第8話 黒の騎士

「アンナ、そっちをお願い。私は道を拓く」

「あいよ」

 アンナとヴィバリーがうなづき合うと、二人の背後でみしみしと音がした。銀糸で吊り上げられていた竜が、縛めを解こうともがいているのだ。

「フー……フードゥーディ……我らの……トモ、ダ、チ……望む……ままに……」

 地の底に、轟くようなうめき声が響く。大鎚を構え、竜との対峙を待ち構えるアンナ。銀糸はすでにみしみしと音を立て、今にもはち切れそうだ。

 だが、敵は竜だけではない。俺の背後で、おんおんと声にならない叫びと、近づいてくる地響きが聞こえた。

「トーゴ、横にどいて」

 ヴィバリーが一言告げる。俺は前後のモンスターたちにビビって足が震えていたが、彼女が今にも俺の体ごと貫きそうな気迫で剣を構えるのを見て、慌てて横に転がった。その瞬間――

「ふっ!」

 まさに、閃光のようだった。俺が認識できたのは、ついさっきまで俺が立っていた場所に、今はヴィバリーが立っていること。そして、背後にぬぼっと現れた異形の巨人が、すでに頭を粉々に砕かれていることだけだった。

 ヴィバリーは手足の筋を伸ばしきった歪な姿勢のまま、まっすぐ突き出した細剣の切っ先をゆらりと揺らめかせた。

「大物の相手は、アンナに任せるつもりだったのに……」

 面倒臭そうに呟くヴィバリー。当のアンナは、今まさに糸を引きちぎった竜と、再びどつきあいを始めたところだった。

「こっちも大物相手にしてるんだっての!」

 不満げに怒鳴るアンナ。ユージーンは上から援護してくれているようだが、下に降りてくる気はないらしい。

「でも、私の相手の方が大きいじゃない」

 むくれたように言いながら、再び横穴に目を向けるヴィバリー。その奥では、頭を砕かれた土塊とがらくたが、再び完全な形をなそうと寄り集まりつつあった。

 彼女は深く息を吸うと、バネのようにギュッと手足を瞬時にちぢめ、巨体を連続して貫いた。正確に何回突いたのかはわからないが、その切っ先は、がらくたの体から家具や扉の木など硬質な部分を正確に射抜き、後方へと吹き飛ばしていった。後に残ったのは、穴だらけの土塊だけ。ヴィバリーの細腕と針みたいな剣で、こんな破壊ができるものなのか。

「……あなたも試しに切ってみる? 見た目より弱いわよ、これ」

 不意に、ヴィバリーが俺の方を見て言った。言われるまで、俺は自分が剣を持っていることさえ忘れていた。

「お、俺は……」

 俺が何もできずに突っ立っているのを見ると、ヴィバリーはふっとため息をついた。

「あなたを一緒に連れてきたのは、打算だと言ったわよね」

 俺に話しかけながら、ヴィバリーはピッと剣を振り回して、残った巨人の体を切断していった。さっき自分で言った通り、こいつの体を「切り拓いて」、フードゥーディのところまで進むつもりなのだ。

「私は自分の目を信頼してるわ。あなたを『使える』と感じたのは、間違いじゃないと思ってる。その気があるなら、戦い方を教えてもいい。荷物持ちじゃなく、本当に仲間になりたいのなら」

 使えるとか使えないとか――まるで新入社員の品定めみたいに言う。いや、確かに今の俺は、ヴィバリーたちに雇われた新入社員みたいなものなのだ。

 自分の立場は、よくわかってる……だからこそ、何か手伝えることを見つけようと思ってここまで来たんだ。役立てるかもしれないと思って。でも、その結果は……

 結局のところ、俺は何の力もない、ただの高校生なんだ。竜とか魔術師のいない元の世界でさえ、何もできなかった。自分を養うことさえ。異世界に来たからって、何かが変わるわけじゃない。

「おっ、俺には……無理だ。戦いなんて。俺は……何の力もないのに……」

 弱音を吐く俺に向かって、ヴィバリーは静かに、だが強い言葉で叱責した。

「くだらない自虐はやめて。何の力もない人間なんかいないわ」

 ヴィバリーは切り崩した土の巨人の胴体を蹴破って、悠然と穴の奥へ歩き出す。

「人間が無力だというなら、魔術師以外は誰もが無力よ。でも、それで納得するなら、誰も剣を取りはしない。腕力がなくても剣は振れる。剣を振れるなら、戦える。どれだけ弱い人間だって、生きている限り強くなれるの。あとは、生きる意志があるかどうかだけ。あなたは、どうしたい?」

 今なお蠢く土の怪物の胴体をくぐり、ヴィバリーは穴の向こう側から、俺に問いかけた。

「こっちへ来るか。そこで何もせずにいるか。選ぶのはあなたよ」

 卑怯な二択だ。本当は、別にこいつらと一緒に戦わなくても生きてはいけるんだ。そのへんの酒場でバイトか何か探せば、この変な世界ででも、平和に暮らすことはきっとできた。でも、俺は……変わりたかった。無力な自分から抜け出したかった。何かになりたかった。今までの俺じゃない、何かに。

