律の訓練と偶然


 仮面夫婦の可能性が高いと律は思ったが、今直ぐ菜緒に話して上手く処理できる自信はなかったし、菜緒もそれに耐えうる精神状態ではないと律は判断した。


「両親の名前は?」


「父が宗司そうじで、母が亜里沙ありさです」


「今回は名前だけいいや。もうちょっと菜緒ちゃんと仲良くなってからにしようかな」

 不敵な笑みを浮かべて律は言った。


「……最悪」

 菜緒はそう呟いたが、表情は心なしか安堵しているように見受けられた。


「じゃ、勉強をやるか」


「直ぐ飽きるから、律さんを教えるの大変なんですよね」

 律が話題を切り上げると、菜緒は憎まれ口を叩きながら参考書を開いた。


 いつも何だかんだ文句は言うが、菜緒は丁寧に勉強を教えてくれる。こうやって身を砕けるところが、菜緒に友達がいる理由なのかもしれない。と律は思った。



 午後七時三十五分、律は横浜高島屋の地下一階にいた。


 この後、律は向坂に借りていた機器を返しに行くので、お礼に遠山が好きなロールケーキを買いにきていたのである。


 ロールケーキを買い終え、律は一階に上がり横浜高島屋を出た。そこは、ほぼ横浜駅と繋がっている場所であり、人通りが凄く多い。しかも、今日は金曜日なので余計に人が多かった。



 向坂との約束の時間は午後八時半。


 ここで少しやるか。と律は思い、邪魔にならない位置へと移動し人々を観察し始めた。


「別に送別会なんていらなかったのに、真由ちゃんも牧野君と予定があったんじゃない?」

 ——私が狙っていた男に色目を使っていた小娘が!


「ないですよ。先輩が一番大切ですから! 今日で終わりなんて悲しいですよぉ」

 ——ようやく辞めた。私の男に毎日ベタベタ触りやがって年増が! 今日は祝賀会だよ。


「えー、本当にラーメンでいいの?」

 ——初めてのデートがこんなに上手くいくとは思わなかった。可愛いし理想の子だ!


「はい。女性一人だと入りにくし、私高級料理とか苦手なんですよ」

 ——なわけないだろタコ! ったく何時間も歩かせやがって、お前とは今日で終わりじゃ!


「おっそーい。何やってんのよ! 一時間も待っていたんだからね!」

 ——もう! 毎回毎回遅刻してくるし、やっぱり遊び人って噂は本当なのかな?


「ごめんごめん。レポートを徹夜でやってたら、いつの間にか気を失ってたんだよ」

 ——こいつ顔はいいんだが、口煩いんだよな。そろそろ他の女に替えるか。


「吉巻、今から会社に戻って会議をやるぞ。溝口がやらかしたらしい」

 ——今日は同伴の予定だったのに、あのデブ!


「了解です。それにしても、また溝口さんですか。困ったものですね」

 ——お前の管理がずさんなんだよ。キャバクラのことしか考えていないハゲが!


 もう慣れたが、相変わらず酷い有様である。


 律は週に一度か二度、人が多い場所で人間観察をしていた。これには理由があり、勉学や他のことに頭を使うとその分だけ能力が鈍っていくので、定期的にやるようにと恩人から言われたからであった。


 人間観察に集中していた律は目を閉じ、一息つく。長い時間訓練を続けるのも、能力がオーバーヒートし情報過多になってしまうので休む必要があった。


 律は五分ほど目を休めた後、訓練を再開した。


 だが、その瞬間律は大きく目を開いた。


 なぜなら、数時間前に見た写真の中の女性が歩いてきたからだ。


 そう、菜緒の母……亜里沙である。


 しかも亜里沙は一人ではなく、二十代後半くらいの男性と腕を組みながら歩いており、親しげな様子であった。


 嫌な予感がした律は、亜里沙達と距離があったのでルーティンをし、亜里沙にピントを合わせた。


 ——今日は友達との飲み会って言ってるから、久々にお泊りができる。ゆっくりディナーとお酒を楽しんで、その後はホテルでも楽しむわよ。この子は私の物、渡すもんですか!


 ——金づるとして文句はないし、顔も身体もいいんだけど……そろそろ動かんとなぁ。


 律は亜里沙と連れの男の本音を読めたが、男の方については単純に深読みの時間が足りなかったので、何に対して動くのかを読み切れなかった。律はついて行こうか若干迷ったものの、変に怪しまれ警戒される方が困るので、ルーティンを解除し携帯電話で時間を確認した。


 午後八時十二分。


 亜里沙の件も気になるが、向坂との約束があるので律は横浜駅構内へと歩き始めた。


 約束の時間より三分ほど早く向坂探偵事務所に着いた律は、ドアをノックしようと手を伸ばした。その時、丁度ドアが開き中からボブカットヘアの女性が出てきた。


 予期せぬことで律は驚いたが、会釈をしエレーベーターのボタンを押してあげた。女性も律の気遣いに軽く頭を下げてくれたが、顔は全く笑っていなかった。


 ——浮気している主人と相手の女も絶対に許さない。慰謝料を搾り取ってやる!


 女性の表情は怒りで充満しており、そのままエレーベーターの中へと入っていった。

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