第二章

向坂探偵事務所


 京急黄金町駅から南へ徒歩五分、律は商店街の中にある五階建てで灰色の雑居ビルに入っていった。そして、エレベーターに乗ると迷わず三階のボタンを押す。エレベーターが三階に到着し扉が開くと、目の前に向坂探偵事務所とパネルが付いたドアがあった。ここには受付のインターフォンがないので、律はドアをノックした。


「いらっしゃい。りっちゃん」

 そう言ってドアを開けてくれたのは、涼しげな雰囲気を感じさせる女性だった。


 遠山彩夏とおやまさやか。二十七歳。

 身長は百五十五センチ前後、黒髪ショートカットヘア、灰色のニットにえんじ色のタイトスカートという身なりで、槙島教諭にも劣らぬ美女。向坂探偵事務所の秘書兼アシスタントをしている。なお、律が入学してから知った話になるが、槙島教諭とは大学時代からの親友らしい。


「シフォンケーキを作ったんだけど、食べるよね?」

 入るなり遠山が言った。律が頷くと、遠山は嬉しそうに給湯所へ向かった。


 部屋は三十畳。奥にデスクが二つあり、黒皮の四人掛けソファがテーブルを挟んで二つ。壁の色は深緑色で統一されており、書類棚が壁に並んでいる。


「向坂さん、朝早くにすみません。日曜だから忙しいでしょう?」

 律は奥のデスクから現れた大柄な男に向かって言った。


 向坂慎司こうさかしんじ。四十七歳。

 体格は良く身長は百八十センチは超えている。手入れがされていないボサボサの髪に彫りが深い顔つき、口と顎だけでなく頬まで覆う無精ひげ、大体いつも紺色のスーツを着ており、今日も服装は同じだった。


 ちなみに、律を人間ポリグラフと揶揄したのはこの人である。


「くぁ……あ。お前の頼みだしいいよ。遠山君、俺にはコーヒーね」

 向坂は大きなあくびをした後、ソファに座った。


 向坂探偵事務所は律の力を正しく扱ってくれる上で、小遣い稼ぎができると律の恩人が紹介してくれた場所である。向坂と遠山とは小学生時代からの付き合いなので、律にとっては親戚という感覚だった。


 律は向坂とは対面のソファに座り、携帯電話を取り出した。


 向坂探偵事務所の営業開始時間は午前十時からで、今は午前九時である。申し訳ないという思いから要件を手短に済ませようと、律は携帯電話の液晶画面を向坂に見せようとした。


 しかし、向坂がタバコを出して口にくわえたので、

「所長! りっちゃんや未成年がいる時はタバコ禁止って言いましたよね? 受動喫煙は健康に良くないんです。所長がタバコでくたばるのは構いませんが、若者の寿命を削らないでください。吸うならこっちの換気扇の前でお願いします」

 遠山が辛辣な口調で捲し立てた。


「へいへい。わかりましたよ」

 向坂は舌打ちをし、遠山がいる方へ行った。


 別にいいんだけどなと思いながら、律は携帯電話をテーブルの隅に置き、ソファに深く腰を据えた。


「お待たせ。さぁ、食べてみて」

 カットされたシフォンケーキと生クリームがのった皿と、紅茶が入ったティーカップを持ってきた遠山は、律の隣に座るや否や勧めてきた。


「では、いただきます」

 律はシフォンケーキをフォークで割り、口へと運ぶ。卵の風味を感じるシンプルな味だが、甘すぎず丁度良い。続いて律は生クリームを付けて食べてみた。甘い生クリームが素朴なシフォンケーキと絶妙にマッチしていて、めちゃくちゃ美味い。甘味が大好物の律的には、生クリームを付ける方が断然好みの味であった。


「凄く美味しいです。彩夏さん、また上手になりましたね」

 律が褒めると、遠山は破顔していた。


「入学早々ウチに来たってことは、茜に何か言われた?」


「その通りです。彩夏さんには聖穏学園を紹介してもらって感謝をしていますが、あの先生相当な曲者ですよ」

 律が苦笑すると、

「茜は大学も首席で卒業したし、凄いのは間違いないけど確かに飄々としてるもんね。でも、確固たる正義心があって根は悪くないのよ」

 遠山は律に同調しつつも、言い聞かせるように頷いていた。


「それはわかります。思い自体は芯が通っていますからね。だけど、名前で呼ばそうと強制してくるし、異様に慣れ慣れしいんですよね」


「茜がそんな態度をするなんて、珍しいわね。あの子、妙にガードが堅いんだけどなぁ」


「え? 全くそんな感じはしませんよ」

 律は飲んでいた紅茶を少し噴き出しそうになった。


「茜に気に入られたのよ。良かったじゃん」


「そのお陰でここに来たんですけどね」

 律が肩をすくめると、遠山は笑った。


「で、その先生に何を頼まれたんだ?」

 タバコを吸い終えたようで、向坂が再び律の前に座った。


「イジメの解決です。向坂さん、これを見てください」

 律は携帯電話の位置をテーブルの真ん中へと動かし、撮影した部室の写真を見せた。


「茶室?」


「はい。主犯格が根城にしている茶道部の部室です」

 律は遠山の問いに頷いた後、二人を交互に見た。向坂はコーヒーを一口飲むと、ソファに深く座り直した。


「イジメの証拠を握るため、隠しカメラを置きたいんだな?」

 向坂は律の目を見て言った。伊達に長年探偵業をやっているわけではない、まだ何も言ってていないのに凄いなと、律は素直に感心した。


「さすが向坂さん、話が早くて助かります。隠しカメラを借りたいのと、部屋全体が映るにはどこに設置すればいいのかを教えて欲しいんです」


「まぁいいが、それにしても意外だな。他人を隠し撮りするのは、お前のポリシーに反するんじゃないのか? ウチで仕事を依頼する時も、こういうことは絶対にやらないだろ?」

 そう言い返してきた向坂は、あまり納得していない様子であった。


「イジメられるのは俺なんで、それについては平気です。俺も映りますからプライバシー的には問題ないですよね?」


「は? 律がイジメられてんのか?」

 淡々と話す律に対し、向坂は眉をひそめた。


「いえ、元々は女子同士のイジメです。ですが、主犯格にちょっかいをかけて、矛先を自分へ向けました」

 引き続き平坦な口調で事情を話す律であったが、

「……お前さぁ」

「りっちゃんらしいやり方だね」

 向坂と遠山は失笑していた。

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