第59話
蓮穂は言葉を続けようしていたが、口が震え始める。
「……それなのに何も悪くない。お前のせいじゃない……って」
蓮穂は息を吐いた後、下唇を噛んだ。
「こんな私を認めてくれていて、わかってくれているんだなって。小田切さんも辛いのに、そんなこと……言って。頭の中で想いがグルグル回りだしたら、離れたくないってそれしかなくて、勝手に涙が出ていて……」
涙という言葉を発した際、蓮穂は感極まる声色になったが堪えていた。そして、雅彦へしっかりと瞳を合わせる。
「本当にいいんですか?」
「ああ」
「望んで……いいんですか?」
「ああ!」
絞り出すような声に対し、雅彦は力強く答えた。
「小田切さん。私はね……」
蓮穂は大きく呼吸をした後、泣きそうになっている状態から無理やり笑顔を作ってきた。
「死なないよ。絶対に……死なない!」
そう強く言う蓮穂に、目を見張る雅彦。言い終えると、蓮穂は再び涙を浮かべた。
「だから……ね」
身体を震わせながら言った後、蓮穂の口から続いた言葉。
「いなくならないで」
それは、欲しかったもの。
「……もう……いなくならないで」
自分を捨てた父と母。不安しかなかった存在意義と他者への依存。
それでもやっぱり、欲しかったもの。
雅彦は全身に鳥肌が立った。
気付くと、蓮穂をそっと抱き締めていた。
「俺達は家族だ。俺は、絶対にいなくならないよ」
そう、蓮穂の耳元に囁く。
「蓮穂、良く我慢したね」
蓮穂の頭を優しく撫でて雅彦が言った。
蓮穂の上半身が激しく上下に揺れた。はっはっはっ。と荒い息を繰り返した後、蓮穂が声を上げる。
「あっあああっああぁああああぁあぁっああああああああ」
呻くような泣き声。
小刻みに揺れる身体、溢れ出る涙が止まらずに蓮穂の頬を濡らしていた。
凍て付いていた氷が、ゆっくりと溶けていくように。
……蓮穂はようやく……少女に戻ることができた。
雅彦が蓮穂の頭と背中をさすっていると、ベッドから上半身を起こした華耶が寝惚け声を出した。その後、華耶と雅彦の目が合う。
華耶は何度も瞬きをした後、
「あー。おねえちゃんなかしてる!」
と叫んだ。
それからベッドから飛び出て、雅彦の前に仁王立ちをする。
「まさひこ!」
そう睨む華耶は、子供ながらに迫力があった。
「ち……ちがう……嬉しいの……嬉しくて泣いてるの」
蓮穂が手で涙を拭い、華耶に説明をした。
「ん? うれしいときもなくの?」
「嬉しい時も泣くんだよ」
「おねえちゃん、うれしいことあったの?」
目が点になっている華耶の問いに、蓮穂はにっこりと頷いた。
「そっか、じゃあまさひこゆるしてあげる」
華耶は呆気らかんとして言った。その仕草に、雅彦と蓮穂が目を見合わせ、たまらず笑い声を上げた。
「なんでわらうの?」
華耶は口を尖らせた。蓮穂が笑みを浮かべながら、不貞腐れている華耶の頭を撫でる。
「華耶。これからは、小田切さんと、私と、三人ずっと一緒だよ」
「え? おじちゃんのところじゃないの?」
「違うよ。小田切さんのところだよ」
「これからもずっと? いっしょう?」
蓮穂に聞き返す華耶が、徐々に破顔していく。
「うん。私達がいないと、小田切さんは寂しいって」
華耶へそう言い、流し目で雅彦を見た蓮穂は、クスっと笑った。
「ふぅん。へぇ」
華耶は意味深なにやけ顔。雅彦は二人からの攻撃に苦笑いを浮かべてから、華耶の頭に手を乗せた。
「そうだな。いてくれないと寂しい。これからも一緒にいてくれるか?」
雅彦が言う。華耶はもじもじしていたが、
「……いいよ。べつに」
