苦い思い出


「菜緒ちゃんのこと、真面目に考えてくださっているんですね」

 花音は嬉しそうに微笑んだ。その姿に律は照れくさそうに頭をかく。


「茜先生に頼まれたからな。それにキツイ性格だが、自発的にそうなったわけではないと認識を改めた。現にイジメられた奴らも菜緒を許しているし、更生させる余地はあるだろ」


「ありがとうございます。菜緒ちゃんのこと、よろしくお願いします」

 花音は律の言葉に立ち上がり、丁寧に頭を下げた。


「それには、斉藤の意識改革も必要だよ」

 律は軽く笑い、花音へ言葉と目で意を伝えた。


「はい、頑張ってみます! では失礼しますね」

 花音は元気良く答え、律へお辞儀をしてから去っていった。その花音の表情は、律と会話する前の曇ったものではなく晴れやかであった。


 崇拝していた花音はまだしも、紀子や梨沙、その他イジメを受けていた子達も、苦言は呈すものの菜緒を許した。それに、紀子や梨沙からも菜緒を気遣う連絡が何度も

律にきている。


 人の本音がわかる律はイジメの本質、加害者と被害者の関係修復が難しいことを充分に理解していた。だからこそ、菜緒が被害者と関係修復できたことが、律は純粋に驚いた。


 良い友達に恵まれている。いや、菜緒がその友達を引き寄せたのかもしれない。どちらにせよ、自分には手の届かない宝石を持っている菜緒が、律は少し羨ましかった。



『先生! また律君が勝手なこと言った!』


『だって、浩二君は穂乃果ちゃんが好きなんでしょ?』


『そんなこと言ってないよ!』

 ——何でわかるんだよこいつ!


『私、浩二君は暴力振るうから嫌い。美弥ちゃん、あっちに行こ』


『俺だってお前なんか好きじゃねーし!』

 ——嘘なのに!


『どうしたの? 浩二君、律君』


『先生、律君がまた勝手に人のこと言ってるんだよ。今度は俺が穂乃果のこと好きだって』


『律君、また言ったの?』

 ——またこの子か。毎回毎回、面倒事を起こしてうざいなぁ。


『だって本当のことだもん』


『一言も言ってねぇよ!』


『こら、浩二君! 暴力はダメよ』

 ——これだから頭のおかしい知恵遅れは……普通のクラスじゃ無理なのに。


『僕、頭がおかしいわけじゃないもん』


『……ん? 何のことかな?』

 ——頭が悪い癖に勘だけは鋭い小僧……化け物が!



 嫌な記憶が一瞬よぎった。


 この頃から、律は周りの人間を全く信用できなくなった。


 その後、一度だけ友達ができたが、律は非常に嫌な思いをした。


 物思いにふけっていると、その時の記憶が鮮明に呼び起こされるので、律は思考を停止しイチゴオレを勢い良く飲んだ。飲み終わると深呼吸をし、律はイチゴオレの紙パックをゴミ箱に捨ててから部室へ向かった。


 部室に入ると、奥で菜緒が目を瞑って正座をしていた。


「遅かったですね。来ないから、今日はラッキーだと思っていましたよ」

 目を開いた菜緒は、残念そうな顔をした。


「言うようになったな」


「律さんが素直に言えと言ったでしょう? 隠してもバレますしね」

 律に言い返した菜緒は、電気ケトルのスイッチを入れ、手提げバックから茶器などを出して何やら準備を始める。


「何やってんの?」


「お茶を作ります。昨日、律さんが茶道部ってそもそも何すんの? 抹茶が美味いなら飲ませろよと言ったので、実際にお茶を作って差し上げようかと。本来なら窯や柄杓を使って本格的にやりたいんですが、部室棟は火気厳禁なので、簡単にはなりますけどね」

 律の問いに、菜緒はテキパキと動きながら答えた。


「菜緒は茶が作れるのか?」


「習っていました」

 菜緒はそう言うと、電気ケトルで沸いた湯を茶碗に入れ、その中に茶筅も入れた。


「茶道ってやつか? 他にも習い事をしているのか?」

 菜緒の所作から単なる緑茶を用意しているとは思えず、律が重ねて聞いた。


「茶道、書道、日本舞踊、英会話、水泳、ピアノ、バイオリンを習っていました」

 少し上を向き、菜緒は言葉を羅列した。


「凄い数だな。まだ全部続けてんの?」


「……いいえ。中等部の頃に全部やめました。今は趣味で通っている料理教室だけです」


「何でやめたんだ? 飽きたの?」

 意味深な表情をした菜緒に、律は質問を続けた。


 が、ここで暫し沈黙の時間が訪れた。


 菜緒は茶筅を取り、茶碗に入れていた湯を電気ケトルの中に戻した。


「母にやめろと言われたので従っただけです」

 力なく放たれた言葉と菜緒の深刻そうな表情。

 ——これ以上は聞かないで欲しい。 


 今はやめておくか。と律は判断し、何も言わずに茶の準備を進める菜緒を見ていた。


 菜緒は茶碗に抹茶を入れ、自前の水筒からぬるま湯を注いだ。それから、茶筅で素早く茶碗の中をかき混ぜ、しゃこしゃこという音が鳴った。約三十秒が経過し、菜緒は茶筅を少しだけ浮かせ茶碗の中をぐるりと回してから、茶筅を茶碗の中から出した。


 菜緒は茶碗をテーブルに置き、手提げバックとは別の青いバックからタッパーを取り出した。そこから白い物体と小皿を出し、小皿の上に白い物体を乗せて茶碗の隣に置いた。

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