
「ぐ……くっくっく……」
喉に剣を突き刺したまま、ガートルードは血を吐きながら笑った。突き通した首のわずかな筋肉で、刃を挟んで固定しているのだ。魔術で治療される前提なのか。いや、治るにしたって、こいつは俺と違って死ぬほどの痛みがあるはずだ。気が狂ってるとしか言いようがない。
「……!」
今度こそ、ヴィバリーはたじろいだ。そして、その隙をガートルードは見逃さなかった。
「ヴィバリー!」
そう叫んだのは、ユージーンだった。ユージーンは俺の渡した剣を再び振り上げて、組み合う二人に向かって突進する。だが――間に合わなかった。
「ぐ……ッ!?」
ヴィバリーの呻き声。何が起きているのか。俺は一瞬理解しかねた。最初、ヴィバリーが攻撃されたのかと思った。だが、そうではなかった。いや、ある意味で精神攻撃……なのか。
ガートルードはあろうことか、ヴィバリーの頭を左手で押さえ込み、自分の顔に押し当てていたのだ。つまり……キスしていた。口から溢れる赤い血を、相手に飲ませるかのように。強引で、退廃的な接吻。
ユージーンがどうにか引き剥がそうと近づくが、ガートルードはヴィバリーを盾にするように体を振って、手出しさせまいとする。
「アンナ!」
どうにか口を引き剥がしてそう叫んだ時、ヴィバリーの顔は嫌悪で青ざめていた。
遠くで待機していたらしいアンナは呼びかけに応えて、こちらに何かを投げつけた。ガートルードは首に剣を刺したまま、ヴィバリーの体をぱっと放し、大鎚ビリーも手放して、飛んできたものを片手で受け止めた。それは、こぶし大の石だった。大鎚をぶんなげた後で何を投げるのかと思ったら、ずいぶん原始的だ。
だが、ただの投石でもアンナの腕力では十分な破壊兵器になる。続けて、二発、三発と風を切って飛んでくる石ころに、ガートルードは徐々に避けきれなくなっていた。アンナの腕力が種族の壁を越えるほど強いってことか――いや。そうじゃない。喉をぶっ刺され血を垂れ流し続けたガートルードの体力が、ようやく限界に近づいているのだ。
肩をかすめ、腹を打たれ、五発めの石ころが、とうとうガートルードの脳天にジャストヒットした。彼女は喉から血を噴き出しながらもんどり打ってぶっ倒れ、地面で動かなくなった。
「くそっ……たれ!」
ヴィバリーが声を荒げて、ガートルードの顔を思い切り蹴りつけ、ついでに口に入れられた血をベッと彼女の顔に吐きかけた。血に染まった唇の色もあいまって、非常に怖い。相手が美女とはいえ、無理やりキスされるのはやはり不快だったらしい。
「……気が済んだかね」
ガートルードの背後から、男がすっと歩み出た。ヴィバリーは瞬間的に細剣をガートルードの首から抜き取り、今にも男を刺し殺さんばかりに構える。
だが、男の方に戦意は全くないようだった。……そもそも、団長が一人で戦っているというのに、こいつらはずっと突っ立って背後で見ていたのだ。薄情な騎士団だ。俺もまあ、基本見てただけだが。
「……迷惑をかけた。見ての通りの奴だ。我々にも止められん。月が沈めば多少は落ち着くはずだ。改めて明日、話をしよう」
男は無精髭だらけのぬぼっとした顔でそう言うと、倒れたガートルードの体をひょいと担ぎ上げ、女魔術師に向かって放り投げた。
「ああ、ガートルード様……! 死にかけて青ざめたお顔も、また格別の美……ウフフ……」
不気味なことを言いながら、女魔術師ジェミノクイスはガートルードの体をずるずる引きずっていった。
「あー……で、あいつら何だったんだ?」
荒野を去っていく四人を見送りながら、歩いてきたアンナが呟いた。
「さあね。明日また来るつもりらしいわ。ユージーン、あなたとは無関係なのよね?」
ヴィバリーが尋ねると、ユージーンは顔をうつむけながら首を横に振った。
「……そう。トーゴ、あなたは何か話したの?」
「いや、なんかいきなり襲われて……殺されかけて……大体それだけだ」
俺の雑な答えに、ヴィバリーはふっと皮肉な笑みを浮かべた。内心まだキレているのだろう。
「ふ、エルフらしいわね。そういう連中なのよ。何しにここまで出てきたんだか……」
そう言って、ちらりとユージーンを見る。ユージーンは悲しげに、ヴィバリーから距離をとった。自分のことを責めていると思ったのだろう。
