菜緒の変化と律の恩人


「倫理観自体は間違っていない。母親絶対主義をやめればいいだけだ」


「……私が……ママから……」

 菜緒は言い聞かせるように言っていたが、身体が震えていた。


「まぁ、自分のアイデンティティだったろうし、いきなりそうしろと言うのも難しいのかもしれんが、お前は一人じゃないだろ? お前を理解してくれる友達がいる」

 律が微笑むと、菜緒は穏やかな表情を見せた。


「そう……ですね。私には紀子や梨沙、花音がいますもんね」

 菜緒は何度も頷きながら言い、己に染み込ませているようだった。


「そうそう、友達は大切にしろよ。友達がいない俺が言うのも皮肉だけどな」


「わかっていますよ。大切にします」

 そう言った菜緒は、全く邪気を感じさせない朗らかな笑顔であった。


 気持ちの整理がつき、菜緒の更生に一歩近付いたな。と律は安堵した。


「じゃ、そういうことで。母ちゃんもいなくなったし、俺は帰るわ」

 律は椅子から立ち上がり帰り支度を始め、ダイニングキッチンから出ようとした。その瞬間、腹から空腹を知らせる音が鳴ったので、律は足を止め振り返った。


「ん? どうされました? 忘れ物ですか?」

 律の後ろについてきていた菜緒が、不思議そうな表情を浮かべた。


「腹が減ってきた。昼飯もお願いしていい?」

 律がキリッとした顔で言うと、

「はぁ……仕方ないですね」

 菜緒は大袈裟に肩をすくめたが、キッチンスペースに入っていった。


「ナポリタンとか食いてぇわ。味の濃いやつな」

 律は元いた席に座り直すと、軽く手を上げ注文をした。


「厚かましいですね。わかりました、お子様舌に合うように作りますよ」

 菜緒は半目で律を睨んで言ったが、最後にはなぜか微笑んでいた。


 結局、昼食を食べた後に律は菜緒と勉強を再開し、午後三時にはおやつ、午後六時半には夕食もごちそうになり、大満足で菜緒の家を出た。


 外は暗く夜道で帰路を辿る最中、律は菜緒とのやり取りを回想する。


 本音をぶつけ諭した甲斐もあってか、昼食以降の菜緒は刺々しくなかった。また、勉強は一人でやれと亜里沙に言われていたにも関わらず、律と勉強をやったのは亜里沙からの脱却に一歩前進したのかもしれない。


 とはいえ、菜緒に大層な説教をしたものの、律自身は決して強くなどはなかった。自分が言ったことが間違っているのではないか、逆に悪影響になるのではないか。と、律は常に心配していたし、菜緒とは総合的な力の差が歴然なので、自分なんかがという葛藤もあった。


 槙島教諭に強引に決められてしまいこうなったわけだが、不安はいつだって拭いきれない。人の本音が読め、感情をコントロールしやすい立場であるからこそ、選択を誤ってはいけないし悪用してはならない。


 律のポリシーだ。


 あの人なら、どうやって菜緒を更生させるかな。と律は夜空を見上げて、自分を変えてくれた恩人への思いを馳せる。


 そもそも、律が幼い頃は能力を制御できず、常に読みたくない本音、多くの人間の情報が入り込んできて暴走状態になっていた。


 なぜ自分だけこんなことになったのだろうか、知りたくもない本音が読めるのだろうか。


 ……何で普通じゃないんだろうか。


 律だけでなく、律の母である涼子りょうこも律の能力に悩み苦しんでいた。


 そして、律は幼稚園を途中でやめ、小学校一年生の時点で全く人を信用できない子供になってしまった。



 だが、律は幸運にも波多野輝成はたのこうせいという男と出会った。



 身長は百七十三センチ、奥二重の目に高い鼻、大きい口、整っている顔立ちをした波多野に対する律の第一印象は、悲しさを滲ませた黄金色の大木だった。


 波多野は、涼子の左腕が麻痺になった原因でもある大事件に巻き込まれており、事件の被害者の会を設立し、被害者の人達を一人一人見て回っており、丁度律が小学二年生に上がった時にやってきた。


『誰も信じてないって顔をしてるね。でも、律君は偉いな。悪用して、人を傷つけようとは思っていなかっただろう? 心が澄んでいて綺麗だもん。すっごく偉いね』

 波多野は律の頭を撫でた。


『波多野さん、この子は治るんでしょうか?』


『治る? 治す必要があるんですか?』

 深刻な面持ちで言う涼子に、波多野は軽く眉を寄せるだけだった。


『医者からは発達障害だと言われています。律は変な力を持っているからか、人より覚えも悪く注意散漫で普通じゃないんです』


『お母さん、律君が普通になって欲しいんですか? 律君は天才ですよ?』


 ……天才?

 その言葉に、律も涼子も固まった。


『僕……天才? これって悪い力じゃないの?』

 律は驚き顔を上げると、波多野はしゃがみ律と目を合わせ微笑んだ。


『天才だよ。それに、悪い力じゃないよ。どんな力も、悪いことに使ったら悪い力になっちゃう。でも、良いことに使えばそれは良い力になる。律君は悪者じゃないよね?』


『……うん』

 律が頷くと、波多野は嬉しそうな顔を見せた。


『ですが、この子の感受性は敏感すぎます。日常生活にも支障をきたしているんですよ?』


『そうですね。確かにオーバーヒート気味かもしれません。調節してみましょうか』

 引き続き不安そうな態度を見せる涼子に、波多野は淡白に返した。


『律君は今、見たくないものまで見えちゃっているよね?』

 波多野に聞かれると、律は大きく首を縦に振った。


『人が多い時は目を瞑ったり、誰もいないところを見たりするところから始めよう。慣れてきたら、特定の人だけを見て逸らすを繰り返していこうか』

 波多野は律の前で両手の人差し指を上げ、左右に動かした。


『それで治るんでしょうか?』


『ですから、治すつもりはありません。正直、この方法もやってみなければわかりません。けれども、能力を制御することと、能力を消滅させることはイコールではありません』


『どういうことですか?』

 律の説明に、涼子は眉をひそめていた。

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