 俺は剣を握りしめて、震えながら、ヴィバリーが空けた穴の向こうに踏み出した。暗い道だった。自分の足がどこを歩いているかもわからない。ただ、ヴィバリーの白い兜だけがぎらりと輝いて見えた。

「……そう。なら、一緒に行きましょう」

 そう言うと、ヴィバリーはゆっくりと歩き出した。俺は彼女と並んで足を動かしながら、踏み出したことの意味と、これから待ち受けることについて考えていた。考えはまとまらず、何もわからないまま……ただ、苦い予感だけがしていた。

 あきらめに近い確信があった。俺は、判断を誤ったのだと。そして、どちらを選んでも、俺は間違っていただろうということも。これが、唯一の道だったのだと。


 扉を剥ぎ取られたフードゥーディの部屋は、さっきと同じように、すぐ奥にあった。むき出しの穴の中に、フードゥーディは今もじっと佇んでいた。何事も起こらなかったかのように、壁を見つめて、言葉にならないつぶやきを口から漏らしながら。

「どう……するんだ」

 半ば答えを知りながら、俺はためらいがちに問う。ヴィバリーは無言で、地面に剣を突き立てた。剣と地面の間には、カタカタと音を立てて蠢く小さなトモダチが貫かれていた。

「フードゥーディは、生み出す魔獣以外は無力だ。私が周りを静かにさせておく。本体の片をつけろ」

 ヴィバリーは、最初の戦いの時と同じように口調を変え、有無を言わさぬ命令形で言った。

 自分の呼吸が浅く、荒くなるのを感じた。俺は――何をしてるんだ。もう、人殺しはしないと思っていたのに。真っ当に生きたい、なんて思っていたのに。「変わりたい」って、一体、俺は何に変わろうとしてる?

「あ……」

 体が震えた。今までみたいに、何もわからず立ち尽くしているわけじゃない。自分が置かれた状況も、何をすべきかもわかっていて、ただ、それが恐ろしくて震えていた。

 俺の前には、無力な背中がある。俺は、剣を握っている。まるで、あの時と同じに。

「ひ、人が……ひとり。ふたり。いやだ……ぼくは……誰も、いらない……」

 フードゥーディのつぶやきが聞こえる。俺は、そのつぶやきを消そうとしている。

 ヴィバリーは、地面から次々に生え出してくるトモダチを一つ一つ刺しながら、さっきとは打って変わった優しい声で俺に語りかけてきた。

「誰かが為さねばならないことなのよ。そして、今それができるのは、私たちだけ。放っておけば、地上でもっと大勢が死ぬかもしれない。これは決して、殺人ではない。私たちは、魔導師ウィザードによって下された刑を実行しているだけ」

 わかってる。理屈はわかってる。この世界では、これぐらいのことはたくさん起きてるってことも。でも……そもそも俺とアンナがここに潜ってこなければ、こいつは死ななくてよかったんじゃないのか。だとしたら、悪いのは俺たちなんじゃないのか。いや、元をたどればこいつが魔獣で家を……でも、こいつはなぜ……あの夫婦だけ……ああ、何をどう考えても、結局、やるべきことは変わらないのに。


 不意に、左手に何か硬い、冷たいものが当たった。振り向くと、ヴィバリーの顔がすぐそばにあった。息がかかるほど、間近に。

「……理屈で自分を御せないなら。私が御してあげる。肩の力を抜いて……」

 俺は、左手に触れたものの正体に気づいた。それは、兜だった。暗闇に溶けて見えないぐらい、真っ黒に染められた兜。俺は無意識に、その兜を受け取っていた。片手でも持てるほど軽く、薄い。

「その兜の下に立つ限り……お前の手は、お前のものではない。お前の剣は、お前のものではない。お前の罪も……私が受ける」

 その言葉は、俺を不思議と安堵させてくれた。これから自分の体がすることは、自分のすることではないのだと。そんな詭弁にすがるために、俺は祈るように頭を下げて、その兜に自分の頭を納めた。

 黒い兜はすんなりと頭に被さった。視界の端に、黒い縁が付いて、自分の息の音が、今までよりもはっきり聞こえた。

「……白の騎士として命ずる」

 ヴィバリーは俺に背を向けて、部屋の外と中から迫る魔獣たちと戦いながら、言った。

「黒の騎士、トーゴ」

 ごくり、と唾を飲み込む音。深呼吸の音。目の前の男を見据え、めまいに耐える。こいつのつぶやきを聞くな。こいつの気持ちを考えるな。これは、魔術師――人間じゃない。

「剣を、前に」

 俺は言われるままにした。剣を真っ直ぐ、フードゥーディの背中に向けて、体重をかけた。その感触、そのうめき、広がる赤いもの。目の前の、非人間的なすべて。痛みを感じない体で、その痛みを想像した。頭が熱く、手足が冷たくなっていくのを感じた。


 やがて、背後からずるり、ごとりと物の落ちる音がした。フードゥーディの魔術は途絶え、彼の友達は何もかも、もとのがらくたに戻ったのだった。

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