と顔を背けて呟いてから、
「でも、もうずっとだからね!」
横目で雅彦を見ながら言った。
「ああ。約束するよ」
雅彦は華耶の頭を撫でながらしっかりと答える。すると、次第に華耶の頬が赤らんでいった。
「むぎちゃのんでこよっと」
華耶はそう言って、小走りで部屋から去った。階段を下りる軽快な音が部屋まで響いた。
「あいつ。マイペースだよな」
「照れているんですよ。本当に嬉しい時の反応です」
蓮穂は微笑みながら雅彦へそう言った。
蓮穂の言葉に、雅彦は運動会での仕草を思い出し、
「確かにそうだな」
と言って笑った。
「俺達は、もう家族になっていたのかもな」
「そうですね」
雅彦の呟きに、蓮穂は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「あと、さん付けとか、やめていいから。家族で呼び方に気を使うのっておかしいだろう」
雅彦は咳払いをした後、恥ずかしい思いを隠しつつ言った。
「えっ。でも、どう呼べば? 華耶みたいに小田切さんを呼び捨てにするのは、ちょっと抵抗があります」
雅彦からの提案に対し、蓮穂は真面目に返答した。
「運動会で呼びそうになったやつでも構わんが?」
雅彦がそれとなく促すと、蓮穂は硬直する。そして、見る見るうちに顔を紅潮させた。
「……すみません。ずっとそういうのに憧れていまして、勝手に心の中でそう呼んでいたんですけど」
俯きながら言った蓮穂は暫し黙った後、
「でも、嫌じゃないですか?」
と上目遣いで雅彦へ確認。
雅彦は蓮穂の所作に口元を緩めながらも、鼻を鳴らした。
「妹が遠慮するんじゃねぇよ」
そう言った雅彦の言葉に、蓮穂は顔を上げて頬を緩ませる。顔を赤く染めたまま唇をキュッと噛むと、はにかんだ。
「ありがとう。お兄ちゃん」
無邪気で眩しい笑顔から放たれた、懐かしい呼称。
独りではないのだと実感できる言葉。
もう得ることができないはずだった当たり前を、雅彦は大切に刻み込んだ。
空の先は青白く、その上には色を主張するあかね雲、どこかノスタルジックな気持ちにさせる夏の夕暮れ、夜の匂いがし始めた。
身体にまとわりついていた暑さも和らぎ、雅彦達は三人一緒に三葉児童園を出た。
夕食どうしようか、カレーがいいな、海老もいれよう、華耶も今日は手伝う、本当にできるの?
何気ない、普段通りの会話。
途中で買い物をしてから帰宅し、一段落してから皆で夕食を作り始めた。
華耶が皮むきを手伝った野菜が歪な形になったり、蓮穂と雅彦は調味料の配合について話し合ったりと、些細なことで笑いながら料理をする三人。
そんな、いつもの時間。
雅彦は思う。
これから進む道は険しい。世間からの好奇な目と、金銭的な問題、二人は横浜という新たな環境へ適応しなければならない上に、多感な思春期が訪れる。
正直不安がないと言ったら嘘になるし、やることや考えることは山積みだ。
でもまずは……。
そう心で呟くと、雅彦は夕食が並べられたテーブルの前に腰を下ろした。
「ちょっと待て」
早速華耶が食べようとしたので、雅彦が止めた。
華耶が不思議そうな表情を雅彦へ向けるが、雅彦は蓮穂と華耶を交互に見た後、ゆっくりと胸の前で両手を合わせた。
雅彦の仕草に蓮穂と華耶は満面の笑みを浮かべ、同じように胸の前で両手を合わせた。
顔を見合わせ、頷く三人。
そして、一斉に言った。
「いただきます」
家族の定義 宗治 芳征 @naichisa
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