「違うの、あなたのことじゃないわよ……ユージーン。拗ねないで」
ため息をつき、視線を逸らすヴィバリー。ユージーンはアンナに駆け寄り、足にすがりついた。
「よし、よし。お疲れさん。とにかく、今日はさっさと寝ちまおう。夜中に叩き起こされて、もうすっかりおねむだよ、あたしは」
拾った大鎚を肩で担ぎながら、アンナはユージーンの頭を軽く撫でた。ユージーンは「ンー」と猫みたいな声を出して、ぐったりとアンナに寄りかかる。夜中に走り回って、疲れたんだろう。
「やっぱ、こういうとこは子供だな。んじゃ、今夜は一緒に寝るか」
「……アンナ」
何か言いたげにするヴィバリーを、アンナはシーッと人差し指を立てて黙らせた。
「子供相手に変な心配しなさんな。んじゃ、あたしらは先に戻ってるよ」
もうすっかりうつらうつらしているユージーンを抱え上げて、アンナは馬車の方へ戻っていった。
残された俺はとりあえず、まだ気が立っているらしいヴィバリーを刺激しないように、そろそろと自分の剣を拾い上げる。だが、案の定素通りはできなかった。
「……あなたの世界に、エルフはいたの?」
ヴィバリーは背を向けたまま言った。唐突な質問に困惑しつつも、律儀に答える俺。
「え? いや……いないよ」
「本当に? でもさっき、『エルフ』って言葉を聞いて驚いていたわよね」
いちいち人の言葉を疑ってくるのは性格なんだろうが、やっぱり少しイラつくな。
「エルフってのは、俺の世界じゃ想像上の生き物だったんだ。魔術師とか、竜とかもそう。本の中にだけある、幻の生き物なんだよ。だから、本物がいるって聞いて驚いた。それだけだよ」
うんざりしつつ説明すると、ヴィバリーは疲れた様子でため息をついた。
「そう……わかった」
口に出して謝るような性格ではないが。そのばつの悪そうな顔を見るに、今のはちょっとした八つ当たりだったんだろう。なんとなく立ち去りにくい空気を感じて、俺はついでにこっちから質問を返してみた。
「……それで、この世界のエルフってのはどういう連中なんだ? ユージーンもエルフなんだろ」
ヴィバリーは少し考え込むようなそぶりを見せてから、独り言みたいに話し始めた。
「あの子と会ったのは……本当に偶然だったのよ。街道沿いの森で浮浪児みたいに暮らしていたのを、アンナが拾ってきて……どうしてそんなところにいたのか、詳しい事情は私たちも知らない。ただ、エルフが彼らの王国から出てくるのは本当に稀なことなの。まして、子供が一人でなんて……だから……」
「保護してたってことか?」
「……まあ、あの子は一人でも生き延びられたでしょうけどね」
自嘲気味に言って笑うヴィバリー。その表情を見て、俺もなんとなく察した。だいぶ不器用にではあるが、彼女も彼女なりにユージーンに愛着を抱いているらしい、ということを。仲間としてか、家族としてかはわからないが。
「ごめんなさい、質問は何だったかしら。駄目ね、私も疲れているみたい」
そういえば、エルフの話を聞こうとしたのにいつの間にかユージーンの話になっていた。
「えっと、俺はエルフのことを聞こうと思って……」
改めて聞き直すと、ヴィバリーはムッと眉をひそめた。ユージーンはともかく、エルフ全般にあまりいい印象がないようだ。
「エルフのこと……そうね。さっきの奴とユージーンを見てわかる通り、並外れた身体能力を持つ種族よ。銀髪と琥珀の瞳。両性具有の肉体。自分たちじゃ上位種族だなんて言っているけど……精神的にはそう優れているとは思えないわね。ユージーンがあんな風にならないように、教育方針を考えた方がいいかしら……」
「…………」
「詳しいことはまた話しましょう。私は先に戻るわ。あなたも、早く寝て体力を温存しなさい」
ヴィバリーはそう言うと、俺を置いてアンナたちの後を追って歩いていった。俺はしばらくヴィバリーの言葉を反芻しながら、その場にぽかんと突っ立っていた。
(……今、両性具有って言ったか?)
結局、俺はその一言が気になって朝まで眠れなかったのだった。
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